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君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


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第五十一話 男として乗り込んだ薫

第五十一話 男として乗り込んだ薫


船が港を離れてから、数時間が過ぎていた。


薫は、知人の料理人の後ろについて、船内の厨房へ向かっていた。


厨房には大きな鍋や食器が並び、料理人たちが慌ただしく動いていた。船が揺れるたび、棚に置かれた道具が小さな音を立てる。


「ここが俺たちの仕事場だ。狭いし、揺れるし、慣れるまでは大変だろう。まずは、食器を並べたり、使い終わった道具を片づけたりするところから始めてくれ」


料理人は、薫の顔を確かめるように見た。


「それから、無理に返事をしなくていい。言葉を話せないことは、責任者にも伝えてある。分かったら頷く。分からなかったら首を横に振る。それだけでも、俺には十分伝わるからな」


薫は、少し驚いたように顔を上げた。


これまで、言葉を話せないことで困ったことは何度もあった。


何かを尋ねられても答えられない。


誤解されても、すぐには説明できない。


助けてほしくても、どう伝えればいいのか分からない。


相手が苛立った顔をすると、自分が悪いことをしたように感じて、ただ俯くしかなかった。


だから、料理人の言葉は思いがけないものだった。


返事ができなくてもいい。


分からないことを、分からないままにしなくていい。


その言葉を聞いたとき、薫の胸に張りつめていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。


薫は深く頭を下げた。


料理人は照れくさそうに頬をかいた。


「そんなにかしこまらなくていい。俺だって、偉い人間じゃないんだからな」


そして、厨房の奥を指さした。


「さあ、仕事を始めよう」


薫は小さく頷いた。


***


最初の仕事は、食器を並べることだった。


料理人に教えられたとおり、薫は一枚ずつ皿を取り、決められた場所へ置いていった。


慣れない船の揺れに足を取られそうになりながらも、慎重に手を動かす。


しかし、突然、船が大きく傾いた。


棚の上に置かれていた金属製の器が滑り落ち、床に激しい音を立てて転がった。


薫は驚いて身をすくめた。


その直後、厨房の入口から兵士が顔を出した。


「今の音は何だ!」


兵士は床に転がった器を見て、薫へ目を向けた。


「お前が落としたのか?」


薫は慌てて頷き、すぐに頭を下げた。


自分の不注意だった。


器が落ちたことを、きちんと説明したい。


謝りたい。


けれど、言葉が出てこない。


薫は何度も頭を下げたが、兵士の表情は険しくなるばかりだった。


「何か言ったらどうなんだ!」


薫の体が強張った。


返事をしたくても、できない。


どうすればいいのか分からず、薫はただ兵士を見つめた。


そのとき、料理人が間に入った。


「申し訳ありません。船が揺れた拍子に器が落ちたようです。本人は言葉を話せません。責任者にも事情を伝えてあります」


「だが、器を落としたのはこいつだろう」


「はい。片づけは私が指示します。危ないので、まずは破片がないか確認させてください」


料理人はそう言うと、薫を自分の後ろへ下がらせた。


兵士は不満そうな顔をしたものの、料理人が責任を持って対応すると聞き、それ以上は追及せずに立ち去った。


その姿が見えなくなると、料理人は床の器を拾い上げた。


「怪我はないか?」


薫は首を横に振った。


「そうか。よかった」


料理人は床を確認してから、薫に向き直った。


「驚いただろう。だが、わざと落としたわけじゃない。船が揺れたんだ。次からは、器を運ぶときに片手で棚を支えるようにすればいい」


叱られると思っていた。


自分のせいで料理人に迷惑をかけた。


そう考えた薫は、何度も頭を下げた。


料理人は困ったように笑った。


「もういい。謝るのはそれくらいにしておけ。俺だって、初めて船に乗ったときには、もっとひどい失敗をしたんだからな」


薫は、思わず顔を上げた。


