第四十三話 消えていく仲間たち
第四十三話 消えていく仲間たち
沖縄に到着した翌朝、さとるは、船内の薄暗い場所で目を覚ました。
眠ったという実感はなかった。
目を閉じていた時間はあったはずなのに、船体が軋む音がするたびに目が覚めた。誰かが歩く足音が聞こえるたび、胸が落ち着かなくなった。
山口にいた頃から、夜は苦手になっていた。
明日になれば訓練がある。
明日になれば、出撃の話が進むかもしれない。
明日になれば、自分の名前が呼ばれるかもしれない。
そう考えると、眠ることさえ怖かった。
そして今、さとるは沖縄まで来てしまった。
もう、出撃という言葉を遠い未来のことだと思うことはできなかった。
「起きたか。そろそろ移動だそうだ」
近くにいた兵が声をかけた。
「移動……ですか」
「回天を搭載している潜水艦へ移るらしい」
その言葉を聞いた瞬間、さとるの手が止まった。
回天。
山口で何度も見た、鉄の兵器。
訓練の中で、繰り返しその名を聞かされてきた。
けれど、実際に回天を搭載した潜水艦へ乗り込むとなると、話は違った。
訓練の先にあるものが、急に目の前へ迫ってきた気がした。
「……わかりました」
返事をしてから、さとるはしばらく動けなかった。
膝の上に置いた両手を握りしめる。指先に力を込めても、かすかな震えは止まらなかった。
立ち上がる。
それだけのことに、ひどく時間がかかった。
やがて、さとるは深く息を吸った。
「……行こう」
自分の足を動かすために、そう呟いた。
*
潜水艦の姿を目にしたとき、さとるは思わず足を止めた。
海に浮かぶ黒い船体。
その上を行き交う兵たち。
静かに進められている準備。
山口の基地で見ていたものとは、すべてが違って見えた。
ここは、訓練をするためだけの場所ではない。
ここから先には、実際の任務がある。
命令が下れば、自分も回天に乗り込むことになる。
さとるは視線を落とした。
そのとき、聞き覚えのある声がした。
「……さとるか?」
顔を上げる。
そこに立っていたのは、山口で一緒に訓練していた山本一郎だった。
「……山本!」
思わず声が出た。
山本も驚いた顔をして、それから小さく笑った。
「お前も来たんだな」
「山本こそ……」
それ以上、言葉が続かなかった。
山本は、出撃者の名前が初めて読み上げられた日に、最初に呼ばれた五人のうちの一人だった。
あの日、山本ははっきりと返事をした。
その声を、さとるは覚えていた。
母親に返してほしいと言って、腕時計を仲間に預けたことも。
あのときの山本は、怖くないわけではなかった。それでも、いつもと変わらない顔をしようとしていた。
その山本が、今、目の前にいる。
さとるの胸に、ほっとした気持ちが広がった。
知っている顔だった。
同じ基地で訓練を受け、同じ教官に怒鳴られ、同じように帰りたいと願っていた仲間だった。
「……会えてよかった」
さとるが言うと、山本は一瞬だけ目を伏せた。
「俺もだよ」
その返事は、思ったよりも小さかった。
「ほかにも、山口から来た奴がいるぞ」
山本が言った。
さとるは周囲を見回した。
少し離れたところに、田中清二の姿があった。
「田中!」
呼びかけると、田中は振り返り、目を見開いた。
「さとる……!」
田中が近づき、さとるの肩を軽く叩いた。
「無事だったんだな」
「田中もな」
たったそれだけの会話だった。
それなのに、さとるは胸の奥が熱くなるのを感じた。
まだ、仲間がいる。
自分のことを知っている者がいる。
山口で過ごした日々を、同じように覚えている者がいる。
知らない土地で、知っている顔に会える。
そのことが、こんなにも心強いとは思わなかった。
さとるは、もう一度周囲を見渡した。
ほかにも何人か、見覚えのある顔があった。
全員ではない。
けれど、あの基地で一緒に訓練していた仲間たちが、確かにここにいた。
「みんな、無事だったんだな……」
さとるが呟くと、田中は返事をしなかった。
ほんの一瞬、視線を横へそらした。
その小さな仕草が、さとるの胸に引っかかった。
「……田中?」
「いや……」
田中は、唇を湿らせた。
「お前、まだ聞いてないのか」
