第五十三話 男装の薫、沖縄の地へ
第五十三話 男装の薫、沖縄の地へ
船が沖縄の港へ近づくにつれ、薫の胸の鼓動は、少しずつ速くなっていった。
船内を行き交う兵士たちの声が、いつもより大きく聞こえる。
「到着に備えろ!」
「荷物を確認しろ。降りる順番を間違えるな!」
短い命令が飛び交い、乗組員たちは慌ただしく動き始めた。
薫は厨房の隅で、帽子のつばをそっと押さえた。
とうとう、ここまで来た。
山口を離れ、見知らぬ船に乗り、男の姿をして、言葉を話せない者のふりを続けてきた。
何度も怖くなった。
船に乗っていることが知られたらどうしよう。
男装を見破られたらどうしよう。
そして、何よりも――沖縄に着いたとき、さとるがすでに出撃していたら。
考えるだけで、息が詰まりそうになった。
薫は胸元に手を当てた。
今は、考えても仕方がない。
会えるかどうかは、まだ分からない。
それでも、ここまで来たのだから。
「薫、準備はいいか」
料理人の声に、薫は顔を上げた。
彼はいつものように厨房の道具を片づけながら、薫の様子を確かめていた。
薫は小さくうなずいた。
「よし。港に着いたら、俺の近くを離れるな。周りには大勢の兵士がいる。何か聞かれても、今までどおり、身振りで答えればいい」
薫はもう一度うなずいた。
「ただし、俺が助けられることにも限りがある。怪しまれたら、無理に動かず、まず俺を見るんだ。いいな」
薫は、料理人の目をまっすぐに見つめた。
それから、両手を胸の前でそろえ、深く頭を下げた。
何度礼を言っても足りない。
この人がいなければ、自分はここまで来られなかった。
料理人は、少し照れくさそうに頬をかいた。
「だから、礼はあとでいいって。まずは無事に降りることだ」
薫は小さくうなずいた。
そのとき、船体が大きく揺れた。
外から、風に混じって港の音が聞こえてくる。
薫は思わず顔を上げた。
海の向こうに、陸地が見えた。
遠くに広がる島影。
その輪郭は、朝の光の中で少しずつ鮮明になっていった。
沖縄。
さとるのいる場所。
薫は、その景色を見つめたまま、動けなくなった。
嬉しいはずだった。
ここまで来られたのだから。
もう少しで、さとるにつながる何かを見つけられるかもしれないのだから。
けれど、胸にこみ上げてきたのは、喜びだけではなかった。
怖かった。
陸地が近づくほど、さとるとの距離が縮まっているように感じる。
同時に、会えなかったときの絶望まで、現実のものになっていく気がした。
薫は唇をかみしめた。
――さとる。お願いだから、生きていて。
*
やがて、船は港へ入った。
岸壁には軍服姿の人々が集まり、荷物を運ぶ者や、到着した船を確認する者たちが忙しく動いていた。
遠くから聞こえる命令の声。
木箱が地面に置かれる音。
船と岸壁をつなぐ作業の音。
山口で見慣れていた景色とは違う、戦地の慌ただしさがそこにあった。
薫は料理人の後ろに立ち、周囲を見渡さないように気をつけながら、目の端で人々の様子をうかがった。
ここに、さとるがいるのだろうか。
この港のどこかを、彼も歩いたのだろうか。
同じ風を受け、同じ海を見たのだろうか。
そう考えるだけで、胸が締めつけられた。
「おい、そこの兵!」
突然、背後から声が飛んできた。
薫の肩が跳ねた。
呼ばれたのは、自分だろうか。
それとも、隣にいる料理人だろうか。
振り返りたい気持ちを必死に抑えていると、料理人が自然な動作で一歩前に出た。
「はい、何でしょう」
声をかけてきたのは、荷物を確認している兵士だった。
「そいつは誰だ」
兵士の視線が、薫に向けられた。
薫の喉が、ぎゅっと締まった。
帽子を深くかぶっている。
髪も隠している。
軍服も着ている。
それでも、見られているというだけで、すべてが見抜かれてしまうような気がした。
料理人は、落ち着いた声で答えた。
「厨房の手伝いです。船の中で雑用をさせていました」
「名前は?」
薫の指先が冷たくなった。
名前を聞かれた。
どうすればいい。
声を出せば、女だと気づかれるかもしれない。
けれど、答えなければ不審に思われる。
