第四十九話 船に乗るための最後の嘘
第四十九話 船に乗るための最後の嘘
――薫、男として生きる朝
出発の日の朝が来た。
山口の空は、夜明け前から重たい雲に覆われていた。
港には、沖縄へ向かう船が静かに停泊していた。船体に打ちつける波の音が、まだ薄暗い海に響いている。
船の周囲では、兵士たちが荷物を運び、出発に向けた最終確認を進めていた。
その光景を遠くから見つめながら、剛は何度も懐中時計を確かめた。
今日、船は出る。
そして今日中に、薫が乗船できるかどうかも決まる。
昨日、料理人の知人は確認を受けることに同意してくれた。船内の食事を担当する者として、必要な経験や身元を確かめられることになっている。
倉庫の陰で待つ薫には、時間がひどく長く感じられた。
遠くから兵士たちの声が聞こえる。
荷物を運ぶ音。
船の金属が軋む音。
誰かが名前を呼ぶ声。
そのたびに、薫の肩が小さく震えた。
自分の名前を呼ばれるのではないか。
ここにいることが見つかるのではないか。
そう思うと、息をすることさえ難しくなった。
薫は、軍服の袖を握りしめた。
さとるは、今ごろどうしているだろう。
沖縄の船の中で、訓練をしているのだろうか。
食事を取れているだろうか。
夜、眠れているだろうか。
誰にも弱音を吐けず、ひとりで恐怖を抱えているのではないだろうか。
薫は、目を閉じた。
初めて高台で言葉を交わした日のことを思い出す。
あの日、さとるは自分のことを何も知らなかった。
ただ、泣いている薫を見て、声をかけてくれた。
軍の規則に背くかもしれないと分かっていても、放っておけなかったのだろう。
その優しさが、薫の心に残った。
やがて二人は、少しずつ互いのことを話すようになった。
好きなもの。
苦手なもの。
戦争が終わったら、どこへ行きたいか。
そんな小さな話をする時間が、何よりも大切になった。
さとるは、未来の話をするとき、時々、言葉を止めた。
そのたびに薫は、彼が何を考えているのか分かった。
自分たちに、その未来が本当に訪れるのか。
彼は信じたいのに、信じきれなかったのだ。
薫は、帽子を両手で握った。
「さとる……」
声に出すと、涙があふれた。
「あなたのところへ行きたい」
しかし、どれほど願っても、船は勝手には彼女を乗せてくれない。
この世界には、二人の気持ちだけでは越えられない壁があった。
戦争。
軍の命令。
身分。
そして、女であるという現実。
薫は、短くなった髪にそっと触れた。
髪を切る前は、切れば何かが変わると思っていた。
でも、何も簡単には変わらなかった。
自分は、やはり薫のままだった。
それでも。
それでも、彼女はさとるを思う気持ちを捨てられなかった。
*
午後になり、剛が戻ってきた。
薫は、すぐに立ち上がった。
「剛さん……!」
剛の表情を見ただけで、薫にはすべてが分かったわけではなかった。
希望があるのか。
もう駄目なのか。
そのどちらにも見える、苦しい顔だった。
「料理人の知人は、乗船を認められた」
「本当ですか……!」
「ああ」
薫の目に、光が戻った。
「それなら、私も……」
剛は、すぐにうなずくことができなかった。
「薫。君については、まだ許可が出ていない」
薫の表情が固まった。
「……そうですか」
「船内の補助が必要か、これから確認するそうだ。必要が認められれば、身元や仕事について、正式な確認を受けることになる」
「私のことを、話したんですか」
「君を乗せたいと直接伝えたわけじゃない。だが、補助の必要があるかどうかは尋ねた」
薫は、うつむいた。
自分のことを説明するには、どうしても越えられない壁がある。
女性であることを隠したまま、正式な確認を受けることはできない。
かといって、すべてを明かせば、乗船は認められないだろう。
剛も、それを分かっていた。
「……剛さん」
「何だ」
「私が女だと知られたら、どうなりますか」
剛は、しばらく答えられなかった。
「乗船は認められないだろう。軍の船だからな。それに、俺も責任を問われるかもしれない」
薫は、目を閉じた。
分かっていたことだった。
それでも、言葉にされると、胸の奥が冷たくなった。
「では、私は……」
「まだ、諦めると決めるな」
剛は言った。
