第四十六話 明け方の約束
第四十六話 明け方の約束
空が白み始めるよりも早く、薫は家を出た。
町は、まだ眠っていた。
通りには人影もなく、家々の窓も暗い。遠くから、波が岸に打ち寄せる音だけが聞こえていた。
薫は、肩にかけた小さな包みを何度も確かめた。
中には、必要最低限のものしか入っていない。
それでも、歩くたびに包みが揺れると、まるで自分が本当に故郷を離れる準備をしているのだと、突きつけられるようだった。
昨日、長い黒髪を切った。
鏡を見るたびに、まだ見慣れない自分がそこにいる。
髪を切ったからといって、男になれたわけではない。
声も、体つきも、女性として生きてきた自分も、何ひとつ変わっていない。
それでも、もう戻るつもりはなかった。
さとるに会いたい。
それだけが、薫を高台へ向かわせていた。
高台へ続く坂道を上りながら、薫は何度も足を止めた。
怖かった。
剛が本当に来てくれるのか。
軍服を渡してくれるのか。
それとも、昨夜のうちに許可が下りず、計画そのものを諦めなければならなくなったのか。
考え始めると、足が前へ進まなくなる。
薫は、胸元を押さえた。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「まだ、何も終わっていない」
やがて、高台に着いた。
海は、夜と朝の境目にあった。
水平線の向こうは薄い灰色に染まり、波の輪郭だけが、かすかに見えていた。
薫は、いつもの場所に立った。
さとると初めて話した場所。
二人で、未来のことを話した場所。
そして、出発前に、泣きながら抱き合った場所。
ここへ来るたび、隣にさとるがいるような気がする。
けれど、今は一人だった。
薫は、短くなった髪にそっと触れた。
「さとる……」
名前を呼んでも、返事はない。
それでも、薫は海を見つめた。
いつか、もう一度、この場所でさとると並んで海を見たい。
それだけの願いを、まだ捨てたくなかった。
*
足音が聞こえたのは、空が少し明るくなってきた頃だった。
薫は、はっとして振り返った。
剛が、坂道を上ってきていた。
その顔には疲れがにじんでいた。目の下には薄い影があり、ほとんど眠っていないことが分かった。
「剛さん……」
「待たせたな」
剛は息を整えながら、周囲を見回した。
「誰にも見られてないか?」
「はい。誰にも」
「よし」
剛は手にしていた包みを、薫へ差し出した。
「これだ」
薫は、すぐには受け取れなかった。
「……軍の服ですか?」
「ああ。服と帽子だ」
剛が包みを開くと、折り畳まれた軍服と帽子が見えた。
薫は、それを見つめた。
自分が、これを着る。
男たちの中に入り、男として振る舞う。
今まで想像することさえなかった姿だった。
「着てみろ、と言いたいところだが、ここではやめておこう。誰かに見られたら困る」
剛は声を落とした。
「それに、服を着ただけで、すべてがうまくいくわけじゃない。船に乗れるかどうかも、まだ確定していない」
薫の指が、軍服の端をつかんだ。
「……許可は、まだなんですね」
剛は、正直にうなずいた。
「上官には話をした。知人の料理人を同行させる件も、船の担当者に確認してもらうことになっている。ただ、まだ正式な返事はない」
薫は、目を伏せた。
一瞬、胸の中で何かが崩れそうになった。
ここまで来た。
髪を切った。
自分なりに覚悟を決めた。
けれど、最後の扉は、まだ開いていなかった。
「……そうですか」
薫は、小さく答えた。
剛は、その顔を見つめた。
「悪い。まだ、確実なことは何も言えない」
「いいえ」
薫は首を横に振った。
「剛さんが、できることをしてくれているのは分かっています」
軍服を両手で抱きしめる。
「これを用意してくれただけでも、私は……」
言葉が詰まった。
本当は、怖かった。
希望を持てば持つほど、叶わなかったときの痛みが大きくなる。
剛がどれほど頑張ってくれても、許可が下りなければ、船に乗ることはできないかもしれない。
そして、沖縄へ行けなければ、さとるに会える可能性は遠ざかってしまう。
それでも、薫は軍服を手放さなかった。
「私、行きたいです」
「……ああ」
