第四十七話 乗船を許されない者
第四十七話 乗船を許されない者
――剛の焦り、薫の覚悟
出発まで、あと二日。
山口の海には、秋とも冬ともつかない冷たい風が吹いていた。
港に停泊する船の周囲では、兵士たちが慌ただしく行き交っていた。荷物を運ぶ者、命令書を手に走る者、船内の備品を確認する者。誰もが出発に向けて動いている。
その光景を、剛は少し離れた場所から見つめていた。
自分にも、沖縄へ向かう命令が下った。
仲間たちが次々と出撃していくのを見送りながら、いつか自分にもその日が来るのだろうと思っていた。けれど、いざ命令を受けると、心の準備など何ひとつできていなかった。
そして今、剛には、もうひとつ考えなければならないことがあった。
薫を連れていく。
それは、口にするだけなら簡単だった。
しかし、軍の船に民間の女性を乗せるなど、許されるはずがない。しかも、薫は髪を切り、男の姿になろうとしている。見つかれば、薫だけでなく、剛自身も厳しい処分を受けるかもしれない。
それでも、剛は諦められなかった。
あの高台で、短くなった薫の髪を見たときの衝撃が、今も目に焼きついていた。
長い黒髪を失っても、薫の目は変わらなかった。
さとるに会いたい。
ただ、その一心だった。
「……俺は、どうすればいいんだ」
剛は小さくつぶやき、手の中の書類を握りしめた。
昨日、上官に提出した書類には、船内で働く料理人の知人を同行させたいという希望を書いていた。料理の経験があること、船内の食事を支える人手が必要であること。その理由を何度も考え直し、少しでも不自然に思われないように整えた。
だが、返事はまだなかった。
料理人の知人も、同行を引き受けるかどうか決めかねていた。
当然だった。
沖縄へ向かう船は、普通の旅客船ではない。戦場へ向かう軍の船だ。そこで働くということは、自分自身も危険の中へ入っていくということだった。
剛には、その男を責めることなどできなかった。
自分だって、怖いのだから。
夜になっても、剛はなかなか眠れなかった。
目を閉じると、沖縄の海が浮かんだ。
そこには、さとるがいる。
そして、まだ山口に残っている薫がいる。
もし薫を連れていけなかったら。
もし自分だけが沖縄へ向かい、さとるの最期を知らないまま、薫を山口に残すことになったら。
そのとき、薫はどうなるのだろう。
さとるの帰りを待ち続けるのだろうか。
港へ通い、船の影を探し、誰かが持ち帰る知らせに怯えながら、いつまでも海を見つめるのだろうか。
剛は布団から起き上がった。
「……そんなこと、させられるかよ」
誰に聞かせるでもなく、そう言った。
さとるは、大切な友人だった。
訓練の苦しさも、死への恐怖も、互いに口にできない思いも、剛は知っている。
さとるが薫をどれほど大切にしているかも、知っていた。
だからこそ、二人を会わせてやりたかった。
だが、会わせることと、無事に連れていくことは違う。
剛がどれほど願っても、戦争は二人の思いを待ってはくれない。
翌朝、剛は再び上官のもとへ向かった。
*
「昨日の件ですが、返事はいただけますでしょうか」
上官は書類から顔を上げた。
「まだ確認中だ」
「出発まで時間がありません」
「分かっている」
短い返事だった。
剛は、それ以上すぐには言葉を続けられなかった。
焦りを見せれば、かえって怪しまれる。
しかし、何も言わずに待っているだけでは、時間が過ぎてしまう。
「料理人の経験がある者です。船内の食事を用意する仕事なら、役に立つはずです」
「それは昨日も聞いた」
「はい」
「剛。なぜ、そこまでしてその男を連れていきたい?」
その問いに、剛の心臓が大きく跳ねた。
上官の目は、剛の顔から離れなかった。
「知人だからです」
「知人なら、ほかにもいるだろう」
「……はい」
「出発直前になって、なぜ急に人を増やす必要がある?」
剛は答えを探した。
薫のことを話すわけにはいかなかった。
彼女が髪を切ったことも、男の姿になろうとしていることも、さとるに会うために沖縄へ向かおうとしていることも。
ひとつでも口にすれば、すべてが崩れる。
「船内の仕事を少しでも助けられる者がいれば、皆の負担も減ると思いました」
「それだけか?」
「……はい」
剛は、上官の目を見た。
嘘をつくことには慣れていなかった。
訓練でどれほど苦しい命令を受けても、恐怖を隠して平然と振る舞うことはできても、誰かを守るために本当のことを隠すのは、別の苦しさがあった。
上官はしばらく剛を見つめたあと、書類を閉じた。
