↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
49/100

第四十九話 船に乗るための最後の嘘

第四十九話 船に乗るための最後の嘘

――薫、男として生きる朝


 出発の日の朝が来た。


 山口の空は、夜明け前から重たい雲に覆われていた。


 港には、沖縄へ向かう船が静かに停泊していた。船体に打ちつける波の音が、まだ薄暗い海に響いている。


 船の周囲では、兵士たちが荷物を運び、出発に向けた最終確認を進めていた。


 その光景を遠くから見つめながら、剛は何度も懐中時計を確かめた。


 今日、船は出る。


 そして今日中に、薫が乗船できるかどうかも決まる。


 昨日、料理人の知人は確認を受けることに同意してくれた。船内の食事を担当する者として、必要な経験や身元を確かめられることになっている。


倉庫の陰で待つ薫には、時間がひどく長く感じられた。


 遠くから兵士たちの声が聞こえる。


 荷物を運ぶ音。


 船の金属が軋む音。


 誰かが名前を呼ぶ声。


 そのたびに、薫の肩が小さく震えた。


 自分の名前を呼ばれるのではないか。


 ここにいることが見つかるのではないか。


 そう思うと、息をすることさえ難しくなった。


 薫は、軍服の袖を握りしめた。


 さとるは、今ごろどうしているだろう。


 沖縄の船の中で、訓練をしているのだろうか。


 食事を取れているだろうか。


 夜、眠れているだろうか。


 誰にも弱音を吐けず、ひとりで恐怖を抱えているのではないだろうか。


 薫は、目を閉じた。


 初めて高台で言葉を交わした日のことを思い出す。


 あの日、さとるは自分のことを何も知らなかった。


 ただ、泣いている薫を見て、声をかけてくれた。


 軍の規則に背くかもしれないと分かっていても、放っておけなかったのだろう。


 その優しさが、薫の心に残った。


 やがて二人は、少しずつ互いのことを話すようになった。


 好きなもの。


 苦手なもの。


 戦争が終わったら、どこへ行きたいか。


 そんな小さな話をする時間が、何よりも大切になった。


 さとるは、未来の話をするとき、時々、言葉を止めた。


 そのたびに薫は、彼が何を考えているのか分かった。


 自分たちに、その未来が本当に訪れるのか。


 彼は信じたいのに、信じきれなかったのだ。


 薫は、帽子を両手で握った。


「さとる……」


 声に出すと、涙があふれた。


「あなたのところへ行きたい」


 しかし、どれほど願っても、船は勝手には彼女を乗せてくれない。


 この世界には、二人の気持ちだけでは越えられない壁があった。


 戦争。


 軍の命令。


 身分。


 そして、女であるという現実。


 薫は、短くなった髪にそっと触れた。


 髪を切る前は、切れば何かが変わると思っていた。


 でも、何も簡単には変わらなかった。


 自分は、やはり薫のままだった。


 それでも。


 それでも、彼女はさとるを思う気持ちを捨てられなかった。


     *


 午後になり、剛が戻ってきた。


 薫は、すぐに立ち上がった。


「剛さん……!」


 剛の表情を見ただけで、薫にはすべてが分かったわけではなかった。


 希望があるのか。


 もう駄目なのか。


 そのどちらにも見える、苦しい顔だった。


「料理人の知人は、乗船を認められた」


「本当ですか……!」


「ああ」


 薫の目に、光が戻った。


「それなら、私も……」


 剛は、すぐにうなずくことができなかった。


「薫。君については、まだ許可が出ていない」


 薫の表情が固まった。


「……そうですか」


「船内の補助が必要か、これから確認するそうだ。必要が認められれば、身元や仕事について、正式な確認を受けることになる」


「私のことを、話したんですか」


「君を乗せたいと直接伝えたわけじゃない。だが、補助の必要があるかどうかは尋ねた」


 薫は、うつむいた。


 自分のことを説明するには、どうしても越えられない壁がある。


 女性であることを隠したまま、正式な確認を受けることはできない。


 かといって、すべてを明かせば、乗船は認められないだろう。


 剛も、それを分かっていた。


「……剛さん」


「何だ」


「私が女だと知られたら、どうなりますか」


 剛は、しばらく答えられなかった。


「乗船は認められないだろう。軍の船だからな。それに、俺も責任を問われるかもしれない」


 薫は、目を閉じた。


 分かっていたことだった。


 それでも、言葉にされると、胸の奥が冷たくなった。


「では、私は……」


「まだ、諦めると決めるな」


 剛は言った。


