第四十八話 夜明けに届いた返事
第四十八話 夜明けに届いた返事
――沖縄へ向かう船、その扉の前で
出発まで、あと一日。
夜明け前の山口は、まだ深い闇に包まれていた。
剛は、ほとんど眠れないまま朝を迎えていた。
目を閉じれば、薫の短くなった黒髪が浮かんだ。
長い髪を切るという決断が、どれほど大きなものだったのか。剛には、完全には分からない。それでも、あの高台で薫が見せた目だけは、忘れることができなかった。
泣いていた。
けれど、諦めてはいなかった。
さとるに会いたい。
その気持ちだけで、彼女は自分の姿まで変えようとしている。
剛は机の上に置かれた書類を見つめた。
船内で働く料理人の同行願い。
何度も読み直した紙には、特別なことなど書かれていない。料理の経験があり、船内の食事を手伝うことができる。それだけだった。
しかし、その書類の裏には、誰にも知られてはならない願いが隠れていた。
薫を、さとるのいる沖縄へ連れていく。
それが叶わなければ、薫は山口に残される。
さとるがどこにいるのかも分からないまま、海を見つめて待つことになる。
「……頼むから、間に合ってくれ」
剛は立ち上がった。
返事を聞きに行かなければならなかった。
*
上官の部屋の前で、剛は一度足を止めた。
中から、紙をめくる音が聞こえた。
扉を叩く。
「入れ」
「失礼します」
剛が敬礼すると、上官は顔を上げた。
「昨日の件だな」
「はい。船の責任者から、返事はありましたでしょうか」
上官は机の上の書類を一枚取り、しばらく目を通してから、剛を見た。
「船の責任者からは、条件付きで検討できるとの返答があった」
剛の胸が大きく跳ねた。
「それでは……」
「まだ最後まで聞け」
「失礼しました」
「船内で働く者を増やす必要性は認められた。ただし、乗船する人間の身元、経験、健康状態を確認する必要がある。出発前の確認を通らなければ、乗せることはできない」
「承知しました」
「それから、出発直前に人員を変更することになる。お前が責任を持って説明できるのだな」
「はい」
剛は答えた。
声が震えないよう、歯を食いしばった。
許可が完全に下りたわけではない。
それでも、昨日まで閉ざされていた扉に、わずかな隙間ができた。
「同行を希望している者は、今日中に確認を受けさせろ。最終判断は船の責任者が行う」
「ありがとうございます」
「礼を言うのは、許可が出てからにしろ。余計な問題を起こすな。分かったな」
「はい!」
剛は深く頭を下げた。
部屋を出ると、廊下の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
まだ終わっていない。
料理人の知人が引き受けてくれるかどうか。
そして、薫をどうやって船へ乗せるのか。
大きな問題は、残っていた。
*
剛は、すぐに知人のもとへ向かった。
男は、朝の仕事を始める前だった。
「返事を聞かせてくれ」
剛が言うと、男は少し困った顔をした。
「昨日は、ずっと考えていた」
「……ああ」
「家族にも話した。簡単な仕事じゃないことも、帰ってこられない可能性があることも分かっている」
男は、しばらく黙った。
「正直に言えば、怖い。沖縄へ向かう船に乗るなんて、できることなら避けたい」
剛はうなずいた。
「当然だ」
「だが、船の中で食事を用意する人間が必要なんだろう?」
「ああ。船の責任者が、確認を受けることを認めてくれた。まだ最終許可は出ていないが、話は進んでいる」
男は深く息を吐いた。
「俺が行けば、本当に役に立てるのか」
「料理の腕は知っている。そこは心配していない」
「そういうことじゃない」
男は剛を見た。
「俺が行くことで、何かが変わるのか。俺が乗ったからといって、戦争が終わるわけでも、誰かが必ず助かるわけでもない」
その言葉に、剛は答えられなかった。
確かに、そうだった。
誰か一人が船に乗ったところで、戦争が終わるわけではない。
誰かが必死に働いたところで、明日の命が保証されるわけでもない。
それでも、剛には連れていきたい人がいた。
「……俺にも、会わせたい人がいるんだ」
思わず口から出た言葉だった。
男は、剛の顔をじっと見た。
「その人のために、俺を連れていきたいのか」
「詳しいことは話せない」
「そうか」
男はそれ以上、問い詰めなかった。
長い沈黙のあと、静かにうなずいた。
「分かった。確認を受ける。俺にできることがあるなら、やってみる」
剛は思わず男の腕をつかみそうになり、慌てて手を止めた。
「……ありがとう」
「礼はいい。まだ乗れると決まったわけじゃないんだろう」
「ああ」
「それに、俺だって怖いんだ。怖いまま行くんだよ」
剛は、その言葉を胸に刻んだ。
怖くても、前へ進む。
それは、さとるが訓練の中で何度も繰り返してきたことでもあった。
ただし、恐怖を抱えながら進むことと、恐怖を感じなくなることは違う。
剛は、それを忘れたくなかった。
*
その日の昼前、剛は高台へ向かった。
薫は、いつもの場所で海を見つめていた。
軍服は着ていなかった。短くなった髪を風に揺らしながら、遠い水平線を見つめている。
剛の姿に気づくと、薫はすぐに駆け寄った。
「剛さん。どうでしたか」
その声には、期待と恐怖が混ざっていた。
剛は、まず周囲を確かめた。
近くに人影はない。
「船の責任者が、条件付きで確認を進めることを認めた」
「本当ですか……?」
「ああ。ただし、まだ最終的な許可は出ていない。料理人の知人が確認を受けて、それを通らなければ乗船できない」
