第五十二話 海の向こうにいるあなた
第五十二話 海の向こうにいるあなた
船が沖縄へ向かって進み始めてから、二日目の朝を迎えた。
薫は、まだ薄暗い厨房で目を覚ました。
慣れない船の揺れと、絶え間なく響く機械の音。昨夜も何度か目を覚まし、そのたびに自分がどこにいるのかを思い出した。
ここは故郷ではない。
さとると出会った高台でも、二人で海を眺めた場所でもない。
さとるのいる沖縄へ向かう船の中だった。
薫は、そっと帽子に手を伸ばした。
短くなった髪が、帽子の下に隠れている。
髪を切った日のことを思い出すと、今でも胸が痛んだ。けれど、あのときの自分には、ほかに方法が見つからなかった。
さとるに会いたい。
ただ、それだけだった。
薫は軍服の襟を整え、厨房へ向かった。
そこには、知人の料理人がすでに来ていた。
「おはよう。よく眠れたか?」
薫は少し考えてから、首を横に振った。
料理人は苦笑した。
「そうだろうな。船の上は落ち着かないからな。俺も初めて乗ったときは、夜中に何度も目を覚ましたもんだ」
彼は薫の前に湯気の立つ椀を置いた。
「まずは、これを飲んでおけ。朝から働くんだからな」
薫は驚いたように彼を見た。
「遠慮するな。腹が減っていると、余計に疲れるぞ」
薫は両手で椀を受け取り、深く頭を下げた。
料理人は、もう何も言わなかった。
最近、薫が何かを伝えようとするとき、彼は以前よりも少しだけ、その仕草を理解できるようになっていた。
不安なときは、帽子のつばを何度も触る。
困ったときは、眉を寄せて彼の顔を見る。
感謝を伝えたいときは、両手を胸の前でそろえ、深く頭を下げる。
まだすべてが分かるわけではない。
それでも、言葉がなくても伝わることがあるのだと、料理人は知り始めていた。
「今日は、野菜を洗うところから頼む。水は使いすぎないようにな」
薫は頷いた。
そして、仕事を始めた。
***
厨房の仕事は、決して楽ではなかった。
狭い場所で何人もの人間が動き、船が揺れるたびに足元が不安定になる。水をこぼさないように気を配り、道具を置く場所も間違えないようにしなければならない。
薫は、料理人の動きをよく見て、できるだけ同じように動こうとした。
けれど、慣れない作業には失敗もあった。
洗った野菜を置く場所を間違え、別の料理に使う食材と混ざってしまったこともある。
そのたびに薫は肩をすくめ、申し訳なさそうに料理人を見た。
「大丈夫だ。分け直せばいい」
料理人はそう言って、薫と一緒に食材を仕分けた。
「間違えたら、次に気をつければいい。最初から何でもできる人間なんていないんだからな」
薫は、その言葉を聞くたびに、少しずつ落ち着きを取り戻していった。
やがて、料理人は薫に、食器の並べ方や道具の片づけ方を任せるようになった。
薫も、教えられたことを忘れないように、手順を一つずつ覚えていった。
ここで役に立てなければ、船に乗せてもらった意味がない。
そう思っていたからこそ、薫は必死だった。
けれど、料理人は、彼女が必要以上に自分を責めていることにも気づいていた。
「薫」
呼ばれて、薫は顔を上げた。
料理人は、使い終わった鍋を置きながら言った。
「お前は、ここにいることを申し訳なく思いすぎている」
薫の手が止まった。
「船に乗せてもらったから、何でも完璧にやらなきゃいけない。そう思っているんじゃないか?」
薫は、しばらく考えてから、小さく頷いた。
料理人は首を横に振った。
「俺が引き受けたのは、お前の世話をすることだ。失敗しないように見張ることじゃない。できることを一緒に増やしていけばいいんだ」
薫は、じっと彼を見つめた。
「だから、無理に急ぐな。分からないことは、俺に聞けばいい」
薫はゆっくりと頷いた。
胸の奥に、温かいものが広がった。
この船に乗ることを許してくれたのは上官だった。
けれど、船の中で自分を支えてくれているのは、この料理人だった。
自分が失敗しても、すぐに見放さない。
困っているときには、言葉にならない思いをくみ取ろうとしてくれる。
薫は、その優しさを少しずつ信じ始めていた。
***
昼前、厨房の仕事がひと段落した。
料理人は、薫に短い休憩を取るように言った。
「少し外の空気を吸ってこい。ただし、遠くへ行くなよ。何かあったら、すぐに戻ってくるんだ」
薫は頷き、船内の通路を抜けて、海の見える場所へ向かった。
甲板に出ると、潮風が頬を撫でた。
どこまでも続く海。
