第四十四話 海を隔てた二人
第四十四話 海を隔てた二人
――男にはなれない
「料理人は、男でなければ困る」
港で耳にしたその言葉が、薫の胸に深く突き刺さっていた。
剛から話を聞いたあとも、薫は高台を離れられなかった。
沖縄へ向かう船に、料理人として乗り込む。
その方法なら、さとるのいる場所へ近づけるかもしれない。
剛がそう考えてくれたことは、嬉しかった。自分を置いていくのではなく、どうにかして一緒に連れていこうとしてくれている。その気持ちだけで、張り詰めていた心が少しだけ救われた。
けれど、その道には、最初から大きな壁があった。
薫は女性だった。
翌朝、薫は早く目を覚ました。
まだ空が白み始めたばかりだった。
眠ったはずなのに、体は重かった。夜中に何度も目が覚め、そのたびに、沖縄へ向かう船のことを考えていた。
薫は鏡の前に座った。
長い髪が肩に流れ落ちている。
いつもなら、髪を整え、櫛を通す時間は、何でもない朝の習慣だった。
けれど、その日は違った。
鏡に映る自分を見つめながら、薫は考えていた。
もし、髪を短くしたら。
男の服を着たら。
声を低くするように気をつけたら。
歩き方や仕草を変えたら。
船の人たちに、男だと思ってもらえるだろうか。
その考えが浮かんだ瞬間、薫は自分の髪を両手で握った。
できることなら、何でもしたかった。
髪を切ることだって、男の服を着ることだって、怖くはなかった。
さとるに会えるのなら。
彼のそばにいられるのなら。
どんなことでも耐えられると思った。
けれど、髪を切っただけで、男になれるわけではない。
服を変えたところで、声まで変わるわけではない。
長い船旅の中で、ずっと自分を偽り続けることができるのか。
男たちが集まる場所で、女性であることを隠し続けられるのか。
そして、もし見つかったら。
剛はどうなるのだろう。
自分を船に乗せるために力を貸してくれた剛まで、罰せられることになるかもしれない。
さとるのところへ行きたいという自分の願いが、剛を危険にさらしてしまう。
薫は、鏡の中の自分から目をそらした。
「……私、どうしたらいいの」
声に出した途端、涙が頬を伝った。
男になれない。
男のふりをして、ずっと隠し通せる自信もない。
けれど、女性である自分のままでは、船に乗ることさえ難しい。
どちらへ進んでも、さとるのところへたどり着けない気がした。
薫は髪を握ったまま、うつむいた。
「私が男だったら……」
その言葉は、最後まで続かなかった。
男だったら、剛にこんな苦労をかけずに済んだのだろうか。
男だったら、船に乗り、さとるのそばへ行けたのだろうか。
男だったら、彼が恐怖と闘う場所で、隣に立つことができたのだろうか。
そう考えた自分が、悲しかった。
女性として生まれたことが、悪いわけではない。
自分が自分であることを、恥じたくはなかった。
薫は、さとると出会ったときのことを思い出した。
高台で、初めて言葉を交わした日。
泣いていた自分に、さとるは何も無理に聞こうとしなかった。
ただ、そばにいてくれた。
あのとき、さとるは、女性である自分を、今の自分のまま見てくれた。
笑うところも。
泣くところも。
弱いところも。
それでも生きたいと願うところも。
全部、ありのままの自分を受け止めてくれた。
だからこそ、今の自分を変えなければ会いに行けないという現実が、たまらなく悲しかった。
「私は……私のままで、会いに行きたい」
薫は、涙をぬぐった。
男になりたいわけではなかった。
ただ、さとるに会いたいのだ。
女性である自分を捨てたいのではない。
その自分のまま、彼のそばにいたい。
彼の手を握りたい。
彼の声を聞きたい。
彼と一緒に生きたい。
それなのに、戦争は、その願いをかなえるために、自分自身を偽ることまで求めてくる。
薫は、鏡の前で、長い間、動けずにいた。
*
その日の夕方、剛は再び薫に会いに来た。
高台にいた薫は、剛の姿を見つけると立ち上がった。
「剛さん。何か、方法は見つかりましたか?」
問いかける声に、期待がにじんでいた。
剛は、その期待を見て、胸が痛んだ。
「……まだだ」
薫は、静かにうなずいた。
「そうですか」
責めるつもりなどないのだろう。
それでも、剛には、その短い返事が苦しかった。
「料理人として乗り込む方法を、もう少し調べてみた。でも、やっぱり簡単じゃない。男として船に乗ることが前提になっている。長い間、隠し通せるかどうかも分からない」
「はい……」
「もし途中で見つかったら、船を降ろされるだけでは済まないかもしれない。俺も、お前も、どうなるか分からないんだ」
薫は海を見つめた。
「私がいることで、剛さんまで危険な目に遭うんですね」
「そういうことだ」
剛は、言葉を濁さなかった。
期待だけを持たせたくなかった。
薫が沖縄へ行きたいと思う気持ちは分かる。
自分だって、さとるに会いたかった。
あいつがどんな顔で訓練をしているのか。
恐怖に耐えながら、どうやって毎日を過ごしているのか。
