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君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


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第五十話 許された乗船

第五十話 許された乗船


朝の港には、冷たい風が吹いていた。


出発の日。


船の周りでは、兵士たちが荷物を運び、船員たちが出発の準備に追われていた。遠くから聞こえる号令と、岸壁に響く足音。いつもと変わらないはずの海も、今日ばかりは、どこか恐ろしいものに見えた。


剛は、船のそばに立ちながら、何度も港の入口を振り返っていた。


薫は、まだ乗船できると決まったわけではなかった。


短く切った髪を帽子の中に隠し、借りた軍服を身につけて、さとるのいる沖縄へ行く機会を待っている。けれど、船に乗る許可がなければ、どれほど願っても、その一歩を踏み出すことはできない。


剛は昨夜から、何度も考えていた。


どうすれば薫を船に乗せられるのか。


知人の料理人が船に乗ることは認められた。しかし、薫を補助の人間として同行させる許可は、まだ下りていなかった。


このままでは、薫は港に残される。


さとるが沖縄でどんな思いをしているのかも知らないまま、会いたいと願い続けることになる。


「……なんとかしなければ」


剛は拳を握りしめ、船の責任者がいる場所へ向かった。


責任者は、出発前の確認事項を記した書類に目を通していた。


「またお前か。まだ何かあるのか」


剛は、深く頭を下げた。


「申し訳ありません。どうしても、もう一つお願いしたいことがございます」


「何度も言っているだろう。予定にない人員を増やすことは簡単には認められない」


「承知しております。それでも、事情をお聞きいただきたいのです」


責任者は、手を止めた。


「話してみろ」


剛は一度息を吸った。


ここで説明を間違えれば、すべてが終わるかもしれない。


それでも、薫が船に乗るためには、きちんと伝えなければならなかった。


「今回、料理人の補助として同行させていただきたい者がいるのですが、その者は、言葉を話すことができません」


責任者は顔を上げた。


「言葉を話せない?」


「はい。こちらから話しかけても、言葉で返事をすることができないのです。何か困ったことがあっても、自分の口で事情を説明することが難しい。そのため、慣れない場所では、そばについて世話をする者が必要なのです」


剛は、言葉を続けた。


「食事や身の回りのことだけでなく、本人が困っているときには、周囲がその様子を見て、何を必要としているのかを理解しなければなりません。船の上という慣れない環境で、本人だけに任せることはできないと考えています」


責任者は腕を組んだ。


「ならば、なおさら船に乗せるのは難しいのではないか。船内では、命令を聞き、すぐに行動しなければならない場面もある。言葉で返事ができない者を、どうやって管理するつもりだ」


「そのために、知人の料理人が責任を持って世話をします」


剛は、まっすぐに責任者を見た。


「料理人は、その者の事情を理解しています。そばについて様子を確かめ、困っていることがあれば必要な対応をします。仕事についても、料理人の指示のもとで、できる範囲の補助だけをさせます。勝手な行動はさせません」