「何を?」
山本と田中が、互いに目を合わせた。
その一瞬の沈黙が、周囲の音を遠ざけたように感じられた。
さとるは二人を見つめた。
「何かあったのか?」
田中は、すぐには答えなかった。
船の上では、兵たちが忙しく動いていた。
誰かが短い指示を出し、別の誰かが返事をする。金属が触れ合う音が聞こえた。
普段なら気にも留めない音だった。
けれど、そのときのさとるには、どれもひどく遠く感じられた。
田中がようやく口を開いた。
「……ここから、何度か出撃があったそうだ」
「出撃……?」
「ああ。俺たちが来る前にも、何人かが出ていったらしい」
さとるは、ゆっくり頷いた。
「そうなのか……」
「それでな」
田中は、もう一度言葉を切った。
「成功したという報告があったんだ」
成功。
その言葉を聞いた瞬間、さとるの頭の中に、訓練中に何度も聞かされた教官の声がよみがえった。
任務を果たせ。
最後まで役目を全うしろ。
そのために訓練しているのだと。
「……成功したんだな」
さとるは、そう答えた。
返事をしながら、自分でも何を言っているのかわからなかった。
成功した。
それなら、喜ぶべきなのだろうか。
任務を果たしたのだから、よかったと思うべきなのだろうか。
けれど、山本も田中も、少しも嬉しそうではなかった。
二人の顔には、疲労とは違う影があった。
「どんな報告だったんだ?」
さとるが尋ねた。
山本は、少しの間、黙っていた。
それから、低い声で答えた。
「敵の艦船に対する攻撃が成功した、と」
その言葉は、ひどく簡単だった。
何人が出撃したのか。
どのような思いで船を離れたのか。
出撃する直前、誰の顔を思い浮かべたのか。
恐怖を感じなかったのか。
帰りたいと思わなかったのか。
そんなことは、報告の中にはなかった。
ただ、成功した。
それだけだった。
「……それで?」
さとるは、気づかないうちに尋ねていた。
山本は、さとるの顔を見た。
「それで、報告は終わりだ」
「……終わり?」
「ああ」
山本は、ゆっくり頷いた。
「成功した、という報告だけだ。出撃した者たちが、その後どうなったのか。誰がどんな様子だったのか。そういう話は、俺たちには伝わってこない」
さとるは、言葉を失った。
成功した。
報告は、それで終わり。
では、出撃した者たちは、今どこにいるのだろう。
海の上にいるのか。
海の中にいるのか。
それとも、もう――。
そこまで考えた瞬間、さとるは息を止めた。
考えてはいけないと思った。
けれど、頭の中に浮かんだ光景を消すことができなかった。
「……帰ってきた人は?」
かすれた声で尋ねた。
田中は俯いた。
山本も答えなかった。
二人の沈黙が、ゆっくりと広がっていった。
やがて、田中が小さく言った。
「帰ってきた、という話は聞いていない」
さとるは、山本を見た。
山本も、ゆっくり頷いた。
「俺も聞いていない」
その瞬間、さとるの背中に冷たいものが走った。
成功した。
けれど、帰ってきたという話はない。
報告は届いた。
しかし、出撃した者たちが今どこにいるのか、誰も知らない。
さとるは、もう一度、田中の顔を見た。
「……誰も、知らないのか」
田中は唇を噛んだ。
「詳しいことは、わからないんだ」
わからない。
その言葉が、何よりも恐ろしかった。
亡くなったと聞かされたわけではない。
生きていると聞かされたわけでもない。
ただ、わからない。
生きているのか。
死んでいるのか。
最後に何を見たのか。
何を思ったのか。
誰かの名前を呼んだのか。
帰りたいと願ったのか。
何ひとつ、わからない。
それなのに、報告だけは成功という言葉で終わっている。
さとるは、手のひらを握りしめた。
爪が皮膚に食い込む。
痛みがあることを確かめるように、さらに力を込めた。
「……成功って」
自分の声が震えているのがわかった。
「成功って、そういうことなのか……」
誰も答えなかった。
田中は、俯いたままだった。
山本は、遠くの海を見ていた。
その沈黙の中で、さとるは初めて理解した気がした。
ここでは、人がいなくなっても、報告は残る。
名前を呼ばれた者が出撃し、任務を果たしたと伝えられる。