薫が動けずにいると、料理人が続けた。
「こいつは、うまく話せないんです。聞こえてはいるようですが、返事は身振りでしかできません」
兵士は眉をひそめた。
「話せない?」
薫は、ゆっくりとうなずいた。
兵士は薫の顔を見つめた。
その視線が、帽子の下に隠した顔を探るように感じられた。
「顔を上げろ」
薫の心臓が、大きく跳ねた。
料理人は口を挟まなかった。
ここで不自然にかばえば、かえって怪しまれる。
薫は、言われたとおり、ほんの少しだけ顔を上げた。
兵士の目と、自分の目が合った。
逃げてはいけない。
目をそらしすぎてもいけない。
薫は、必死に震えをこらえた。
「……まあいい。荷物を運ぶなら、邪魔にならないようにしろ」
兵士はそう言うと、別の兵士に声をかけながら去っていった。
その姿が人混みに消えるまで、薫は動けなかった。
やがて料理人が、小さな声で言った。
「もういい。行くぞ」
薫は、ようやく息を吐いた。
足元がふらついた。
料理人が気づき、さりげなく彼女の腕を支えた。
「大丈夫か」
薫は、うなずこうとした。
けれど、首がうまく動かなかった。
怖かった。
本当に、怖かった。
あと少し問い詰められていたら。
帽子を取れと言われていたら。
もし女だと知られていたら。
自分はどうなっていたのだろう。
料理人は、薫の腕からそっと手を離した。
「よく耐えたな。でも、これからも同じことがあるかもしれない。気を抜くなよ」
薫は、何度も小さくうなずいた。
そして、もう一度だけ、深く頭を下げた。
船を降りた薫が最初に感じたのは、地面の硬さだった。
長い船旅のあいだ、身体は揺れに慣れてしまっていた。
岸壁に足を下ろした瞬間、地面が動かないことに、かえって違和感を覚えた。
けれど、その感覚を味わっている余裕はなかった。
周囲には、見知らぬ兵士が大勢いた。
どこへ行けばいいのか。
どこで誰に尋ねればいいのか。
さとるがいる場所を知る者はいるのか。
薫には、何一つ分からなかった。
料理人は、荷物を持ち直しながら言った。
「まずは、俺たちの行く場所へ向かう。おまえが勝手に探し回れば、すぐに目をつけられる。焦る気持ちは分かるが、今は我慢しろ」
薫は、うつむいた。
頭では分かっていた。
沖縄に着けば、すぐにさとるに会える。
そんな保証は、最初からどこにもなかった。
それでも、心の中では何度も、再会する瞬間を思い描いていた。
さとるが振り返る。
驚いた顔をする。
そして、自分の名前を呼んでくれる。
その声を聞いたら、きっと今までこらえてきた涙が一度にあふれるだろう。
抱きしめてもらいたい。
生きていてくれてありがとうと、伝えたい。
けれど、今はまだ、その瞬間は訪れない。
薫は帽子のつばを直し、料理人の後を追った。
港から離れるにつれて、景色が少しずつ変わっていった。
道の脇には、軍用の荷物が積まれていた。
兵士たちが忙しそうに行き交い、遠くから車両の音が聞こえてくる。
人々の表情には、疲れと緊張が浮かんでいた。
薫は、道の向こうに目を向けた。
沖縄は、二人が高台で思い描いていた未来とは、まるで違う場所だった。
さとると一緒に旅をしてみたい。
海の見える町で暮らしたい。
戦争が終わったら、何でもない毎日を送りたい。
あの頃、二人が夢見たのは、そんな小さな願いだった。
けれど、ここには戦争があった。
そして、さとるは、その戦争の中にいる。
薫は、胸の奥が痛くなるのを感じた。
自分は本当に、彼を見つけられるのだろうか。
もし、彼が出撃の準備を進めていたら。
もし、もう海へ出てしまっていたら。
もし、どれだけ探しても、会えなかったら。
考えるたびに、足が止まりそうになった。
それでも、薫は歩き続けた。
立ち止まれば、怖さに負けてしまいそうだったから。
*
しばらくして、料理人と薫は、兵士たちが集まる建物の近くへたどり着いた。
料理人は、知り合いの兵士を見つけると、声をかけた。
「すまない。少し聞きたいことがあるんだが」
「何だ?」
「このあたりに、潜水艦で来た部隊がいると聞いた。どこへ行けばいいか、分かるか」