「ただし、君に無理なことをさせるつもりもない。乗船できる方法があるか、最後まで確認する。それが駄目なら、別の方法を考えよう」


「別の方法……」


「さとるがいる場所について、分かることがないか探す。船に乗れなかったとしても、君をひとりで放っておくつもりはない」


 薫は、涙をこらえた。


「ありがとうございます」


「礼を言うな。俺も、さとるに会いたいんだ」


 剛は海のほうを見た。


「生きているうちに、あいつに会って、文句のひとつでも言ってやりたい。勝手にひとりで苦しむなってな」


 薫は、涙の中で少しだけ笑った。


 さとるが聞いたら、きっと困った顔をするだろう。


 その顔を思い浮かべるだけで、胸が痛んだ。


     *


 夕方、港に出発の準備を知らせる声が響いた。


 船は、いつでも出られる状態になりつつあった。


 剛は、料理人の知人に船内へ入るよう伝えたあと、薫のもとへ戻った。


 薫は、帽子を手に持ったまま立っていた。


「どうなりましたか」


「……まだだ」


 剛は苦しそうに言った。


「補助の必要性について、最終的な返事が来ていない」


 薫は、しばらく何も言わなかった。


 船を見つめる。


 あの船が出てしまえば、沖縄へ向かう機会は遠のく。


 さとるは、あの海の向こうにいる。


 自分がどれほど会いたいと思っても、声は届かない。


 手を伸ばしても、触れられない。


「……剛さん」


「うん」


「私、もう少しだけ待ちます」


 薫は、震える声で言った。


「最後まで、待ってみます」


 剛はうなずいた。


 それしかできなかった。


 やがて、港の向こうで船員の声が響いた。


 出発の時刻が近づいていた。


 薫は帽子をかぶった。


 短い髪が、帽子の下に隠れる。


 彼女は、海を見つめたまま、小さく息を吸った。


「さとる……」


 その名を口にした瞬間、涙が頬を伝った。


「どうか、生きていて」


 会いたい。


 けれど、何よりも、生きていてほしい。


 薫は、その願いだけを胸に抱きしめた。


 船に乗れるかどうかは、まだ決まっていない。


 剛の努力が届くかどうかも、分からない。


 それでも、二人は最後の返事を待っていた。


 沖縄の海では、さとるが生きるために訓練を続けている。


 山口の港では、薫が彼のもとへ向かう道を探している。


 そして剛は、その二人の間にある、あまりにも大きな距離を埋めようとしていた。


 船が出るまで、あとわずか。


 その扉が開くのか、それとも閉ざされるのか。


 誰にも、まだ分からなかった。


 しかし、薫をどうするかという問題は、何ひとつ解決していなかった。


 男として船に乗る。


 それが、彼女の望みだった。


 だが、軍服を着て髪を短くしただけで、すべてがうまくいくわけではない。


 乗船する者の身元は確認される。名簿にない人間を、理由もなく船に乗せることはできない。


 剛は、その現実を誰よりも分かっていた。


「……何とかしなければ」


 そうつぶやいたとき、背後から足音がした。


「剛さん」


 振り返ると、薫が立っていた。


 短く切られた黒髪は帽子の下に隠れ、借りた軍服は彼女の体には少し大きかった。袖口を整え、襟元を何度も確かめた跡が見える。


 顔色は悪かった。


 眠れなかったのだろう。


 それでも、薫は剛の目をまっすぐ見ていた。


「来たんだな」


「はい」


「怖くないか」


 薫は少しだけ黙った。


 それから、正直に答えた。


「怖いです」


 剛はうなずいた。


「そうだろうな」


「でも、行きたいんです」


 薫の声は震えていた。


「ここで帰ったら、私はきっと、さとるに会いに行こうとしたことさえ、いつか怖くて忘れようとすると思います。だから……今日だけは、逃げたくないんです」


「薫。逃げることが、悪いわけじゃない」


 剛は静かに言った。


「怖い場所から離れることも、生きるためには必要だ。君が今ここで帰ったとしても、俺は君を責めない」


「分かっています」


 薫は帽子のつばに触れた。


「でも、私は自分で決めました。さとるに会いたい。生きているなら、その顔を見たいんです」


 剛は、言葉を失った。


 薫の決意は、昨日よりも強くなっていた。


 けれど、その強さの奥にあるものは、決して恐怖を知らない勇気ではない。


 恐怖を抱えたまま、それでも進もうとする思いだった。


     *


 剛は薫を港から少し離れた倉庫の陰へ案内した。


「ここで待っていてくれ。俺が呼ぶまでは、絶対に出てくるな」


「はい」


「誰かに声をかけられても、余計なことは話さないことだ。だが、身元を偽って確認をすり抜けるようなことはさせられない。そんなことをすれば、君も、俺も、船の人間も危険になる」