その後、誰も姿を見ていなくても。
誰も声を聞いていなくても。
家族のもとへ帰ったという知らせがなくても。
成功という言葉だけが、先に届く。
その言葉の向こう側にいるはずの人間は、どこにもいない。
「……山口に、戻ったのかな」
さとるは、ほとんど無意識に言った。
田中が顔を上げた。
「え?」
「いや……その人たちも、俺たちと同じだったんだろ。山口で訓練して、沖縄に来て……。どこかで、戻ることを考えていたんじゃないのか」
さとるは、言葉を探した。
「家族がいたり、恋人がいたり……帰ったら、やりたいことがあったり」
そこまで言って、声が止まった。
薫の顔が浮かんだ。
海辺で話したこと。
小さな家で暮らす未来。
朝起きて、食事をして、働き、夕方に帰る。
ただいまと言い、おかえりと返してもらう。
そんな日々を、さとるは本気で望んでいた。
きっと、出撃した仲間たちにも、それぞれ望んだ未来があったはずだった。
誰かと暮らしたかった者。
母の料理をもう一度食べたかった者。
父と話をしたかった者。
故郷の道を歩きたかった者。
まだ見たことのない場所へ行きたかった者。
その一人ひとりの願いが、どこへ行ったのだろう。
「……みんな、帰りたかったんじゃないのか」
さとるは、そう呟いた。
田中の顔が歪んだ。
山本は、目を閉じた。
誰も、その言葉を否定しなかった。
*
その日の午後、兵たちは集められた。
上官が前に立ち、手にした書類を確認していた。
紙をめくる音が、静かな場所に響いた。
さとるは、無意識に背筋を伸ばした。
上官が顔を上げる。
「よく聞け」
兵たちの声が止まった。
「こちらでは、すでに出撃した部隊から、任務を果たしたとの報告が入っている」
また、その言葉だった。
任務を果たした。
さとるの指先が冷たくなった。
上官は淡々と話を続けた。
「今後も状況に応じて出撃が命じられる。いつ命令が下っても対応できるよう、準備を整えておけ」
いつ命令が下っても。
さとるの心臓が強く打った。
「訓練を怠るな。各自、必要な準備を進めろ。出撃命令があってから慌てるようなことがあってはならない」
「はい!」
兵たちの返事が重なった。
さとるも声を出した。
「はい!」
その声が、ほんの少し裏返った。
上官は、特に気に留めた様子もなく、さらに言った。
「報告されている戦果を無駄にするな。各自が任務を果たすため、訓練に励め」
それで話は終わった。
兵たちは解散を命じられ、それぞれの持ち場へ戻っていった。
さとるは、その場に立ち尽くしていた。
戦果。
任務。
成功。
どの言葉も、先ほど聞いた話と重なっていた。
報告の中では、出撃した者たちは任務を果たしたことになっている。
けれど、仲間たちの話では、帰ってきたという知らせはなかった。
その二つの事実が、さとるの中でひとつにならなかった。
いや、ひとつにならないからこそ、恐ろしかった。
上官の口から語られる成功は、整然としていた。
報告として伝えられ、命令の根拠になり、次の訓練へとつながっていく。
その一方で、出撃した者たちの最後については、何もわからない。
成功という言葉の後ろに、沈黙がある。
その沈黙に、誰も触れようとしない。
さとるは、ゆっくりと手を握った。
自分も、いつか同じように報告されるのだろうか。
出撃した。
任務を果たした。
それだけが伝えられ、誰も自分の最後を知らないままになるのだろうか。
薫は、何も知らないまま待つのだろうか。
剛は、預かった手紙を手に、どうすればいいのかわからずに立ち尽くすのだろうか。
母は、帰りを待つのだろうか。
父は、何も言わずに海を見つめるのだろうか。
さとるは、思わず目を閉じた。
考えるのをやめたかった。
けれど、もう、考えずにはいられなかった。
*
訓練が始まると、さとるは自分の体が思うように動かないことに気づいた。
教官の声を聞いているはずなのに、言葉が頭に入ってこない。
動き始めるタイミングが遅れ、次の動作へ移るときに、ほんの一瞬、迷ってしまう。
「遅い!」
鋭い声が飛んだ。
さとるは、はっとして動きを戻した。
「もう一度!」
「はい!」