「何も分からないままなのは、怖いです。でも、ここで待っているだけなのも、怖いんです」
薫は海を見つめた。
「さとるが、今どんな気持ちでいるのか。怖いのか、帰りたいと思っているのか。私は、何も知りません」
声が震えた。
「でも、さとるが生きたいと思っていることは、知っています。私と生きたいと言ってくれたことも、覚えています」
薫は軍服を胸元に抱いた。
「だから、私も諦めたくないんです」
剛は、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりとうなずいた。
「分かった。俺も、最後までやってみる」
*
剛は、薫に帽子を渡した。
「髪は、これで隠せるかもしれない。でも、帽子をかぶれば男に見える、というほど簡単な話じゃない」
薫は、帽子を見つめた。
「分かっています」
「話し方や仕草も、いつもどおりでは目立つ可能性がある。けれど、無理に変えようとして、かえって不自然になることもある」
剛は、言葉を選びながら続けた。
「船に乗れたとしても、ずっと緊張し続けることになるかもしれない。誰かに声をかけられるたびに、正体が知られるんじゃないかと考えることになる」
薫は、帽子を握りしめた。
「それでも、行きたいです」
剛は、薫の目を見た。
「……本当に、後悔しないか」
薫は、すぐには答えなかった。
後悔しないと言い切ることはできなかった。
怖いものは怖い。
髪を切ったことだって、悲しくないわけではない。
船に乗れたとしても、そこで何が起きるのか分からない。
それでも、薫は顔を上げた。
「後悔するかもしれません」
剛は黙って聞いていた。
「怖くて、逃げたくなるかもしれません。自分には無理だったって、思うこともあるかもしれません」
薫は帽子を胸に抱いた。
「でも、何もしなかったことを、きっとずっと後悔すると思うんです」
その言葉に、剛は目を伏せた。
「……分かった」
それ以上、問い詰めることはしなかった。
薫の覚悟は、決して恐怖のない覚悟ではなかった。
恐怖を知り、それでも進もうとしている覚悟だった。
剛は、そのことを理解していた。
「出発まで、もう時間がない。俺はこれから訓練所へ戻る。料理人の件について、返事を確認しなければならない」
「はい」
「お前は、ここで待っていてくれ。俺から連絡するまでは、誰にも話すな」
「分かりました」
「それと、まだ船に乗れると決まったわけじゃない。そこだけは、忘れないでくれ」
薫は、うなずいた。
「はい」
剛は、少しだけ表情を和らげた。
「……さとるに会いたいんだな」
その言葉を聞いた瞬間、薫の目に涙が浮かんだ。
「はい」
「俺も、あいつに会いたい」
剛は海を見つめた。
「だから、何とかしたいんだ」
薫は、涙をぬぐった。
「ありがとうございます、剛さん」
「礼は、まだ早い」
剛は、いつものように少しだけ困った顔をした。
「本当に会えたときに言ってくれ」
薫は、小さくうなずいた。
「……はい」
剛は高台を離れた。
薫は、彼の姿が坂道の向こうへ消えるまで、ずっと見送っていた。
手の中には、軍服と帽子が残っていた。
それは、沖縄へ行けるという保証ではない。
さとるに会えるという約束でもない。
それでも、今の薫にとっては、何もできずに立ち尽くしていた自分から、一歩だけ前へ進んだ証だった。
訓練所へ戻る道を、剛は急いでいた。
空はすっかり明るくなっていた。
出発まで、あと一日余り。
時間は、容赦なく過ぎていく。
知人の料理人を同行させる許可。
船の担当者からの返事。
そして、薫をどうすれば安全に船へ乗せられるか。
どれも、まだ決着がついていなかった。
剛は、昨夜まとめた書類のことを思い出した。
料理の経験を証明する情報。
身元の確認に必要な事項。
同行を願い出る理由。
あれを提出したことで、話が少しでも進んでいればいい。
そう願いながら、剛は訓練所の門をくぐった。
廊下を進み、上官の部屋へ向かう。
扉の前に立ったとき、胸の奥が再び重くなった。
許可が下りなかったら。
知人を連れていくことが認められなかったら。
薫を船に近づける道は、さらに細くなる。
剛は拳を握った。
