↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
46/100

第四十六話 明け方の約束

第四十六話 明け方の約束


空が白み始めるよりも早く、薫は家を出た。


町は、まだ眠っていた。


通りには人影もなく、家々の窓も暗い。遠くから、波が岸に打ち寄せる音だけが聞こえていた。


薫は、肩にかけた小さな包みを何度も確かめた。


中には、必要最低限のものしか入っていない。


それでも、歩くたびに包みが揺れると、まるで自分が本当に故郷を離れる準備をしているのだと、突きつけられるようだった。


昨日、長い黒髪を切った。


鏡を見るたびに、まだ見慣れない自分がそこにいる。


髪を切ったからといって、男になれたわけではない。


声も、体つきも、女性として生きてきた自分も、何ひとつ変わっていない。


それでも、もう戻るつもりはなかった。


さとるに会いたい。


それだけが、薫を高台へ向かわせていた。


高台へ続く坂道を上りながら、薫は何度も足を止めた。


怖かった。


剛が本当に来てくれるのか。


軍服を渡してくれるのか。


それとも、昨夜のうちに許可が下りず、計画そのものを諦めなければならなくなったのか。


考え始めると、足が前へ進まなくなる。


薫は、胸元を押さえた。


「……大丈夫」


自分に言い聞かせるようにつぶやいた。


「まだ、何も終わっていない」


やがて、高台に着いた。


海は、夜と朝の境目にあった。


水平線の向こうは薄い灰色に染まり、波の輪郭だけが、かすかに見えていた。


薫は、いつもの場所に立った。


さとると初めて話した場所。


二人で、未来のことを話した場所。


そして、出発前に、泣きながら抱き合った場所。


ここへ来るたび、隣にさとるがいるような気がする。


けれど、今は一人だった。


薫は、短くなった髪にそっと触れた。


「さとる……」


名前を呼んでも、返事はない。


それでも、薫は海を見つめた。


いつか、もう一度、この場所でさとると並んで海を見たい。


それだけの願いを、まだ捨てたくなかった。


     *


足音が聞こえたのは、空が少し明るくなってきた頃だった。


薫は、はっとして振り返った。


剛が、坂道を上ってきていた。


その顔には疲れがにじんでいた。目の下には薄い影があり、ほとんど眠っていないことが分かった。


「剛さん……」


「待たせたな」


剛は息を整えながら、周囲を見回した。


「誰にも見られてないか?」


「はい。誰にも」


「よし」


剛は手にしていた包みを、薫へ差し出した。


「これだ」


薫は、すぐには受け取れなかった。


「……軍の服ですか?」


「ああ。服と帽子だ」


剛が包みを開くと、折り畳まれた軍服と帽子が見えた。


薫は、それを見つめた。


自分が、これを着る。


男たちの中に入り、男として振る舞う。


今まで想像することさえなかった姿だった。


「着てみろ、と言いたいところだが、ここではやめておこう。誰かに見られたら困る」


剛は声を落とした。


「それに、服を着ただけで、すべてがうまくいくわけじゃない。船に乗れるかどうかも、まだ確定していない」


薫の指が、軍服の端をつかんだ。


「……許可は、まだなんですね」


剛は、正直にうなずいた。


「上官には話をした。知人の料理人を同行させる件も、船の担当者に確認してもらうことになっている。ただ、まだ正式な返事はない」


薫は、目を伏せた。


一瞬、胸の中で何かが崩れそうになった。


ここまで来た。


髪を切った。


自分なりに覚悟を決めた。


けれど、最後の扉は、まだ開いていなかった。


「……そうですか」


薫は、小さく答えた。


剛は、その顔を見つめた。


「悪い。まだ、確実なことは何も言えない」


「いいえ」


薫は首を横に振った。


「剛さんが、できることをしてくれているのは分かっています」


軍服を両手で抱きしめる。


「これを用意してくれただけでも、私は……」


言葉が詰まった。


本当は、怖かった。


希望を持てば持つほど、叶わなかったときの痛みが大きくなる。


剛がどれほど頑張ってくれても、許可が下りなければ、船に乗ることはできないかもしれない。


そして、沖縄へ行けなければ、さとるに会える可能性は遠ざかってしまう。


それでも、薫は軍服を手放さなかった。