「船の責任者に確認する。だが、許可が出るとは限らない」
「承知しております」
「それから、勝手なことはするな。軍の船に乗る人間を、お前ひとりの判断で決められると思うなよ」
「はい」
「下がれ」
剛は敬礼して部屋を出た。
廊下に出た瞬間、ようやく息を吐いた。
許可は出なかった。
だが、完全に拒絶されたわけでもない。
それが希望なのか、ただの猶予なのか、剛には分からなかった。
出発まで、あと一日と少し。
残された時間は、あまりにも短かった。
*
そのころ、薫は家の中で、軍服を前に座っていた。
剛から渡された服は、畳の上にきちんと置かれていた。
その横には、帽子がある。
何度も手に取っては、また戻した。
袖を通すことはできる。
帽子をかぶり、髪を隠すこともできる。
しかし、それだけで男になれるわけではなかった。
声。
歩き方。
立ち方。
何気ない仕草。
男として振る舞わなければならない場面は、きっと何度も訪れる。船に乗ることができたとしても、そこで誰かに話しかけられたら、どう答えればいいのだろう。
もし、正体を見破られたら。
もし、船から降ろされたら。
もし、剛まで巻き込んでしまったら。
薫は軍服の布を指先でつまんだ。
「……私に、できるのかな」
答える者はいなかった。
窓の外から、遠くの波の音が聞こえた。
その音を聞くと、さとるの顔が浮かんだ。
初めて言葉を交わした高台。
少し困ったように笑った顔。
訓練のことを話すとき、何でもないように振る舞いながら、時折、遠くを見る目。
そして、戦争が終わったら何をしたいかと尋ねたとき、さとるがほんの少しだけ見せた、未来を信じたいという表情。
あの顔を、もう一度見たかった。
それだけだった。
薫は軍服を胸に抱きしめた。
「さとる……」
声に出した途端、涙があふれた。
会いたい。
ただ、会いたい。
生きているのか。
食事を取れているのか。
夜、眠れているのか。
怖くないはずがない。
さとるは、怖いと話していた。
帰りたいと話していた。
自分のもとへ帰りたいと、言ってくれた。
その言葉を思い出すたび、薫の胸は締めつけられた。
さとるは、生きたいのだ。
死ぬことを望んでいるのではない。
だからこそ、薫は彼のそばへ行きたかった。
彼が生きようとする時間を、遠くから想像するだけで終わらせたくなかった。
しかし、思いだけでは船に乗れない。
剛が許可を得られなければ、何も始まらない。
薫は短くなった髪に触れた。
切り落とした髪は、もう戻らない。
そのことを考えると、胸の奥が痛んだ。
けれど、後悔はなかった。
あの長い髪は、薫がこれまで生きてきた時間そのものだった。
それを失ってでも、進みたい道があった。
「私、行くからね……」
誰もいない部屋で、薫はさとるに語りかけた。
「あなたに会えるか分からない。会えたとしても、どうなるのか分からない。それでも……私は、あなたを探しに行きたい」
涙を拭い、軍服を畳み直した。
まだ着ることはできなかった。
けれど、もう目を背けることもしなかった。
午後、剛は料理人の知人と会うため、指定された場所へ向かった。
男は、剛を見るなり困ったような顔をした。
「昨日の話だが……本当に、沖縄へ行くんだな」
「ああ」
「危険な船なんだろう?」
「そうだ」
「それなのに、俺を連れていきたいのか」
「船の中で料理を作る仕事だ。できることはあると思う」
男は黙り込んだ。
剛は、彼に無理をさせたいわけではなかった。
ただ、薫が乗船するための道を作るには、料理人としての名目が必要だった。
そのことを、目の前の男に話すことはできない。
「家族もいるんだろう。危険を承知で来てくれとは、簡単には言えない」
剛がそう告げると、男は意外そうに顔を上げた。
「お前だって、家族や大切な人がいるんじゃないのか」
剛は一瞬、言葉を失った。
頭に浮かんだのは、山口にいる薫と、沖縄の海にいるさとるだった。
「……いるよ」
「だったら、なおさらだ。お前だって怖いはずだ」
「怖いさ」
剛は、初めて素直に認めた。
「怖くないわけがない。俺だって、死にたくない。帰れるものなら帰りたい」
男は黙って聞いていた。
「それでも、どうしても放っておけないことがあるんだ」
剛は、それ以上説明しなかった。
男はしばらく考え込んだあと、深く息を吐いた。
「少し、時間をくれ。家のこともある。仕事のこともある。すぐには決められない」
「分かった」
「明日の朝までには返事をする」
「……頼む」
剛は頭を下げた。
男が去っていく背中を見送りながら、剛は拳を握りしめた。
明日の朝。