「ただし、君に無理なことをさせるつもりもない。乗船できる方法があるか、最後まで確認する。それが駄目なら、別の方法を考えよう」
「別の方法……」
「さとるがいる場所について、分かることがないか探す。船に乗れなかったとしても、君をひとりで放っておくつもりはない」
薫は、涙をこらえた。
「ありがとうございます」
「礼を言うな。俺も、さとるに会いたいんだ」
剛は海のほうを見た。
「生きているうちに、あいつに会って、文句のひとつでも言ってやりたい。勝手にひとりで苦しむなってな」
薫は、涙の中で少しだけ笑った。
さとるが聞いたら、きっと困った顔をするだろう。
その顔を思い浮かべるだけで、胸が痛んだ。
*
夕方、港に出発の準備を知らせる声が響いた。
船は、いつでも出られる状態になりつつあった。
剛は、料理人の知人に船内へ入るよう伝えたあと、薫のもとへ戻った。
薫は、帽子を手に持ったまま立っていた。
「どうなりましたか」
「……まだだ」
剛は苦しそうに言った。
「補助の必要性について、最終的な返事が来ていない」
薫は、しばらく何も言わなかった。
船を見つめる。
あの船が出てしまえば、沖縄へ向かう機会は遠のく。
さとるは、あの海の向こうにいる。
自分がどれほど会いたいと思っても、声は届かない。
手を伸ばしても、触れられない。
「……剛さん」
「うん」
「私、もう少しだけ待ちます」
薫は、震える声で言った。
「最後まで、待ってみます」
剛はうなずいた。
それしかできなかった。
やがて、港の向こうで船員の声が響いた。
出発の時刻が近づいていた。
薫は帽子をかぶった。
短い髪が、帽子の下に隠れる。
彼女は、海を見つめたまま、小さく息を吸った。
「さとる……」
その名を口にした瞬間、涙が頬を伝った。
「どうか、生きていて」
会いたい。
けれど、何よりも、生きていてほしい。
薫は、その願いだけを胸に抱きしめた。
船に乗れるかどうかは、まだ決まっていない。
剛の努力が届くかどうかも、分からない。
それでも、二人は最後の返事を待っていた。
沖縄の海では、さとるが生きるために訓練を続けている。
山口の港では、薫が彼のもとへ向かう道を探している。
そして剛は、その二人の間にある、あまりにも大きな距離を埋めようとしていた。
船が出るまで、あとわずか。
その扉が開くのか、それとも閉ざされるのか。
誰にも、まだ分からなかった。
しかし、薫をどうするかという問題は、何ひとつ解決していなかった。
男として船に乗る。
それが、彼女の望みだった。
だが、軍服を着て髪を短くしただけで、すべてがうまくいくわけではない。
乗船する者の身元は確認される。名簿にない人間を、理由もなく船に乗せることはできない。
剛は、その現実を誰よりも分かっていた。
「……何とかしなければ」
そうつぶやいたとき、背後から足音がした。
「剛さん」
振り返ると、薫が立っていた。
短く切られた黒髪は帽子の下に隠れ、借りた軍服は彼女の体には少し大きかった。袖口を整え、襟元を何度も確かめた跡が見える。
顔色は悪かった。
眠れなかったのだろう。
それでも、薫は剛の目をまっすぐ見ていた。
「来たんだな」
「はい」
「怖くないか」
薫は少しだけ黙った。
それから、正直に答えた。
「怖いです」
剛はうなずいた。
「そうだろうな」
「でも、行きたいんです」
薫の声は震えていた。
「ここで帰ったら、私はきっと、さとるに会いに行こうとしたことさえ、いつか怖くて忘れようとすると思います。だから……今日だけは、逃げたくないんです」
「薫。逃げることが、悪いわけじゃない」
剛は静かに言った。
「怖い場所から離れることも、生きるためには必要だ。君が今ここで帰ったとしても、俺は君を責めない」
「分かっています」
薫は帽子のつばに触れた。
「でも、私は自分で決めました。さとるに会いたい。生きているなら、その顔を見たいんです」
剛は、言葉を失った。
薫の決意は、昨日よりも強くなっていた。
けれど、その強さの奥にあるものは、決して恐怖を知らない勇気ではない。
恐怖を抱えたまま、それでも進もうとする思いだった。
*
剛は薫を港から少し離れた倉庫の陰へ案内した。
「ここで待っていてくれ。俺が呼ぶまでは、絶対に出てくるな」
「はい」