薫の顔に、かすかな希望が浮かんだ。
「それなら……私も行けるのでしょうか」
剛は、すぐには答えなかった。
その希望を、簡単に壊したくなかった。
けれど、できると約束することもできなかった。
「まだ分からない。だが、可能性は残っている」
薫は、両手を胸の前で握りしめた。
「ありがとうございます」
「礼は、まだ早い」
「それでも……ありがとうございます。私のために、ここまでしてくれて」
薫の目に涙が浮かんだ。
剛は、彼女の顔をまっすぐ見た。
「薫。ひとつ、約束してくれ」
「はい」
「もし乗船できたとしても、すべてがうまくいくとは限らない。船に乗ったら、俺の指示を聞いてくれ。勝手に動けば、君だけじゃなく、ほかの人間まで危険にさらすことになる」
「分かっています」
「それから、さとるに会える保証もない」
その言葉を口にするのは、剛自身にもつらかった。
「沖縄に着いても、さとるがどこにいるのか、すぐには分からないかもしれない。会えないまま、離れ離れになる可能性だってある」
薫は、唇を噛んだ。
分かっている。
何度も考えた。
それでも、実際に言葉にされると、胸の奥が冷たくなった。
「……それでも、行きたいです」
薫は顔を上げた。
「会えるか分からなくても、会えないかもしれなくても、私は行きたい。ここで何もできずに待つことが、もう苦しいんです」
「薫……」
「さとるは、怖いと言っていました。生きたいと、帰りたいと……私のところへ帰りたいと、言ってくれました」
涙が頬を伝った。
「だから、私は信じたいんです。さとるが今も、生きようとしていることを」
剛は、何も言わなかった。
彼女が望んでいるのは、死ぬために戦場へ向かうことではない。
愛する人が生きていると信じ、その人のそばへ行きたいのだ。
その願いが、どれほど危ういものなのか。
剛には分かっていた。
「明日の出発前に、もう一度会おう」
剛は言った。
「そのときまでに、乗船できるかどうか、できるだけはっきりさせる」
「はい」
「それまでは、誰にも話すな。家族にも、港の人にもだ」
薫は、しっかりとうなずいた。
「分かりました」
*
その夜、薫は家で軍服を着てみた。
鏡の前に立つ。
見慣れない姿だった。
肩の線も、袖の長さも、帽子の形も、これまでの自分とは違う。
帽子を深くかぶると、切った髪はほとんど隠れた。
しかし、鏡の中にいるのは、男になった自分ではなかった。
怖がっている一人の若い女だった。
薫は帽子を取った。
「……私、ちゃんとできるのかな」
小さくつぶやく。
船の中では、知らない人間と顔を合わせる。
誰かに名前を聞かれるかもしれない。
声を聞かれるかもしれない。
何気ない仕草ひとつで、すべてが露見するかもしれない。
それでも、今さら髪を切らなければよかったとは思わなかった。
髪を切ったことが、さとるに会える保証になるわけではない。
軍服を着たことが、沖縄へ行ける保証になるわけでもない。
それでも、薫は自分で選んだのだ。
何もできないまま待ち続けるのではなく、できることを探す道を。
薫は帽子を机の上に置き、胸元に手を当てた。
「さとる。あなたに会いたい」
涙が、またひとつ落ちた。
「でも、本当は……あなたに、生きていてほしい」
会うことだけが願いではなかった。
生きていてほしい。
生きて、もう一度笑ってほしい。
戦争が終わったあと、何でもない話をしてほしい。
二人で海を見ながら、未来のことを話してほしい。
その未来を、まだ諦めたくなかった。
*
同じ夜、沖縄の船内では、さとるが眠れずにいた。
訓練を終え、食事を済ませても、心は休まらなかった。
船内の物音が止むたび、次の命令が近づいているような気がした。
仲間たちの顔が浮かぶ。
出撃を命じられた者たち。
出撃していった者たち。
そして、その後に聞かされる、冷たい報告。
任務は成功した。
しかし、誰がどうなったのか、詳しいことは伝えられない。
成功という言葉だけが残り、人の姿は消えていく。
さとるは、そんな報告を聞くたび、喉の奥が詰まるような思いがした。
自分もいつか、名前だけになるのだろうか。
誰かが自分の名前を読み上げ、そのあとに、短い報告が続く。
そのとき、薫はどうするのだろう。
さとるは目を閉じた。
思い出したのは、訓練のことではなかった。
高台で、薫が笑った顔だった。
何気ない話をしていたときの、少し照れた表情だった。
彼女と一緒に歩く未来を想像したこと。
海のそばで暮らしたいと話したこと。
どれも、特別なことではなかった。
だからこそ、欲しかった。
戦争がなければ、きっと手に入れられたかもしれない日々。
さとるは、布団の中で拳を握った。
「……生きたい」
小さな声だった。
誰にも聞かせるつもりはなかった。
「薫と、生きたい」
その願いは、命令書には書かれていない。
訓練の成績にもならない。
誰かが評価してくれるものでもない。
それでも、さとるにとっては、何よりも大切な思いだった。
彼は、まだ知らなかった。
薫が自分のもとへ向かうために、髪を切ったことを。
剛が、危険を承知で彼女のための道を探していることを。
そして、明日、薫が沖縄へ向かう船に乗れるかどうかが決まるかもしれないことを。
山口では、薫が夜明けを待っていた。
沖縄では、さとるが眠れない夜を過ごしていた。
二人は同じ海を思いながら、遠く離れた場所で、それぞれの朝を待っていた。
明日、船は出る。
薫がその船に乗れるのか。
剛の願いは届くのか。
答えは、まだ闇の中にあった。