空と海の境目は遠く、波の上には白い光が揺れていた。
薫は手すりから少し離れた場所に立ち、海を見つめた。
故郷で見た海と、よく似ている。
けれど、同じ海ではない。
あの高台には、もう戻れないかもしれない。
さとると並んで座り、何でもない話をした時間。
戦争が終わったら、どこへ行こうか。
どんな家に住もうか。
何を食べて、どんな毎日を過ごそうか。
二人で笑いながら話した未来。
あのとき、さとるは少し照れくさそうに笑っていた。
「戦争が終わったら、もう命令に怯えなくてもいいんだな」
そう言った彼の横顔を、薫は今でもはっきりと思い出せる。
「うん。二人で好きなところへ行けるね」
そう答えた自分の声も、忘れられない。
けれど、その未来は今、遠くにあった。
さとるは沖縄にいる。
いつ出撃命令が下るか分からない場所で、死と隣り合わせの訓練を続けている。
薫は、手すりを握りしめた。
自分がここまで来たからといって、さとるを救えるわけではない。
会えたとしても、彼を連れて帰れる保証はない。
それでも、会わずに故郷で待ち続けることはできなかった。
最後に会えるかもしれない時間を、何も知らずに過ごすことだけは、どうしても耐えられなかった。
薫の目から、涙が一粒こぼれた。
慌てて袖で拭う。
泣いているところを誰かに見られれば、余計な心配をかける。
そう思っても、涙は止まらなかった。
「さとる……」
小さく唇を動かす。
声にはならない。
けれど、胸の中では何度も彼の名前を呼んでいた。
会いたい。
生きていてほしい。
もう一度、あの笑顔を見たい。
そのとき、後ろから足音が聞こえた。
薫は驚いて振り返った。
料理人だった。
「ここにいたのか」
薫は、慌てて涙を拭き、頭を下げた。
料理人は彼女の赤くなった目を見て、何かを尋ねようとした。
しかし、すぐに口を閉じた。
無理に聞かなくてもいい。
彼女が話せないからではない。
話せたとしても、今は言葉にできない気持ちがあるのだろう。
料理人は、薫の隣に立ち、同じように海を見つめた。
「きれいな海だな」
薫は、ゆっくり頷いた。
「俺は、海を見るのが好きだった。若い頃は、どこまでも続く海の向こうに、何があるんだろうと思っていた」
料理人は、少しだけ笑った。
「だが、戦争が始まってからは、海を見ると、向こうに何があるかより、誰が帰ってこられるのかを考えるようになった」
薫は、彼の横顔を見つめた。
料理人の顔には、疲れがにじんでいた。
彼もまた、この戦争の中で、いろいろなものを見てきたのだろう。
大切な人と別れたことがあるのかもしれない。
帰ってこなかった誰かを知っているのかもしれない。
薫には分からなかった。
けれど、彼の言葉には、簡単には説明できない重みがあった。
「……怖いか?」
料理人が尋ねた。
薫は一瞬、戸惑った。
そして、正直に頷いた。
怖かった。
船に乗ることも。
沖縄へ向かうことも。
さとるに会えるかどうか分からないことも。
何もかもが怖かった。
料理人は、薫の頷きを見て、静かに言った。
「そうだろうな。俺だって怖い。怖くない人間なんて、そうはいないと思う」
薫は驚いたように彼を見た。
料理人は海から目を離さなかった。
「怖いからといって、弱いわけじゃない。怖くても、やらなきゃならないことがある。お前も、そうなんだろう」
薫は、胸の前で手を重ねた。
そして、海の向こうを指さした。
料理人はその仕草を見て、ゆっくりと頷いた。
「……会いたい人がいるんだな」
薫は、何度も頷いた。
料理人は、それ以上は尋ねなかった。
「なら、まずは無事に沖縄へ着こう。先のことは、それから考えればいい」
その言葉は、決して大きな約束ではなかった。
さとるに会えると保証してくれたわけでもない。
二人が無事に帰れると約束してくれたわけでもない。
ただ、今できることを一つずつやろうと伝えてくれただけだった。
それでも、薫には十分だった。
彼女は深く頭を下げた。
料理人は、少し照れたように笑った。
「礼はいい。そろそろ戻るぞ。仕事が残っているからな」
薫は頷き、彼の後について歩き始めた。
今度は、少しだけ足取りがしっかりしていた。
***
午後の厨房では、料理人が忙しく動き回っていた。
薫は教えられたとおりに道具を片づけ、次に必要なものを用意した。
言葉を話せないことは変わらない。
船の中での不安も、完全に消えたわけではない。