それが、最後の望みになるかもしれなかった。
*
夕方、剛は高台へ向かった。
薫がそこにいるかどうかは分からなかった。
それでも、約束した場所へ行かずにはいられなかった。
高台に着くと、薫は海を見つめて立っていた。
短い髪が風に揺れていた。
剛の足音に気づくと、薫は振り返った。
「剛さん……」
「待たせたな」
「許可は……?」
剛は、すぐには答えられなかった。
薫の表情から、わずかな希望が消えていく。
「まだだ」
剛は正直に言った。
「船の責任者に確認している。料理人の知人も、まだ決めていない」
薫は視線を落とした。
「そうですか……」
「すまない」
「剛さんが謝ることじゃありません」
「いや。俺が連れていくと言ったんだ。それなのに、まだ何もできていない」
薫は首を横に振った。
「ここまでしてくれただけで、私は……」
その先を言おうとして、言葉が止まった。
ここまでしてくれただけで十分だ。
そう言ってしまえば、剛は自分を責めずに済むかもしれない。
けれど、それは本心ではなかった。
薫は、さとるに会いたかった。
会える可能性が残っている限り、諦めたくなかった。
「私、まだ諦めません」
薫は顔を上げた。
「許可が出るまで待ちます。でも、もし出なかったら……別の方法を考えます」
「薫。それは危険だ」
「分かっています」
「軍の船に、無断で乗ることはできない。見つかれば、君だけでは済まないかもしれない」
「それでも……」
薫の声が震えた。
「何もしないまま、さとるが帰ってこなかったら、私はきっと、一生後悔します」
剛は何も言えなかった。
薫の決意が、思いつきではないことは分かっていた。
髪を切った日から、彼女はもう後戻りのできない場所に立っている。
それでも、剛は彼女を無責任に戦場へ連れていきたくはなかった。
「俺は、君をさとるに会わせたい」
剛は、ゆっくりと言った。
「だが、君を危険にさらしたいわけじゃない。そこだけは、分かってくれ」
「はい」
「だから、明日の朝まで待ってくれ。料理人の返事と、船の許可。それがそろうかもしれない」
「……分かりました」
薫はうなずいた。
それから、二人はしばらく黙って海を見つめた。
夕日が水平線へ沈みかけていた。
その向こうに、沖縄がある。
そして、その海のどこかに、さとるがいる。
薫は、胸元で両手を握りしめた。
「さとる……どうか、生きていて」
その願いは、風にさらわれていった。
*
同じころ、沖縄の海を望む船内では、さとるが訓練を終えたところだった。
狭い空間から出た彼は、壁に手をつき、荒い息を整えた。
訓練は、何度繰り返しても慣れなかった。
体を動かすたび、ここから出られなくなる日のことを考えてしまう。
命令が下れば、自分は回天に乗る。
その先に何が待っているのか、考えないようにしても、考えてしまう。
生きて戻ることができるのか。
そもそも、戻ることを許されるのか。
さとるは、手の震えを隠すように拳を握った。
「さとる」
声をかけてきた兵士がいた。
「大丈夫か」
「ああ」
いつものように答えた。
けれど、その声には力がなかった。
兵士は何も言わず、さとるの肩を軽く叩いて離れていった。
さとるは、海の見える場所へ移動した。
夕方の光が波の上に伸びている。
山口の海とは違う。
それでも、海は海だった。
高台で薫と並んで見た海を思い出した。
薫は、今ごろ何をしているだろう。
家で食事をしているだろうか。
あの長い黒髪を、指で梳かしているだろうか。
それとも、いつものように港へ来て、自分の乗った船が戻ってくるのを待っているのだろうか。
さとるは、胸の奥が痛くなるのを感じた。
会いたい。
声が聞きたい。
もう一度、あの高台で、何でもない話をしたい。
戦争が終わったら、一緒に歩きたい。
ただ、それだけなのに。
彼は海に向かって、小さくつぶやいた。
「薫……俺は、まだ生きてるよ」
その言葉を、誰かに届けたかった。
遠く離れた山口まで。
薫のいる場所まで。
けれど、声は波の音に消えていった。
さとるは知らなかった。
薫が髪を切ったことも。
剛が彼女を沖縄へ連れていこうと、必死に道を探していることも。
そして、明日の朝、二人の運命を左右する返事が届くかもしれないことも。
山口では、薫が待っている。
沖縄では、さとるが生きようとしている。
その間に横たわる海は、あまりにも広かった。
出発まで、あと一日。
薫が船に乗れるかどうかは、まだ誰にも分からなかった。
それでも彼女は、諦めていなかった。
そして剛もまた、最後の可能性を探し続けていた。