繰り返す。
失敗する。
やり直す。
それでも、頭の中では別の言葉が響いていた。
成功した。
帰ってきていない。
詳しいことは、わからない。
「集中しろ!」
「はい!」
さとるは歯を食いしばった。
集中しなければならない。
訓練を続けなければならない。
そうしなければ、いつ命令が下っても対応できない。
わかっている。
わかっているのに、体を動かすたび、あの言葉が戻ってきた。
成功したという報告。
その後に続く、何もない時間。
誰も帰ってきた姿を見ていない。
誰も、最後の言葉を知らない。
さとるは、動きを繰り返した。
手のひらに汗がにじんだ。
指先が震えた。
一度、呼吸が乱れ、動きを止めそうになった。
「続けろ!」
「はい!」
返事をして、再び動いた。
止まってはいけない。
怖くても、動かなければならない。
けれど、訓練を続けるほど、恐怖は消えるどころか大きくなっていった。
訓練が終わったとき、さとるは膝に手をつき、荒い息を繰り返していた。
汗が額から落ちた。
体は疲れ切っているのに、頭だけが妙にはっきりしていた。
成功したという言葉が、耳の奥で何度も繰り返される。
さとるは顔を上げた。
海が見えた。
沖縄の海だった。
その向こうに、山口がある。
そして、薫がいる。
さとるは、ゆっくりと立ち上がった。
「……薫」
心の中で、名前を呼んだ。
「俺は、まだ生きてるよ」
誰にも聞こえない言葉だった。
「まだ、ここにいる」
胸の奥が痛んだ。
本当は、今すぐ帰りたかった。
船に乗り、山口へ戻り、高台へ向かいたかった。
薫の顔を見て、何でもない話をしたかった。
もう一度、抱きしめたかった。
けれど、さとるは沖縄にいた。
いつ出撃命令が下るかわからない場所にいた。
そして、ここでは人がいなくなったあとに、成功という言葉だけが残ることがある。
そのことを知ってしまった。
さとるは、拳を握りしめた。
仲間に会えたことは、嬉しかった。
山本の顔を見て、田中の声を聞いて、ほんの少し安心した。
けれど、同時に、恐ろしくなった。
ここにいる仲間たちも、いつかいなくなるかもしれない。
自分も、いなくなるかもしれない。
そのあとに残るのは、誰かが読み上げる短い報告だけかもしれない。
成功。
その一言だけで、ひとりの人生が終わったことにされてしまうのだろうか。
さとるには、わからなかった。
ただ、どうしても納得できなかった。
あの人たちにも、名前があった。
家族がいた。
帰りたい場所があった。
誰かに会いたいと思っていたはずだった。
そのすべてが、成功という言葉の中に押し込められてしまう。
さとるは、唇を強く噛んだ。
「……そんなの、嫌だ」
声に出してから、慌てて周囲を見た。
誰も聞いていなかった。
さとるは、もう一度海を見つめた。
美しい海だった。
けれど、その広さが、今は恐ろしかった。
海の向こうには、故郷がある。
帰りたい場所がある。
けれど、その海の中で、どれほどの人間が、誰にも最後を知られないまま消えていったのだろう。
さとるは、目を閉じた。
薫の顔を思い浮かべる。
高台で泣いていた顔。
最後に抱きしめたときの、震える肩。
「また明日」と言いながら、二人とも、その明日を約束できなかった。
だからこそ、もう一度会いたかった。
ただいまと言いたかった。
帰ってきた自分の姿を、薫に見てほしかった。
自分が生きていることを、自分の声で伝えたかった。
誰かの報告ではなく。
誰かの言葉ではなく。
自分自身で。
「……生きたい」
さとるは、胸の中で繰り返した。
「薫と、生きたい」
その願いだけは、成功という言葉に置き換えられたくなかった。
自分は、戦果の一部になりたいわけではなかった。
名前だけを残したいわけでもなかった。
生きて、帰りたかった。
薫と一緒に、普通の暮らしをしたかった。
その未来が遠ざかっていることを、さとるは知っていた。
それでも、まだ諦めたくなかった。
沖縄の海は、何も語らなかった。
ただ、静かに波を寄せては返していた。
そしてさとるは、その海のそばで、いつ自分の名前が呼ばれるのかもわからないまま、次の命令を待ち続けた。