「失礼します」
扉を叩く。
中から返事があった。
部屋へ入ると、上官は書類を手にしていた。
剛は、姿勢を正した。
「昨日お願いした件ですが……」
上官は、すぐには答えなかった。
手元の書類に目を落とし、しばらくしてから剛を見た。
「船の担当者に確認している。だが、出発直前に人員を増やすことは簡単ではない」
「承知しています」
「その者を同行させる理由についても、さらに確認が必要だ。料理の経験があるというだけで、乗船を認めるわけにはいかん」
剛は、深く頭を下げた。
「はい」
「返事が出るまで、勝手な行動はするな」
「分かりました」
剛は、顔を上げた。
「ただ、出発までに判断していただけるよう、お願い申し上げます」
上官は、剛を見つめた。
「急いでいるのは分かる。だが、こちらにも確認しなければならないことがある。許可を出すかどうかは、まだ決まっていない」
「……はい」
剛は、もう一度頭を下げた。
部屋を出たとき、胸の中には焦りが残っていた。
まだ何も決まらない。
それでも、船の担当者へ確認する話は進んでいる。
今は、それだけを頼りにするしかなかった。
*
昼過ぎ、剛は知人の料理人と連絡を取ることができた。
相手は、剛から突然、沖縄へ向かう船の話を持ちかけられ、驚いた様子だった。
「沖縄へ行く船だって?」
「ああ。料理を担当できる人間が必要になるかもしれない。もし同行を頼めることになったら、引き受けてもらえないかと思っている」
「そんな急に言われてもな……。いつ出るんだ?」
「明後日だ」
相手は、しばらく黙った。
「明後日? もう時間がないじゃないか」
「分かっている。だから、頼んでいるんだ」
「軍の船なんだろう。俺が乗れるのか?」
「今、許可を確認してもらっている。まだ決まっていない」
剛は、正直に答えた。
「許可が下りたとしても、行くかどうかは、あんた自身が決めてくれ。無理に頼むつもりはない」
相手は、深く息を吐いた。
「……少し考えさせてくれ」
「分かった。ただ、時間がないんだ。返事をもらえるなら、できるだけ早く頼む」
「分かった」
話が終わったあと、剛はしばらくその場に立っていた。
知人が引き受けてくれるかどうかも、まだ分からない。
許可が下りるかどうかも、分からない。
薫には、軍服と帽子を渡した。
だが、それを着て船へ乗り込む日が本当に来るのかは、誰にも約束できなかった。
剛は、空を見上げた。
「……さとる」
海の向こうにいる友の名を、心の中で呼ぶ。
「もう少しだけ、待っていてくれ」
その願いが届くかどうかは分からなかった。
けれど、剛は止まるわけにはいかなかった。
*
その夜、薫は家で軍服と帽子を前に座っていた。
何度も包みを開き、服を確かめては、また丁寧に畳んだ。
帽子を手に取る。
かぶってみたいと思った。
けれど、まだ、かぶることができなかった。
これを身につけた瞬間、本当に自分が別の人間になろうとしているような気がしたからだ。
薫は、短くなった髪に触れた。
切ったときの鋏の音が、まだ耳に残っていた。
床に落ちた黒髪。
拾い上げたときの、あの悲しさ。
それでも、切る前の自分には戻れない。
ならば、進むしかなかった。
「……さとる」
薫は、軍服をそっと抱きしめた。
「私、あなたのところへ行けるかな」
涙がこぼれた。
「会えるかな……」
答えはなかった。
それでも、薫は服を包み直し、そばに置いた。
明日、剛から返事が来るかもしれない。
許可が下りるかもしれない。
あるいは、すべてが駄目になるかもしれない。
どちらの可能性も、薫には分かっていた。
それでも、今夜は諦めたくなかった。
海の向こうでは、さとるが訓練を続けている。
薫の知らない場所で、怖さを抱えながら、まだ生きようとしている。
だから、自分も、ここでただ泣いているだけではいたくなかった。
薫は涙をぬぐい、暗い窓の向こうを見つめた。
「……待っていてね、さとる」
その声は、誰にも届かない。
それでも、薫は祈るように、何度もその名を心の中で呼んだ。
明後日、沖縄へ向かう船が出る。
その船に、自分も乗れるのか。
すべてが決まるまで、残された時間は、もうわずかだった。




