第四十五話 切り落とした髪、消えない想い
第四十五話 切り落とした髪、消えない想い
――剛、許可を求める
訓練所へ戻った剛は、まっすぐ自分の部屋へ向かった。
廊下を歩きながらも、頭の中では同じことが繰り返されていた。
明後日には沖縄へ向けて出発する。
明け方には高台で薫と会い、軍の服と帽子を渡すと約束した。
しかし、肝心の船へ乗り込む方法は、まだ何も整っていない。
知人の料理人を同行させることができれば、薫が船に近づくための道が開けるかもしれない。だが、船に乗る人間を、剛の一存で決められるはずもなかった。
軍の船に誰を乗せるかは、剛が願い出れば済むような話ではない。
身元の確認が必要になる。
同行する理由も問われる。
そして、なぜ出発直前になって、わざわざ知人を加えようとするのか。その点を不自然に思われれば、話はそこで終わってしまう。
薫のことを知られるわけにはいかなかった。
剛は部屋へ入ると、机の前に座った。
手を組む。
ほどく。
また組む。
何をどう説明すればいいのか、何度も考え直した。
料理人が必要だから。
船内の食事を担当できる人間がいるから。
その人物を同行させれば、船の中で役に立つから。
理由そのものは、不自然ではないはずだった。
しかし、出発まで時間がない。
その事実を指摘されたら、何と答えればいいのか。
剛は顔を上げた。
「……やるしかない」
そうつぶやき、立ち上がった。
*
上官の部屋の前に着いたとき、剛は一度、深く息を吸った。
扉の向こうから、書類をめくる音が聞こえていた。
剛は拳を握り、扉を叩いた。
「入れ」
「失礼します」
部屋に入ると、上官は机に向かったまま顔を上げた。
「昨日の話か」
「はい。沖縄へ向かう船の料理人について、ご相談があります」
上官は手にしていた書類を置いた。
「昨日も聞いた。知人の料理人を同行させたいという話だったな」
「はい」
「出発まで、あと二日しかない。それを分かっていて、今から人を増やそうというのか」
剛は一瞬、言葉に詰まった。
予想していた質問だった。
それでも、正面から問われると、胸の奥が強く縮んだ。
「承知しています。急な申し出であることは、十分に分かっています」
「ならば、なぜ今になって申し出る」
剛は、唇を引き結んだ。
ここで迷えば、疑われる。
「船内で食事を作る人手が必要になると聞きました。私の知人には料理の経験があり、任せられる仕事があると考えたためです」
「その者でなければならない理由は?」
「料理を任せられるだけの経験があるからです」
「ほかに料理のできる者はいないのか」
剛の喉が、急に乾いた。
「……ほかにもいるとは思います」
「ならば、なぜ、その知人なのだ」
上官の視線が剛の顔に留まった。
剛は、その目を受け止めた。
ここで余計なことを言ってはいけない。
薫を連れていくためだと悟られれば、すべてが終わる。
「私が、その者の腕を知っているからです。どのような仕事を任せられるか、ある程度、判断できます。急な出発であっても、料理の仕事を理解している者なら、役に立つと考えました」
上官は、しばらく黙っていた。
その沈黙が、剛にはひどく長く感じられた。
やがて、上官が尋ねた。
「その者は、軍の仕事をした経験があるのか」
「軍の者ではありません」
「では、軍の船に乗ることの意味を理解しているのか」
「必要な説明をし、本人が承知したうえで申し出るつもりです」
「本人が承知すれば、それで済む話ではない」
「……はい」
「船に乗る者には、それぞれ役割がある。勝手に人間を増やすことはできん。身元の分からない者を、出発が迫っている船に乗せるわけにもいかん」
上官の声は、少しも揺らがなかった。
「お前の知人だからという理由だけで、許可が出ると思うな」
剛は頭を下げた。
「承知しています」
「身元を確認できる資料を出せ。料理の経験についても、分かるように説明しろ。同行が必要な理由も、書面にまとめろ」
「はい」
「それを見て判断する。許可するとは言っていない」
剛の胸に、冷たいものが落ちた。
許可は出なかった。
話を進めることは認められたが、何一つ確定していない。