知りたかった。
けれど、会いたいという気持ちだけでは、越えられない壁がある。
「薫。俺は、お前を連れていきたいと思ってる」
剛は言った。
「さとるに会わせてやりたい。お前が毎日ここで泣いてるのを見て、何もできないまま出発するのは嫌なんだ」
薫は唇をかみ、うつむいた。
「でも、連れていけば必ず会える、とは言えない。船に乗れたとしても、さとるがどこにいるか分からないかもしれない。会えないまま、危険な場所へ行くことになるかもしれない」
「分かっています」
薫の声は震えていた。
「それでも、会いたいんです」
「……ああ」
「私、男にはなれません。でも、さとるのそばへ行きたい気持ちは、なくならないんです」
涙が一粒、頬を伝った。
「男のふりをすることができないから、会いに行けない。女性だから、ここで待っているしかない。そう考えるたびに、どうして私は何もできないんだろうって……」
薫は胸元を握った。
「さとるは、自分で行く場所を選べないんですよね。怖くても、帰りたくても、命令が下れば行かなければならない。私は、それを知っているのに、何もできない」
剛は、黙って聞いていた。
「私は、さとるを助けたいなんて、大きなことを言える人間じゃありません。ただ……一人にしたくないんです」
薫の目から、涙があふれた。
「さとるが怖いときに、隣にいたい。帰りたいと思ったときに、帰りたいねって言いたい。生きたいと思ったときに、私も生きたいって伝えたいんです」
声が途切れた。
「それなのに、私は……」
薫は顔を覆った。
「会いに行くことすら、できないんです」
剛は、すぐには声をかけられなかった。
薫が苦しんでいるのは、男になれないことそのものだけではなかった。
女性である自分のままでは、さとるのいる場所へ行けない。
自分らしくいることと、愛する人のそばへ行くことが、まるで両立しないように思えてしまう。
そのことが、薫を追い詰めていた。
「……薫」
剛は、静かに呼びかけた。
「お前が男になれないことを、責めるつもりはない。そんなことで、お前の気持ちが変わるわけじゃないってことも分かってる」
薫は、涙に濡れた顔を上げた。
「でも、俺たちは、方法を探さなきゃならない。無理に男のふりをして、お前がずっと怯えながら船に乗ることが、本当に一番いい方法なのか。それも考えなきゃいけないんだ」
「……はい」
「お前を連れていきたい。でも、お前を危険にさらしたくない。さとるに会わせてやりたい。でも、さとるのためにお前が傷つくことも望んでいない」
剛は、自分の手を握りしめた。
「俺にも、何が正しいのか分からないんだ」
その言葉に、薫は再び涙をこぼした。
剛も、答えを持っていない。
自分を救ってくれるはずの人が、何もできないと認めている。
その事実は、薫をさらに不安にさせた。
けれど、同時に、剛もまた必死に考えてくれていることが分かった。
薫は、ゆっくりとうなずいた。
「……ありがとうございます。私のために、考えてくれて」
「礼なんかいらない」
剛は、海の向こうを見た。
「俺だって、さとるに帰ってきてほしいんだ。お前と、もう一度会ってほしい。あいつが望んでいる未来を、簡単に諦めたくない」
二人は、しばらく黙って海を見つめていた。
やがて、薫が小さく言った。
「剛さん。もし、どうしても私が行けなかったら……」
剛は薫を見た。
「さとるに伝えてもらえますか」
「何を?」
薫は、涙をこらえながら答えた。
「私は、ずっと会いたかったって。男になれなくても、どこへ行けばいいか分からなくても、さとるのところへ行きたいと思っていたって」
唇が震えた。
「さとるが怖い思いをしているとき、私もここで怖かった。会えないことが、こんなに苦しいなんて知らなかったって」
薫は、顔を伏せた。
「そして……生きて帰ってきてほしいって」
剛は、深くうなずいた。
「分かった」
「でも、できることなら……」
薫は、もう一度、海の向こうを見つめた。
「自分の口で、伝えたいです」
その言葉を聞いて、剛は何も言えなくなった
どれほど願っても、その事実を変えることはできない。
「……どうしたらいいんだろう」
薫は、自分の手を見つめた。
指は細く、手のひらも小さい。毎日、家の仕事を手伝い、食事の支度をしてきた手だった。包丁を握ることも、野菜を切ることも、魚をさばくこともできる。料理人として働くこと自体なら、できるかもしれない。
けれど、船に乗るためには、料理ができるだけでは足りない。
男として船に乗り込み、男たちに囲まれながら働き続けなければならない。
一日だけなら、何とかごまかせるかもしれない。
しかし、船の上では、何日も、何週間も、同じ人たちと顔を合わせることになる。
食事のときも、仕事のときも、休むときも。
声を聞かれる。
顔を見られる。
歩き方や仕草を見られる。
何気ない会話の中で、故郷のことや家族のことを尋ねられるかもしれない。
そのたびに、嘘をつかなければならない。