その言葉を聞いた瞬間、薫の身体がこわばった。
潜水艦。
さとるが乗っているかもしれない船。
料理人は、薫のことを直接尋ねるのではなく、まず部隊の所在を探ろうとしていた。
兵士は少し考えた。
「潜水艦の部隊なら、いくつか来ている。だが、詳しい配置は俺にも分からん。担当の者に聞いてみたらどうだ」
「そうか。助かる」
料理人は礼を言い、薫を連れてその場を離れた。
薫は、料理人の袖をそっと引いた。
彼が振り返る。
薫は、両手で小さく船の形を作り、それから沖の方角を指さした。
さとるのいる場所を探してほしい。
その思いを伝えたかった。
料理人は、すぐには答えなかった。
しばらく薫の仕草を見つめ、それから静かにうなずいた。
「分かっている。おまえが探している人は、潜水艦に関係する部隊にいるんだな」
薫は、強くうなずいた。
「だが、ここで大声で尋ね回るわけにはいかない。誰が聞いているか分からないからな。少しずつ情報を集めよう」
薫は、何度も頷いた。
今すぐにでも走り出したかった。
見知らぬ兵士たちに、一人ずつ尋ねて回りたかった。
さとるを知りませんか。
山口から来た、二十歳の兵士を知りませんか。
そんなふうに、声を上げて尋ねられたら、どれほど楽だろう。
けれど、今の自分には、それができない。
薫は男装している。
話せない者として振る舞っている。
さとるを探すために守ってきた秘密が、今度は彼を探す足かせになっていた。
薫は悔しさに唇をかんだ。
料理人は、その表情を見て言った。
「焦るな。ここまで来たんだ。すぐに答えが見つからなくても、できることはある」
薫は顔を上げた。
「まずは、俺たちがここにいて不自然に思われないようにする。それから、少しずつ聞いていく。おまえ一人で動くより、そのほうが可能性はある」
薫は、深くうなずいた。
すぐに会えないかもしれない。
明日になるかもしれない。
何日も探さなければならないかもしれない。
それでも、探すことをやめるつもりはなかった。
*
その日の夕方、薫は料理人の手伝いをしながら、何度も外の様子に気を取られていた。
新しく到着した兵士たちが、列を作って移動していく。
その中に、さとるがいるのではないか。
通り過ぎる人影を見るたび、薫の心臓は跳ねた。
背格好の似た兵士がいると、思わず目で追ってしまう。
けれど、違う。
帽子の形が違う。
歩き方が違う。
顔が見えない。
何度も期待しては、何度も違うと気づかされる。
やがて薫は、手元の作業を間違えた。
器を置こうとして、隣の器にぶつけてしまったのだ。
乾いた音がして、薫はびくりと肩を震わせた。
「おい、大丈夫か」
料理人がすぐに近づいてきた。
薫は慌てて器を拾い、申し訳なさそうに頭を下げた。
「いい。割れていないなら問題ない」
料理人は器を確かめ、それを元の場所へ戻した。
「気持ちは分かる。外が気になるんだろう」
薫は、うつむいたまま小さくうなずいた。
「だが、ずっと外を見ていても、今すぐ会えるとは限らない。おまえが疲れ切ってしまったら、いざというときに動けなくなる」
薫は、手を止めた。
料理人の言葉は、厳しいようでいて、彼女を責めてはいなかった。
「今日は、ここまでにしよう。食事をして、少し休め」
薫は首を横に振った。
まだ働ける。
休んでいる時間が惜しい。
そう伝えようとした。
けれど料理人は、首を横に振り返した。
「休むのも、今のおまえに必要な仕事だ」
薫は、思わず彼の顔を見つめた。
「さとるという人に会いたいんだろう」
その名前を聞いた瞬間、薫の目が大きく開いた。
料理人は、少しだけ声を落とした。
「名前を聞いたことはあったからな。おまえが海を見るたび、誰かを思い出しているのは分かっていた」
薫の目に、涙が浮かんだ。
料理人は、見なかったふりをするように、鍋の方へ視線を向けた。
「会いたい人に会うためにも、身体を壊すわけにはいかない。今日は休め。明日、また一緒に探そう」
薫は、唇をかみしめながら何度もうなずいた。
その言葉を聞いて、胸の奥に張りつめていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。