「本当だ。鍋をひっくり返して、先輩に大目玉を食らったこともある」


料理人は懐かしそうに笑った。


「だから、失敗したことより、次にどうするかを考えればいいんだ」


薫は、その言葉を胸に刻むように、ゆっくりと頷いた。


初めてだった。


言葉で説明できなくても、失敗をしたからといって、すぐに見放されるわけではないのだと感じたのは。


***


昼の仕事が一段落すると、料理人は薫に水を差し出した。


「飲んでおけ。朝からずっと動いていただろう」


薫は両手で水を受け取り、少しずつ飲んだ。


喉は渇いていたはずなのに、緊張のせいで、自分が疲れていることにも気づいていなかった。


料理人は、薫のそばに腰を下ろした。


「一つ、聞いてもいいか」


薫の手が止まった。


「どうして、そこまでして沖縄へ行きたいんだ?」


薫は、すぐには答えられなかった。


料理人は慌てて手を振った。


「いや、言いたくないなら言わなくていい。事情があることは分かっている。無理に聞き出そうとは思っていない」


薫はしばらく俯いていた。


自分がここへ来た理由を、誰かに知ってほしいと思ったことは何度もあった。


ただ一人の人に会いたい。


その人が生きているうちに、もう一度顔を見たい。


それだけの願いのために、故郷を離れ、髪を切り、男の姿になって、この船に乗った。


けれど、それを伝えることはできない。


薫は、胸元にそっと手を置いた。


そこには、さとるとの思い出があった。


初めて交わした言葉。


二人で見た海。


戦争が終わったら一緒に生きたいと願った、あの日の約束。


薫は、片手で胸元を押さえたまま、遠くの海を指さした。


それから、両手をそっと重ねた。


料理人は、その仕草をじっと見つめた。


「……向こうに、大切な人がいるのか?」


薫は、目を見開いた。


そして、何度も頷いた。


料理人は、すべてを理解したわけではなかった。


その人が誰なのかも、どんな事情があるのかも分からない。


それでも、薫の表情を見れば、ただの気まぐれでここまで来たのではないことは分かった。


「そうか」


料理人は静かに言った。


「会いたい人がいるんだな」


薫は、唇を噛みしめた。


目に涙が浮かんだ。


料理人は、何も言わずに待っていた。


急かさなかった。


泣くなとも、諦めろとも言わなかった。


やがて薫は、袖で涙を拭き、深く頭を下げた。


料理人は小さく頷いた。


「分かった。俺にできることなら、手伝おう。ただし、船の規律は守ること。それだけは約束してくれ」


薫は、何度も頷いた。


その瞬間、二人の間にあった距離が、ほんの少し縮まった。


料理人は、薫の事情をすべて知っているわけではない。


薫も、まだ料理人を完全に信じきっているわけではなかった。


けれど、困ったときに助けを求めてもいい人が、ここに一人いる。


そのことが、薫には何より心強かった。


***


夕方、厨房の仕事が再び忙しくなった。


薫は料理人の指示に従い、食材を運んでいた。


そのとき、通路の向こうから兵士たちが歩いてきた。


薫は道を譲ろうとしたが、船が揺れた拍子に足元がふらついた。


持っていた籠が傾き、中の食材が床にこぼれた。


「おい、何をやっている!」


兵士の一人が声を荒らげた。


薫は、すぐに膝をついて食材を拾い始めた。


焦れば焦るほど、指先がうまく動かない。


兵士が近づいてきた。


「返事くらいしたらどうなんだ!」


薫は顔を上げた。


声を出すことができない。


説明したくても、言葉にならない。


その場にいる全員の視線が、自分に集まっているような気がした。


恐怖で、手が震えた。


そのときだった。


「私が頼んだ仕事です」


料理人が、すぐに駆け寄ってきた。


「船が揺れたため、食材を落としてしまったようです。片づけは私が指示します。どうか、通路を空けていただけませんか」


「だが、こいつは返事もしないぞ」


「この者は言葉を話せません。その事情は、すでに責任者へ伝えてあります」


料理人は、落ち着いた声で答えた。


「返事がないからといって、何も分かっていないわけではありません。指示が伝わっているかどうかは、私が確認します」


兵士はしばらく料理人を見つめていたが、やがて不満そうに鼻を鳴らし、その場を離れた。