上官は再び書類を手に取った。
「以上だ」
剛は一礼し、部屋を出た。
扉が閉まった瞬間、張り詰めていた息が漏れた。
廊下の壁に手をつく。
手のひらが、じっとりと汗ばんでいた。
「……まだ、駄目か」
許可を得られると思っていたわけではない。
それでも、ここまで時間がないと、調べることも、書類をそろえることも、知人に話をすることも、すべてが難しくなる。
剛は目を閉じた。
明け方には、薫が待っている。
自分を信じて、髪を切った薫が。
「何とかする」と言ったのは、自分だった。
その言葉を、簡単に取り消すことはできなかった。
*
剛は、知人の料理人の身元や仕事の経験を確認するため、すぐに動き始めた。
だが、必要な情報を集めるにも時間がかかった。
どこで料理をしてきたのか。
誰がその腕を知っているのか。
船内での仕事を引き受ける意思があるのか。
一つずつ確認しなければならなかった。
しかも、同行を願い出る理由は、料理人が必要だからというだけでは足りない。
なぜ、その人物を選んだのか。
何を任せるつもりなのか。
船に乗せることで、どのような利点があるのか。
上官が納得する説明を用意しなければ、許可は下りないだろう。
剛は、必要な事項を書き出し、何度も文章を直した。
書いては消す。
別の言い方を考える。
説明に矛盾がないか確かめる。
その間にも、時間は過ぎていった。
ふと窓の外を見ると、空が夕暮れに染まり始めていた。
剛は、はっとして立ち上がった。
薫との約束がある。
明け方、高台へ来るように伝えた。
軍の服と帽子を渡すことも約束した。
しかし、薫を船に乗せる許可は、まだ得られていない。
このままでは、薫に渡すものを用意できたとしても、その先へ進める保証はない。
剛は机に戻り、もう一度、書類を見つめた。
「……頼むから、間に合ってくれ」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
上官か。
知人か。
それとも、何も知らずに沖縄の船で訓練を続けている、さとるか。
剛は、さとるの顔を思い浮かべた。
あいつは、怖いと言っていた。
死にたくない。
帰りたい。
薫と生きたい。
そう言いながら、それでも出発した。
そして今、薫は、そのさとるに会うために、長い髪を切った。
剛は拳を握りしめた。
二人の思いを知ってしまった以上、何もせずに諦めることはできない。
けれど、気持ちだけで許可が下りるわけではなかった。
翌朝、剛は再び上官の部屋へ向かった。
手には、知人の料理経験と身元に関する情報をまとめた書類を持っていた。
昨夜は、ほとんど眠れなかった。
書類をまとめ、説明を考え、何度も言葉を頭の中で繰り返した。
それでも、まだ不安だった。
上官が納得しなければ、それで終わりだ。
薫を連れていく方法は、また一つ失われる。
扉を叩く。
「入れ」
「失礼します」
剛は書類を差し出した。
「昨日申し上げた料理人について、確認できた情報をまとめました。ご確認いただけないでしょうか」
上官は書類を受け取り、目を通した。
剛は、正面に立ったまま待った。
紙をめくる音がする。
一枚。
もう一枚。
上官の表情は変わらない。
剛の心臓が、嫌なほど強く打っていた。
「……料理の経験があることは分かった」
上官が、ようやく口を開いた。
「だが、それだけで船に乗せる理由にはならん」
剛は息をのんだ。
「船内の食事を担当する人手が必要であれば、船の側で判断することだ。お前が知人を推薦する理由は分かったが、受け入れを決めるのはお前ではない」
「はい」
「それに、出発まで時間がない。今から手続きを進めても、間に合うかどうかは分からん」
剛は、拳を握った。
ここで引き下がれば、薫を連れていく可能性はほとんどなくなる。
「上官」
剛は、思わず一歩前へ出た。
「どうか、受け入れが可能かどうかだけでも、船の担当者に確認していただけないでしょうか」
上官の目が、剛に向けられた。
「お前は、なぜそこまでこだわる」
その問いに、剛の体が強張った。
「……船内の食事を担える人間が増えれば、役に立つと考えたからです」