「その料理人が、ずっと面倒を見るというのか」


「はい。本人が自分で説明できないことも、料理人が必要に応じて伝えます。私も、できる限り責任を持って目を配ります」


責任者は、しばらく黙っていた。


剛は、頭を下げたまま待った。


港では出発の準備が進んでいた。船員たちの声が聞こえるたび、時間がなくなっていくことを思い知らされた。


薫は今、どこかで返事を待っている。


さとるに会いたいという願いを胸に、髪まで切った彼女が。


「……お前は、なぜそこまでして、その者を連れていきたいのだ」


責任者の問いに、剛は一瞬、言葉を詰まらせた。


薫とさとるの関係を、どこまで話すべきなのか。


戦争がなければ、二人はただの若い恋人として、当たり前の日々を過ごしていたかもしれない。


一緒に歩き、同じ景色を眺め、明日の約束をする。


けれど今は、その当たり前のことさえ許されない。


「……大切な人に、会いたいのです」


剛は静かに答えた。


「その者には、どうしても会いたい人がいます。私には、その願いを簡単に諦めさせることができません」


責任者は、剛の顔をじっと見つめた。


「個人的な事情で、船を動かすことはできない」


「分かっています」


「本来なら、予定にない人員を乗せることも認められない。言葉を話せない者であれば、なおさら慎重に考えなければならない」


「はい。それでも、世話をする者がそばにいれば、できることはあります。どうか、事情を考慮していただけないでしょうか」


剛は、もう一度深く頭を下げた。


「お願いします」


長い沈黙が流れた。


責任者は、書類に目を落とし、しばらく考え込んでいた。


やがて、ゆっくりと息を吐いた。


「……分かった」


剛は、はっと顔を上げた。


「ただし、条件がある」


「はい」


「その者の世話は、知人の料理人が責任を持って行うこと。船内の規律を守らせ、何か問題があればすぐに報告すること。本人が言葉で意思を伝えられない事情も、乗船する者たちに必要な範囲で伝えておけ」


「承知しました」


「本来なら認められない話だ。だが、事情は理解した。料理人が責任を持って世話をするというのなら、今回は受け入れることにする」


剛は、深く頭を下げた。


「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」


ようやく、薫が船に乗れる。


その事実が、剛の胸に重く、けれど確かな希望をもたらした。


「礼はいい。出発の時間が迫っている。すぐに連れてこい」


「はい!」


剛は責任者にもう一度頭を下げると、港の入口へ向かって走り出した。


そこには、軍服姿の薫が立っていた。


帽子を深くかぶり、両手を固く握りしめている。短く切った髪は帽子の下に隠れていたが、見慣れた長い髪がもうないことに、剛は改めて胸を締めつけられた。


薫は剛を見つけると、恐る恐る近づいた。


「剛さん……どうだったの?」


その声は、震えていた。


剛は息を整え、彼女の前に立った。


「薫、許可が出た」


薫は目を見開いた。


「……え?」


「船に乗っていいそうだ。料理人の補助として同行できる。言葉を話せないことも、料理人がそばについて世話をする必要があることも、上官にきちんと説明した。その事情を考慮して、なんとか受け入れてくれたんだ」


薫は、すぐには返事ができなかった。


何度も諦めかけた。


船に乗れないと言われたとき、自分にはもう何もできないのだと思った。


男のように振る舞うことも、長い髪を切ることも、軍服を着ることも、すべてはさとるに会うためだった。


それでも、どれほど願っても、戦争の決まり一つで、その願いは簡単に閉ざされてしまう。


だからこそ、剛の言葉が信じられなかった。


「本当に……私、行けるの?」


「ああ。沖縄へ行けるんだ」


その瞬間、薫の目から涙がこぼれた。


「よかった……」


両手で口元を押さえた。


「本当によかった……。私、さとるに会いたいの。もう一度、あの人の顔を見たい……」


「分かってる」


剛は、静かに頷いた。


「でも、薫。船に乗れたからといって、すべてがうまくいくとは限らない。船の中では、料理人のそばを離れるな。自分の事情をむやみに話そうとせず、指示には注意して従うんだ。何かあれば、必ず料理人に伝えろ」