料理人は、兵士たちの姿が見えなくなってから、薫の隣にしゃがみ込んだ。


「手を見せてみろ」


薫は不思議そうに顔を上げた。


「食材を拾うときに、どこか切っていないか?」


薫は首を横に振った。


料理人は、それでも薫の手を確かめた。


怪我がないことを確認すると、ほっと息を吐いた。


「よかった。さあ、残りを片づけよう。二人でやればすぐに終わる」


薫は、料理人の顔を見つめた。


自分をかばえば、料理人まで責められるかもしれない。


それなのに、彼は迷わず間に入ってくれた。


薫は、何かを伝えようとした。


ありがとう。


その言葉を、どうしても伝えたかった。


けれど、声にはならなかった。


代わりに、薫は料理人の袖をそっとつまみ、深く頭を下げた。


料理人は、その仕草を見て微笑んだ。


「分かった、分かった。礼なら、仕事が終わってからでいい」


薫は、涙がこぼれそうになるのを必死にこらえた。


誰かに守られるということが、こんなにも心強いものだとは思わなかった。


戦争が始まってから、人はそれぞれ、自分が生きることで精いっぱいだった。


誰かを助ける余裕などないのだと思っていた。


けれど、この料理人は違った。


薫の事情をすべて知らなくても、困っていることを見て、手を差し伸べてくれた。


その優しさが、薫の心を少しずつ解きほぐしていた。


***


夜になり、仕事が終わった。


料理人は、厨房の片づけを済ませると、薫に小さな包みを渡した。


中には、少しの食べ物が入っていた。


「腹が減ったときに食べておけ。明日も仕事があるからな」


薫は驚き、首を横に振った。


自分だけが特別に何かをもらうわけにはいかない。


料理人は、困ったように笑った。


「余った分だ。捨てるくらいなら食べてもらったほうがいい」


薫は包みを受け取った。


そして、両手で大切そうに抱えた。


「それから、薫」


料理人が彼女の名を呼んだ。


薫は、はっと顔を上げた。


「明日からも、困ったことがあれば俺に知らせろ。お前は言葉で説明できない。だからこそ、俺が普段から様子を見るようにする。だが、俺にも分からないことはある。そんなときは、身振りでも、紙に書くことでもいい。お前の気持ちを伝えようとしてくれ」


薫は、何度も頷いた。


料理人は、少し考えてから付け加えた。


「俺だって、何もかも分かるわけじゃない。だが、分からないからといって、お前を放っておくつもりはない」


薫の目に、涙が浮かんだ。


今度の涙は、恐怖だけから生まれたものではなかった。


この船の中で、自分を理解しようとしてくれる人がいる。


自分の言葉にならない思いを、受け止めようとしてくれる人がいる。


その事実が、薫の心を支えていた。


薫は、包みを胸に抱いたまま、深く頭を下げた。


料理人は、静かに頷いた。


「さあ、もう休め。沖縄までは、まだ時間がかかる」


薫は、指先で目元を拭った。


そして、もう一度、海の方を見つめた。


その向こうに、さとるがいる。


彼に会えたら、何を伝えよう。


言葉で伝えられなくても、目を見れば分かってくれるだろうか。


二人で過ごした時間を思い出してくれるだろうか。


薫は、胸の中で何度も名前を呼んだ。


さとる。


会いたい。


どうか、生きていて。


その願いを抱きながら、薫は静かに目を閉じた。


もう一人ではない。


まだ、さとるに会えたわけではない。


それでも、見知らぬ船の中に、自分の事情を理解し、助けようとしてくれる人がいる。


薫は、その小さな信頼を胸に、明日も前へ進もうと決めた。


一方、沖縄の海にいるさとるは、まだ何も知らなかった。


薫が自分に会うために、故郷を離れ、危険な船旅を続けていることも。


船の中で恐怖に耐えながら、一歩ずつ自分に近づいていることも。


さとるは暗い艦内で、ただ彼女のことを思っていた。


「薫……生きて、もう一度会いたい」


その願いは、まだ二人の間に広がる海を越えていない。


けれど、薫のそばには、彼女の言葉にならない思いを理解しようとする人がいた。


その小さな信頼が、やがて二人を再会へと導く力になることを、今はまだ誰も知らなかった。


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