「私、行きたいです」


「……ああ」


「何も分からないままなのは、怖いです。でも、ここで待っているだけなのも、怖いんです」


薫は海を見つめた。


「さとるが、今どんな気持ちでいるのか。怖いのか、帰りたいと思っているのか。私は、何も知りません」


声が震えた。


「でも、さとるが生きたいと思っていることは、知っています。私と生きたいと言ってくれたことも、覚えています」


薫は軍服を胸元に抱いた。


「だから、私も諦めたくないんです」


剛は、しばらく黙っていた。


やがて、ゆっくりとうなずいた。


「分かった。俺も、最後までやってみる」


     *


剛は、薫に帽子を渡した。


「髪は、これで隠せるかもしれない。でも、帽子をかぶれば男に見える、というほど簡単な話じゃない」


薫は、帽子を見つめた。


「分かっています」


「話し方や仕草も、いつもどおりでは目立つ可能性がある。けれど、無理に変えようとして、かえって不自然になることもある」


剛は、言葉を選びながら続けた。


「船に乗れたとしても、ずっと緊張し続けることになるかもしれない。誰かに声をかけられるたびに、正体が知られるんじゃないかと考えることになる」


薫は、帽子を握りしめた。


「それでも、行きたいです」


剛は、薫の目を見た。


「……本当に、後悔しないか」


薫は、すぐには答えなかった。


後悔しないと言い切ることはできなかった。


怖いものは怖い。


髪を切ったことだって、悲しくないわけではない。


船に乗れたとしても、そこで何が起きるのか分からない。


それでも、薫は顔を上げた。


「後悔するかもしれません」


剛は黙って聞いていた。


「怖くて、逃げたくなるかもしれません。自分には無理だったって、思うこともあるかもしれません」


薫は帽子を胸に抱いた。


「でも、何もしなかったことを、きっとずっと後悔すると思うんです」


その言葉に、剛は目を伏せた。


「……分かった」


それ以上、問い詰めることはしなかった。


薫の覚悟は、決して恐怖のない覚悟ではなかった。


恐怖を知り、それでも進もうとしている覚悟だった。


剛は、そのことを理解していた。


「出発まで、もう時間がない。俺はこれから訓練所へ戻る。料理人の件について、返事を確認しなければならない」


「はい」


「お前は、ここで待っていてくれ。俺から連絡するまでは、誰にも話すな」


「分かりました」


「それと、まだ船に乗れると決まったわけじゃない。そこだけは、忘れないでくれ」


薫は、うなずいた。


「はい」


剛は、少しだけ表情を和らげた。


「……さとるに会いたいんだな」


その言葉を聞いた瞬間、薫の目に涙が浮かんだ。


「はい」


「俺も、あいつに会いたい」


剛は海を見つめた。


「だから、何とかしたいんだ」


薫は、涙をぬぐった。


「ありがとうございます、剛さん」


「礼は、まだ早い」


剛は、いつものように少しだけ困った顔をした。


「本当に会えたときに言ってくれ」


薫は、小さくうなずいた。


「……はい」


剛は高台を離れた。


薫は、彼の姿が坂道の向こうへ消えるまで、ずっと見送っていた。


手の中には、軍服と帽子が残っていた。


それは、沖縄へ行けるという保証ではない。


さとるに会えるという約束でもない。


それでも、今の薫にとっては、何もできずに立ち尽くしていた自分から、一歩だけ前へ進んだ証だった。


訓練所へ戻る道を、剛は急いでいた。


空はすっかり明るくなっていた。


出発まで、あと一日余り。


時間は、容赦なく過ぎていく。


知人の料理人を同行させる許可。


船の担当者からの返事。


そして、薫をどうすれば安全に船へ乗せられるか。


どれも、まだ決着がついていなかった。


剛は、昨夜まとめた書類のことを思い出した。


料理の経験を証明する情報。


身元の確認に必要な事項。


同行を願い出る理由。


あれを提出したことで、話が少しでも進んでいればいい。


そう願いながら、剛は訓練所の門をくぐった。


廊下を進み、上官の部屋へ向かう。


扉の前に立ったとき、胸の奥が再び重くなった。


許可が下りなかったら。


知人を連れていくことが認められなかったら。


薫を船に近づける道は、さらに細くなる。


剛は拳を握った。


「失礼します」


扉を叩く。


中から返事があった。