ここには、さとるはいない。
まだ、見つかっていない。
それでも、自分は一人ではなかった。
そのことが、薫を支えていた。
夜。
薫は、与えられた休息場所の片隅に座っていた。
周囲からは、人々の話し声や、遠くを行き交う車両の音が聞こえてくる。
目を閉じても、なかなか眠れなかった。
沖縄に着いた。
とうとう、さとるのいる場所まで来た。
それなのに、まだ会えていない。
すぐ近くにいるかもしれないのに、どこにいるのかも分からない。
薫は帽子を膝に置き、短くなった髪にそっと触れた。
髪を切った日のことを思い出す。
鏡の前で、何度もためらった。
はさみを持つ手が震えた。
長い髪は、薫にとって、これまで生きてきた時間そのもののように思えた。
それを切り落とすことは、自分が何か大切なものを失うことのようだった。
けれど、あのとき、薫には選ぶ余地がなかった。
さとるに会いたかった。
生きているうちに、もう一度会いたかった。
その願いだけが、彼女を前へ進ませた。
薫は帽子を胸に抱いた。
「……さとる」
声にはならない。
それでも、唇は彼の名前を形作った。
今、彼はどこにいるのだろう。
何を考えているのだろう。
怖がってはいないだろうか。
眠れているだろうか。
誰かと話をしているだろうか。
それとも、出撃のことだけを考えているのだろうか。
薫は、ぎゅっと目を閉じた。
さとるが死ぬところなど、想像したくなかった。
想像するだけで、自分の心まで壊れてしまいそうだった。
彼と過ごした時間を思い出す。
高台で見た夕日。
隣に座ったときの温もり。
何でもない話をして、二人で笑った時間。
戦争が終わったら、二人で生きていこう。
あの約束を、薫は今も信じていた。
たとえ、さとるがその約束を信じられなくなっていたとしても。
たとえ、彼が未来を思い描くことさえ怖くなっていたとしても。
自分は、彼に会って伝えたい。
あなたは一人ではない。
あなたの帰りを待っている人がいる。
あなたと一緒に生きたいと願っている人が、ここまで来たのだと。
薫は、ゆっくりと顔を上げた。
窓の外には、夜の闇が広がっていた。
その向こうに、沖縄の海がある。
そして、海のどこかに、さとるがいる。
今はまだ、会えない。
けれど、ここから先へ進めば、きっと何かが見つかるかもしれない。
薫は帽子をかぶり直し、深く息を吸った。
明日も探そう。
どんなに時間がかかっても。
どんなに怖くても。
さとるが生きている可能性がある限り、諦めたくない。
そのとき、遠くから船の汽笛が聞こえた。
低く、長い音だった。
薫は、思わず顔を上げた。
その音は、海の向こうまで響いていくようだった。
山口にいた頃なら、ただの汽笛として聞き流していたかもしれない。
けれど今は違う。
海は、さとるがいる場所につながっている。
そして同時に、彼を奪ってしまうかもしれない場所にもつながっている。
薫は、胸の前で手を重ねた。
――お願い。どうか、間に合って。
その願いは、夜の闇に吸い込まれていった。
まだ、さとるの居場所は分からない。
再会の約束もない。
明日、何が起こるのかさえ分からない。
それでも薫は、沖縄の地に足をつけた。
もう、故郷から遠く離れた海の上にいるだけではない。
さとるを探すための、新しい一日が始まろうとしていた。
そして、同じ夜。
沖縄の別の場所で、さとるは暗い部屋の中、眠れずにいた。
彼はまだ知らない。
薫が、ほんの少しずつ、自分のいる場所へ近づいていることを。
海を隔てていた距離は、確かに縮まった。
けれど、二人の前には、まだいくつもの壁が立ちはだかっていた。
戦争という大きな壁。
軍の命令という壁。
そして、いつ下されるか分からない出撃命令という、残酷な時間の壁。
薫は、そのすべてを知らないまま、さとるに会うことだけを願っていた。
さとるもまた、彼女が近づいていることを知らないまま、生きて帰りたいと願っていた。
二人の願いが重なる日は、まだ訪れていない。
けれど、沖縄の夜の海は、静かに二人をつないでいた