「それだけか」
剛は答えられなかった。
ほんの一瞬だった。
だが、その一瞬が、ひどく長く感じられた。
上官は、剛の顔を見つめていた。
剛は、目をそらさないようにした。
ここで動揺すれば、何かを隠していると疑われる。
しかし、薫の顔が頭に浮かんだ。
短く切られた黒髪。
涙をこらえながら、「さとるに会いたい」と言った声。
あの覚悟を、無駄にしたくなかった。
「……私が、その者の腕を知っているからです」
剛は、ゆっくりと言った。
「急な出発だからこそ、仕事を任せられると分かっている人間を推薦しました。もちろん、最終的な判断は、上官のご指示に従います」
上官は、しばらく剛を見ていた。
やがて、書類を机に置いた。
「船の担当者に、受け入れが可能か確認してみる。ただし、許可が出るとは限らん。返事を待て」
剛は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「勘違いするな。まだ何も決まっていない」
「承知しています」
「それから、勝手なことはするな。出発準備を遅らせるようなことがあれば、お前自身の責任になる」
「はい」
剛は一礼して、部屋を出た。
扉が閉まる。
廊下に出た剛は、その場で立ち止まった。
まだ許可は出ていない。
船の担当者が受け入れを認めるかどうかも分からない。
知人が同行を引き受けてくれるかどうかも、確定していない。
それでも、完全に断られたわけではなかった。
一つだけ、道が残った。
剛は、壁に手をつき、深く息を吐いた。
「……頼む」
今度こそ、言葉がかすれた。
*
その日の夜、剛は知人の料理人に連絡を取るため、必要な準備を進めた。
事情を話さなければならない。
だが、薫のことをどこまで明かすべきか。
知人を危険に巻き込むわけにはいかない。
薫を守るために誰かの協力が必要だとしても、その人に何が起こるか分からない以上、軽々しく頼むことはできなかった。
剛は何度も考えた。
薫を連れていくために、他人の人生まで危険にさらしてよいのだろうか。
もし、知人が断ったら。
もし、上官の許可が下りなかったら。
そのとき、薫に何と伝えればいいのだろう。
髪を切ったことを、後悔させてしまうのではないか。
自分を信じて待っている薫に、何もできなかったと告げることになるのではないか。
剛は、両手で顔を覆った。
自分だって、怖かった。
沖縄へ行くことも。
そこで何が起きるか分からないことも。
さとるに再会できるかどうかも。
そして、薫を連れていこうとした結果、二人をさらに危険な目に遭わせてしまうことも。
それでも、何もしなければ、薫はここに残る。
さとるは海の向こうで訓練を続ける。
二人は、会えないまま、互いを想い続けることになる。
剛は、ゆっくりと顔を上げた。
「……まだ、終わってない」
出発まで、あと一日余り。
明け方には、薫と高台で会う。
そのとき、自分は軍の服と帽子を渡す。
だが、それを渡したからといって、薫が船に乗れると決まったわけではない。
剛は、そのことを薫にきちんと伝えなければならなかった。
希望だけを与えてはいけない。
けれど、諦めることを強いることもできない。
二人の思いを知っている自分だからこそ、最後まで方法を探す責任がある。
剛は立ち上がった。
窓の外には、夜の海が広がっていた。
その海の向こうに、さとるがいる。
そして、ここには、さとるに会うために髪を切った薫がいる。
明後日には、剛も沖縄へ向けて出発する。
その船に薫を乗せることができるのか。
すべては、まだ決まっていなかった。
けれど、剛はもう、引き返すつもりはなかった。
「さとる……」
小さく、友の名を呼ぶ。
「お前と薫が、もう一度会えるように。俺にできることを、最後までやる」
夜は深くなっていった。
許可を得られるかどうか。
知人が協力してくれるかどうか。
薫を無事に船へ乗せられるかどうか。
剛には、まだ何一つ分からなかった。
ただ一つ、確かなことがあった。
明け方、高台には薫が来る。
そして剛は、彼女の覚悟を受け止めた以上、簡単に諦めることはできなかった。