部屋へ入ると、上官は書類を手にしていた。


剛は、姿勢を正した。


「昨日お願いした件ですが……」


上官は、すぐには答えなかった。


手元の書類に目を落とし、しばらくしてから剛を見た。


「船の担当者に確認している。だが、出発直前に人員を増やすことは簡単ではない」


「承知しています」


「その者を同行させる理由についても、さらに確認が必要だ。料理の経験があるというだけで、乗船を認めるわけにはいかん」


剛は、深く頭を下げた。


「はい」


「返事が出るまで、勝手な行動はするな」


「分かりました」


剛は、顔を上げた。


「ただ、出発までに判断していただけるよう、お願い申し上げます」


上官は、剛を見つめた。


「急いでいるのは分かる。だが、こちらにも確認しなければならないことがある。許可を出すかどうかは、まだ決まっていない」


「……はい」


剛は、もう一度頭を下げた。


部屋を出たとき、胸の中には焦りが残っていた。


まだ何も決まらない。


それでも、船の担当者へ確認する話は進んでいる。


今は、それだけを頼りにするしかなかった。


     *


昼過ぎ、剛は知人の料理人と連絡を取ることができた。


相手は、剛から突然、沖縄へ向かう船の話を持ちかけられ、驚いた様子だった。


「沖縄へ行く船だって?」


「ああ。料理を担当できる人間が必要になるかもしれない。もし同行を頼めることになったら、引き受けてもらえないかと思っている」


「そんな急に言われてもな……。いつ出るんだ?」


「明後日だ」


相手は、しばらく黙った。


「明後日? もう時間がないじゃないか」


「分かっている。だから、頼んでいるんだ」


「軍の船なんだろう。俺が乗れるのか?」


「今、許可を確認してもらっている。まだ決まっていない」


剛は、正直に答えた。


「許可が下りたとしても、行くかどうかは、あんた自身が決めてくれ。無理に頼むつもりはない」


相手は、深く息を吐いた。


「……少し考えさせてくれ」


「分かった。ただ、時間がないんだ。返事をもらえるなら、できるだけ早く頼む」


「分かった」


話が終わったあと、剛はしばらくその場に立っていた。


知人が引き受けてくれるかどうかも、まだ分からない。


許可が下りるかどうかも、分からない。


薫には、軍服と帽子を渡した。


だが、それを着て船へ乗り込む日が本当に来るのかは、誰にも約束できなかった。


剛は、空を見上げた。


「……さとる」


海の向こうにいる友の名を、心の中で呼ぶ。


「もう少しだけ、待っていてくれ」


その願いが届くかどうかは分からなかった。


けれど、剛は止まるわけにはいかなかった。


     *


その夜、薫は家で軍服と帽子を前に座っていた。


何度も包みを開き、服を確かめては、また丁寧に畳んだ。


帽子を手に取る。


かぶってみたいと思った。


けれど、まだ、かぶることができなかった。


これを身につけた瞬間、本当に自分が別の人間になろうとしているような気がしたからだ。


薫は、短くなった髪に触れた。


切ったときの鋏の音が、まだ耳に残っていた。


床に落ちた黒髪。


拾い上げたときの、あの悲しさ。


それでも、切る前の自分には戻れない。


ならば、進むしかなかった。


「……さとる」


薫は、軍服をそっと抱きしめた。


「私、あなたのところへ行けるかな」


涙がこぼれた。


「会えるかな……」


答えはなかった。


それでも、薫は服を包み直し、そばに置いた。


明日、剛から返事が来るかもしれない。


許可が下りるかもしれない。


あるいは、すべてが駄目になるかもしれない。


どちらの可能性も、薫には分かっていた。


それでも、今夜は諦めたくなかった。


海の向こうでは、さとるが訓練を続けている。


薫の知らない場所で、怖さを抱えながら、まだ生きようとしている。


だから、自分も、ここでただ泣いているだけではいたくなかった。


薫は涙をぬぐい、暗い窓の向こうを見つめた。


「……待っていてね、さとる」


その声は、誰にも届かない。


それでも、薫は祈るように、何度もその名を心の中で呼んだ。


明後日、沖縄へ向かう船が出る。


その船に、自分も乗れるのか。


すべてが決まるまで、残された時間は、もうわずかだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。