一つ嘘をつけば、その嘘を守るために、また別の嘘が必要になる。
どこかで言葉を間違えたら。
誰かに不自然だと思われたら。
正体を見破られたら。
そう考えるだけで、息が苦しくなった。
「私には……できないのかな」
口にした途端、涙がにじんだ。
違う。
本当は、できないのではなく、できるようになりたいのだ。
男になれなくても、男として生きられなくても、さとるのところへ行きたかった。
彼が今、どこで、どんな顔をしているのか知りたかった。
怖がっていないか。
眠れているか。
ご飯を食べているか。
一人で恐怖を抱え込んでいないか。
そばに行って、何も言わずに手を握りたかった。
「さとる……」
名前を呼ぶと、胸の奥が痛んだ。
会いたい。
ただ、それだけなのに。
その願いをかなえるためには、自分ではどうにもできないことが、あまりにも多すぎた。
*
その夜、薫は家に戻ってからも、食事の支度を手伝った。
いつもと同じように、米をとぎ、野菜を切り、鍋に火をかける。
手を動かしていれば、少しは余計なことを考えずに済むと思った。
けれど、包丁を握るたびに、剛の話が頭をよぎった。
料理人。
船。
男性でなければならない。
薫は、まな板の上に置かれた野菜を見つめた。
自分は料理ができる。
誰かのために食事を作ることができる。
もし船に乗れたなら、さとるの食事を作ることだってできるかもしれない。
疲れて帰ってきたさとるに、温かいものを食べさせてあげたい。
食欲がないと言うなら、少しでも食べやすいものを作りたい。
怖くて眠れない夜があるなら、朝になったとき、せめて温かい食事を用意してあげたい。
そんな小さなことなら、自分にもできる。
けれど、今の自分には、その場所へ行くことすら許されていない。
薫は包丁を置いた。
指先が震えていた。
「薫、どうしたの?」
家の人に声をかけられ、薫は慌てて顔を上げた。
「何でもないです」
笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「少し、疲れただけです」
そう答えて、再び手を動かした。
泣いてはいけない。
心配をかけてはいけない。
ここで泣いても、さとるのところへ行けるわけではない。
そう自分に言い聞かせながら、薫は食事を作り続けた。
鍋から湯気が立ち上る。
いつもなら、温かな匂いにほっとするはずだった。
今は、その湯気を見るだけで、涙がこぼれそうになった。
さとるは今、どんなものを食べているのだろう。
船の中で、十分な食事をとれているのだろうか。
疲れた体を休める場所はあるのだろうか。
それとも、食事をする時間さえ惜しんで、訓練を続けているのだろうか。
考えれば考えるほど、そばにいられないことが苦しかった。
薫は、誰にも気づかれないように、そっと目元をぬぐった。
料理を作ることはできる。
さとるを想うこともできる。
生きていてほしいと願うこともできる。
それなのに、彼のいる場所へ行くための、たった一つの道が見つからない。
そのことが、何よりもつらかった
その夜、薫は一人で高台へ来た。
月明かりの下で、海は黒く広がっていた。
風が頬をなでる。
さとると一緒にいたときには、心地よく感じた風だった。
今は、ただ冷たかった。
薫は、そっと自分の髪に触れた。
朝、鏡の前で何度も考えたことが、また頭をよぎった。
男のふりをする。
声を変える。
仕草を変える。
自分を隠す。
それができなければ、船に乗れないかもしれない。
さとるに会えないかもしれない。
薫は目を閉じた。
「……私、どうしたらいいの」
答えはなかった。
けれど、しばらくして、薫はゆっくりと顔を上げた。
男にはなれない。
それは、変えられない現実だった。
どれだけ願っても、自分の体も、声も、女性として生きてきた自分自身も、簡単には変えられない。
ならば、自分にできることは何なのだろう。
無理に自分を変えることだけが、さとるを想う方法なのだろうか。
薫は、涙を拭った。
「私は……私のままで、さとるに会いたい」
その思いだけは、変わらなかった。
女性である自分を否定したいのではない。
ただ、さとるのそばへ行きたい。
怖いときに、手を握りたい。
泣いているなら、一緒に泣きたい。
生きたいと願うなら、私も生きたいと伝えたい。
そして、できることなら、二人で同じ海を見たい。
薫は、胸の前で両手を握りしめた。
「さとる……私、まだ諦めたくないよ」
涙が、また頬を伝った。
「会いたい。あなたのところへ行きたい」
海は、何も答えなかった。
それでも薫は、海を見つめ続けた。
沖縄の船の中では、さとるが訓練を続けている。
ここでは、薫が涙をこらえながら、会えない毎日を生きている。
二人の間には、海があった。
そして薫の前には、男にはなれないという、どうにもならない壁が立ちはだかっていた。
それでも、彼女の心は、海の向こうへ向かっていた。
さとると生きたい。
ただ、それだけの願いを胸に抱きながら。