薫は涙を拭いながら頷いた。


「うん。分かった」


「それから、無理はするな。怖くなっても、一人で動こうとするな」


「……うん」


剛は、彼女の顔を見つめた。


本当は、行かせたくない気持ちもあった。


沖縄へ向かう船は、ただの旅の船ではない。戦争の中へ進んでいく船だ。薫がさとるに会える保証など、どこにもなかった。


それでも、剛は彼女の願いを知っていた。


さとるのもとへ行きたい。


会えるうちに会いたい。


戦争によって奪われる前に、二人で過ごした時間を取り戻したい。


その思いを、剛は否定できなかった。


「行こう、薫」


剛が告げると、薫は一度だけ振り返った。


これまで暮らしてきた町。


さとると初めて言葉を交わした高台。


二人で海を眺め、戦争が終わったら何をしたいか、どんな暮らしをしたいかを語り合った場所。


あのとき、さとるは海を見つめながら、いつか戦争が終わる日が来ると信じたいと言った。


薫も、そう願った。


二人で生きていける未来があると、信じたかった。


「さとる……待っていてね」


薫は、心の中で呟いた。


「私、あなたに会いに行くから」


二人が船へ向かうと、乗船を許可された知人の料理人が待っていた。


料理人は、薫の短い髪と軍服姿を見て、驚いたような表情を浮かべたが、すぐに真剣な顔になった。


「この人が、話に聞いていた補助の人か」


「そうです。言葉を話すことができません。何か困っている様子があったら、どうか気を配ってやってください」


剛が説明すると、料理人は頷いた。


「事情は聞いている。俺が責任を持って面倒を見る。ただし、船の上では俺の指示に従ってもらう。危険なこともあるからな」


薫は深く頭を下げた。


「……よろしくお願いします」


料理人は彼女の様子を確かめるように見てから、静かに言った。


「不安だろうが、慌てなくていい。分からないことがあれば、身振りでも何でもいいから伝えてくれ」


薫は、小さく頷いた。


その言葉に、少しだけ心が軽くなった。


自分は言葉を話せない。


だからこそ、周りの人に事情を理解してもらい、助けてもらわなければならない。


それでも、さとるに会うために、ここまで来たのだ。


もう、引き返すことはできなかった。


薫は船の前に立ち、海を見つめた。


この海の向こうに、さとるがいる。


彼が今、どんな思いで訓練を続けているのか。


仲間が出撃していく姿を見て、何を感じているのか。


自分のことを思い出してくれているのか。


何も分からない。


それでも、会いたかった。


生きているうちに。


戦争が二人の未来を奪ってしまう前に。


薫は、一歩を踏み出した。


船の甲板へと上がる。


その一歩は、これまでの人生で最も怖く、そして最も強い一歩だった。


剛は、薫の後ろ姿を見つめていた。


「さとる……薫がそっちへ向かうぞ」


心の中で、友の名を呼ぶ。


「頼むから、二人が会えるまで、生きていてくれ」


やがて、出発を告げる声が港に響いた。


船がゆっくりと岸壁を離れ始める。


薫は甲板から、遠ざかっていく港を見つめていた。


見慣れた町が、少しずつ小さくなっていく。


胸の中には、恐怖があった。


船の中で正体が知られてしまったらどうなるのか。


沖縄に着いても、さとるに会えなかったらどうするのか。


そして、会えたとしても、さとるが生きて帰れる保証などないことを、薫は分かっていた。


それでも、彼女は海の向こうへ目を向けた。


「さとる……」


声にならないほど小さな声で、名前を呼ぶ。


「あなたに会いたい」


その願いだけを胸に、薫は船の上に立ち続けた。


一方、沖縄の海にいるさとるは、まだ何も知らなかった。


自分に会うために、薫が髪を切り、軍服を身につけ、危険を承知でこちらへ向かっていることを。


彼はその日も、艦内で訓練を続けていた。


目の前にあるのは、帰ることが許されないかもしれない兵器。


頭から離れないのは、出撃していった仲間たちの姿。


そして、心の奥に残り続けているのは、薫の笑顔だった。


「薫……」


さとるは、誰にも聞こえない声で、その名を呼んだ。


生きたい。


帰りたい。


もう一度、あの高台で薫と一緒に海を見たい。


その願いが、まだ叶うかもしれないことを、彼は知らなかった。


戦争の海を越えて、二人の道が再び交わろうとしていた。


しかし、その先に待つものが希望なのか、それとも別れなのか。


まだ、誰にも分からなかった。


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