「誰かに声をかけられても、余計なことは話さないことだ。だが、身元を偽って確認をすり抜けるようなことはさせられない。そんなことをすれば、君も、俺も、船の人間も危険になる」
薫は唇を引き結んだ。
「……では、私は乗れないのでしょうか」
「まだ決まったわけじゃない」
剛は苦しそうに答えた。
「料理人の知人については、今日、船の責任者が最終判断をする。まずは、その返事を待つ」
薫はうなずいた。
自分が男になれないことが、こんなにも大きな壁になるとは思わなかった。
髪を切ることならできた。
軍服を着ることもできた。
男らしく歩こうと、何度も練習した。
声を低くしようと、家の中でひとり言葉を繰り返した。
けれど、どれだけ努力しても、薫は薫だった。
長い髪を失っても、男の体になるわけではない。
自分の過去を消せるわけでもない。
そして、船に乗るために、存在しない人間になれるわけでもなかった。
「剛さん……」
「何だ」
「もし、乗れなかったら……」
薫は言葉を切った。
その先を口にするのが怖かった。
もし乗れなかったら、山口に残るしかない。
さとるのいる沖縄へ行くことはできない。
それでも、剛に無理をさせるわけにはいかなかった。
「もし乗れなかったら、私はここで待ちます」
剛は彼女を見つめた。
「本当に、それでいいのか」
「いいえ」
薫は涙をこらえながら首を振った。
「本当は、嫌です。今すぐにでも行きたい。さとるのいる場所まで走っていきたい。でも……剛さんを危険にさらしてまで、無理に乗ることはできません」
その言葉に、剛の胸が痛んだ。
薫は、自分の願いだけを押し通そうとしているのではなかった。
さとるに会いたい。
けれど、剛にも生きていてほしい。
その二つの思いの間で、彼女は苦しんでいた。
「ありがとう、薫」
「どうして、剛さんがお礼を言うんですか」
「君が、ちゃんと考えてくれているからだ」
剛は、倉庫の入口から港を見た。
「だからこそ、俺も最後まで方法を探す」
*
午前の遅い時間、剛は料理人の知人とともに船の責任者のもとへ向かった。
知人は緊張した顔をしていたが、逃げずに歩いていた。
船の責任者は、提出された書類に目を通し、いくつか質問をした。
料理の経験はどれほどあるのか。
船内でどのような仕事ができるのか。
急な変更に対応できるのか。
男は、ひとつひとつ答えた。
剛は横で黙って聞いていた。
やがて、責任者は書類を閉じた。
「料理人としての経験については、問題ないと判断する。ただし、船内の仕事は陸上とは違う。限られた設備と食材で、乗員の食事を用意してもらうことになる」
「承知しております」
男は答えた。
「乗船を認める。ただし、指示に従い、担当する仕事を勝手に離れないこと」
「はい」
剛は、思わず深く息を吐いた。
料理人の同行は認められた。
しかし、それで薫の乗船が認められたわけではない。
責任者は剛へ視線を向けた。
「お前は、ほかに何か申し出があるのか」
剛の胸が強く打った。
ここで、薫のことをどう説明するのか。
名簿にない人間を乗せることはできない。
料理人の補助が必要だと言っても、その人物の身元や適性を確認せずに乗せるわけにはいかない。
剛は、言葉を選んだ。
「船内の仕事について、もう一人、補助が必要になる可能性はありますでしょうか」
「もう一人?」
「はい。食事の準備や片づけなど、補助的な仕事です。必要であれば、責任者の指示に従って働ける者を探すことも考えております」
責任者は眉をひそめた。
「出発当日に、人員を増やすのは簡単ではない」
「承知しております」
「それに、誰でもよいわけではない。身元の確認も必要だ。必要性がなければ認められない」
「はい」
「まずは船内の人員配置を確認する。補助が必要かどうかは、そのあとで判断する」
剛は敬礼した。
「ありがとうございます」
「まだ許可したわけではない」
「承知しております」
部屋を出たあと、剛は壁に手をついた。
料理人の同行は認められた。
だが、薫が乗れるかどうかは、まだ分からない。
時間だけが過ぎていく。
船は、まもなく出発の準備を終える。
剛は、あの倉庫の陰で待っている薫の顔を思い浮かべた。
期待させておいて、何もできなかったら。
そのとき、自分は彼女に何と言えばいいのだろう。