それでも、料理人の動きを見れば、次に何をすればよいのか、少しずつ分かるようになってきた。
料理人もまた、薫が頷けば理解していること、首を横に振れば困っていることに気づくようになっていた。
二人の間に、言葉とは違うやり取りが生まれ始めていた。
あるとき、料理人が熱い鍋を持ち上げようとした。
その瞬間、船が大きく揺れた。
鍋の中の湯が揺れ、料理人の手元が傾いた。
薫はすぐに気づき、近くにあった布を手に取って、鍋が滑らないように支えた。
「おっ……助かった」
料理人は驚いた顔をした。
薫は、鍋が安定したのを確認してから、ほっと息を吐いた。
料理人は彼女を見て笑った。
「今度はお前が俺を助けてくれたな」
薫は、少し恥ずかしそうに俯いた。
「ありがとう。よく気がついたな」
薫は小さく頷いた。
料理人は、その様子を見て、しみじみと思った。
この娘は、ただ誰かに守られるために船に乗ったわけではない。
自分にできることを探し、必死にここで生きようとしている。
そして、その先に、どうしても会いたい人がいるのだ。
料理人は、それ以上、彼女の事情を探ろうとはしなかった。
ただ、薫がここにいる間は、できる限り支えようと思った。
薫もまた、彼の背中を見ながら思っていた。
この人を信じてみよう。
自分の事情をすべて打ち明けられなくても、困ったときには助けを求めよう。
一人では、沖縄までたどり着くことさえ難しかった。
けれど、今は隣に、頼れる人がいる。
そのことが、薫に小さな勇気を与えていた。
***
夜が近づく頃、船の揺れは少し穏やかになった。
仕事を終えた薫は、厨房の隅に腰を下ろした。
料理人が、温めた食事を差し出す。
「今日はよく働いたな。ちゃんと食べておけ」
薫は受け取り、ゆっくりと頭を下げた。
食事を口に運びながら、彼女は考えていた。
沖縄に着いたら、まず何をすればいいのだろう。
さとるがどこにいるのか、自分には分からない。
船を降りたあと、自由に探し回ることが許されるとも限らない。
それでも、諦めたくなかった。
さとるに会って、伝えたいことがある。
あなたを忘れていない。
あなたが生きて帰ってくることを、今も願っている。
そして、できることなら、もう一度だけ一緒に海を見たい。
薫は食事を終えると、胸元に手を当てた。
そこに、さとるからもらったものがあるわけではない。
手紙も、今は持っていなかった。
けれど、二人で交わした言葉は、今も心の中に残っている。
戦争が終わったら。
二人で生きていこう。
その約束を、薫は忘れたことがなかった。
「薫、そろそろ休め」
料理人が声をかけた。
薫は立ち上がり、深く頭を下げた。
料理人は、いつものように軽く手を振った。
「明日もあるからな。無理はするなよ」
薫は頷き、休む場所へ向かった。
その途中で、ふと立ち止まり、料理人を振り返った。
彼女は胸に手を当て、それから料理人に向かって深く頭を下げた。
今日一日、助けてくれたこと。
失敗しても責めずにいてくれたこと。
言葉にできない気持ちを、分かろうとしてくれたこと。
そのすべてに、感謝していた。
料理人は、少し驚いたように目を見開き、それから優しく笑った。
「おやすみ。明日も一緒に頑張ろう」
薫は、何度も頷いた。
彼の言葉を胸に、静かに歩き出した。
***
同じ夜、沖縄の海にいるさとるは、暗い艦内で一人、目を閉じていた。
訓練は続いている。
仲間たちは出撃し、帰ってこない。
自分の番が近づいているのかもしれない。
そう考えるたびに、胸が苦しくなった。
それでも、さとるは生きたかった。
薫に会いたかった。
もう一度、彼女の声を聞きたかった。
「薫……」
さとるは、胸の中で名前を呼んだ。
その頃、薫もまた、同じ海の上で彼の名前を思っていた。
二人はまだ再会していない。
互いがどこにいるのかも、正確には知らない。
けれど、薫は一歩ずつ、さとるのもとへ近づいていた。
その道のりを支えているのは、会いたいという思いだけではなかった。
言葉にならない自分の事情を理解しようとしてくれる料理人への信頼。
失敗しても、恐怖に震えても、もう一度立ち上がろうとする小さな勇気。
その一つ一つが、薫を前へ進ませていた。
船は夜の海を進み続ける。
薫は、目を閉じる前に、心の中で祈った。
「さとる……どうか、生きていて」
海の向こうにいるあなたへ。
この願いが届く日まで、私は進み続ける。
そう決めて、薫は静かに眠りについた。