 薫は唇を引き結んだ。


「……では、私は乗れないのでしょうか」


「まだ決まったわけじゃない」


 剛は苦しそうに答えた。


「料理人の知人については、今日、船の責任者が最終判断をする。まずは、その返事を待つ」


 薫はうなずいた。


 自分が男になれないことが、こんなにも大きな壁になるとは思わなかった。


 髪を切ることならできた。


 軍服を着ることもできた。


 男らしく歩こうと、何度も練習した。


 声を低くしようと、家の中でひとり言葉を繰り返した。


 けれど、どれだけ努力しても、薫は薫だった。


 長い髪を失っても、男の体になるわけではない。


 自分の過去を消せるわけでもない。


 そして、船に乗るために、存在しない人間になれるわけでもなかった。


「剛さん……」


「何だ」


「もし、乗れなかったら……」


 薫は言葉を切った。


 その先を口にするのが怖かった。


 もし乗れなかったら、山口に残るしかない。


 さとるのいる沖縄へ行くことはできない。


 それでも、剛に無理をさせるわけにはいかなかった。


「もし乗れなかったら、私はここで待ちます」


 剛は彼女を見つめた。


「本当に、それでいいのか」


「いいえ」


 薫は涙をこらえながら首を振った。


「本当は、嫌です。今すぐにでも行きたい。さとるのいる場所まで走っていきたい。でも……剛さんを危険にさらしてまで、無理に乗ることはできません」


 その言葉に、剛の胸が痛んだ。


 薫は、自分の願いだけを押し通そうとしているのではなかった。


 さとるに会いたい。


 けれど、剛にも生きていてほしい。


 その二つの思いの間で、彼女は苦しんでいた。


「ありがとう、薫」


「どうして、剛さんがお礼を言うんですか」


「君が、ちゃんと考えてくれているからだ」


 剛は、倉庫の入口から港を見た。


「だからこそ、俺も最後まで方法を探す」


     *


 午前の遅い時間、剛は料理人の知人とともに船の責任者のもとへ向かった。


 知人は緊張した顔をしていたが、逃げずに歩いていた。


 船の責任者は、提出された書類に目を通し、いくつか質問をした。


 料理の経験はどれほどあるのか。


 船内でどのような仕事ができるのか。


 急な変更に対応できるのか。


 男は、ひとつひとつ答えた。


 剛は横で黙って聞いていた。


 やがて、責任者は書類を閉じた。


「料理人としての経験については、問題ないと判断する。ただし、船内の仕事は陸上とは違う。限られた設備と食材で、乗員の食事を用意してもらうことになる」


「承知しております」


 男は答えた。


「乗船を認める。ただし、指示に従い、担当する仕事を勝手に離れないこと」


「はい」


 剛は、思わず深く息を吐いた。


 料理人の同行は認められた。


 しかし、それで薫の乗船が認められたわけではない。


 責任者は剛へ視線を向けた。


「お前は、ほかに何か申し出があるのか」


 剛の胸が強く打った。


 ここで、薫のことをどう説明するのか。


 名簿にない人間を乗せることはできない。


 料理人の補助が必要だと言っても、その人物の身元や適性を確認せずに乗せるわけにはいかない。


 剛は、言葉を選んだ。


「船内の仕事について、もう一人、補助が必要になる可能性はありますでしょうか」


「もう一人?」


「はい。食事の準備や片づけなど、補助的な仕事です。必要であれば、責任者の指示に従って働ける者を探すことも考えております」


 責任者は眉をひそめた。


「出発当日に、人員を増やすのは簡単ではない」


「承知しております」


「それに、誰でもよいわけではない。身元の確認も必要だ。必要性がなければ認められない」


「はい」


「まずは船内の人員配置を確認する。補助が必要かどうかは、そのあとで判断する」


 剛は敬礼した。


「ありがとうございます」


「まだ許可したわけではない」


「承知しております」


 部屋を出たあと、剛は壁に手をついた。


 料理人の同行は認められた。


 だが、薫が乗れるかどうかは、まだ分からない。


 時間だけが過ぎていく。


 船は、まもなく出発の準備を終える。


 剛は、あの倉庫の陰で待っている薫の顔を思い浮かべた。


 期待させておいて、何もできなかったら。


 そのとき、自分は彼女に何と言えばいいのだろう。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。