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君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


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第四十二話 沖縄の海に着いて

第四十二話 沖縄の海に着いて


船が沖縄の海へ入ったのは、空が白み始めた頃だった。


さとるは、ほとんど眠れないまま朝を迎えていた。


船の中は薄暗く、潮の匂いと、鉄の冷たい匂いが混じっていた。波に揺られるたび、船体のどこかが低く軋む。遠くから聞こえる機械の音は途切れることなく続き、その振動が足元から体の奥へ伝わってきた。


目を閉じても、眠ることはできなかった。


まぶたの裏に浮かぶのは、故郷の海だった。


山口の基地を離れた朝。


出発を告げられる直前の、息が詰まるような沈黙。


名前を呼ばれた瞬間、自分の声が出なくなったこと。


そして、最後に薫を抱きしめたときの温もり。


思い出すたび、胸の奥が痛くなった。


「……薫」


声に出したつもりだったが、ほとんど音にならなかった。


周囲に人がいる。


聞かれるわけにはいかない。


さとるは唇を結び、膝の上で両手を握りしめた。


指先が冷たかった。


何度も手を握り、開いた。


それでも震えは止まらなかった。


船がゆっくりと進んでいる。


そのことは、体に伝わる揺れでわかっていた。


山口を離れたときには、まだ戻れるかもしれないという気持ちが、心のどこかに残っていた。


命令を受けても、出発しても、どこかで引き返せるのではないか。


そんな考えを、完全には捨てられなかった。


けれど、今は違う。


船は進んでいる。


故郷から遠ざかり、沖縄へ近づいている。


海はつながっているのに、帰る道だけが少しずつ見えなくなっていくようだった。


さとるは、ゆっくりと息を吐いた。


「……帰りたい」


その言葉は、誰にも聞かせられなかった。


帰りたい。


母のいる家へ。


父のいる家へ。


見慣れた道へ。


朝になればいつものように人が歩き、夕方になれば家々に明かりが灯る、何でもない町へ。


そして、薫のところへ。


高台で、二人で海を眺めたかった。


訓練の話も、怖かったことも、言葉にできなかった思いも、全部話したかった。


薫が笑う顔を見たかった。


もう一度、名前を呼んでほしかった。


ただ、それだけだった。


特別なことは何も望んでいない。


生きて、帰りたかった。


それなのに、今、自分が向かっているのは、普通の暮らしから遠ざかる場所だった。


さとるは、膝の上の手を見つめた。


訓練のとき、何度も失敗した手だった。


動きを間違え、指示に遅れ、教官にやり直しを命じられた。


以前なら、失敗するたびに悔しかった。


もっと上手くやらなければならない。


もっと速く動かなければならない。


そう思って、何度も繰り返した。


けれど、出撃が決まってからは、失敗の意味が変わってしまった。


訓練で失敗することが怖いのではない。


訓練の先にあるものが、怖かった。


この先に、何が待っているのか。


自分は、本当に戻れなくなるのではないか。


薫と交わした最後の言葉が、本当に最後になってしまうのではないか。


考え始めると、息が浅くなった。


さとるは、周囲に気づかれないように深呼吸をした。


吸って、吐く。


もう一度、吸って、吐く。


それでも胸の苦しさは消えなかった。


「……落ち着け」


自分に言い聞かせた。


声に出してしまいそうになり、慌てて唇を閉じる。


落ち着かなければならない。


そう思うほど、心臓の音が大きくなった。


そのとき、船の外から声が聞こえた。


「沖縄が見えるぞ」


さとるは顔を上げた。


沖縄。


その言葉を聞いた瞬間、体が硬くなった。


ついに、ここまで来てしまった。


さとるは立ち上がり、周囲の者たちとともに外の様子を確かめた。


目の前に、陸地が見えた。


朝の光の中に、島の輪郭が浮かんでいる。


遠くには低い山々が連なり、その手前に町らしきものが見えた。海は青く、陽の光を受けて静かに輝いていた。


美しい海だった。


山口で見ていた海とは、少し違っていた。


見慣れた海には、基地へ続く道があり、訓練を終えた仲間たちの声があり、薫が立っていた高台があった。


こちらの海には、それがない。


どれほど似た色をしていても、どれほど同じように波が寄せていても、さとるの知っている海ではなかった。


それでも、海はどこまでもつながっている。


この海の向こうに、山口がある。


山口の町がある。


高台がある。


薫がいる。


そう思ったとき、さとるは初めて、沖縄の海を見ながら故郷を思った。


「……薫」


今度は、はっきりと名前を口にした。


誰かに聞かれたかもしれない。


けれど、もう気にする余裕はなかった。


目の前の海を見つめながら、さとるは心の中で薫に語りかけた。


薫。


俺は、沖縄に着いたよ。


あのとき、三日後に出発すると告げたら、薫は泣いた。


「三日しかないの?」


そう言って、涙をこぼした。


あの涙を、今でも覚えている。


抱きしめた体の震えも。


離れたくないと願う気持ちも。


何ひとつ、忘れられなかった。


さとるは、手すりを握った。


指先に力を込めすぎて、関節が白くなった。


本当は、あのとき言いたかった。


行きたくない。


薫と離れたくない。


ここから逃げたい。


一緒に、どこか知らない町へ行きたい。


海の近くに小さな家を見つけて、二人で暮らしたい。


朝になれば起きて、働いて、夕方には家に帰る。


薫が食事を作っている音を聞きながら、自分も何かを手伝う。


食卓を囲み、今日あったことを話す。


夜になれば、窓の外から波の音が聞こえる。


そんな暮らしをしたかった。


けれど、あのときも、今も、さとるにはその願いを叶える方法がわからなかった。


自分は命令を受けた。


ここまで来た。


もう、自分ひとりの気持ちでどうにかできる場所にはいなかった。


さとるは目を閉じた。


風が頬を撫でた。


海の匂いがした。


「……生きたい」


今度は、胸の中ではっきりと言った。


誰に聞かせるためでもない。


誰かを安心させるためでもない。


ただ、自分の心に嘘をつかないために。


生きたい。


死にたくない。


帰りたい。


薫と、もう一度会いたい。


その願いを抱いていることを、恥ずかしいとは思わなかった。


訓練生として、命令に従うことを教えられてきた。


恐怖を表に出さず、弱音を吐かず、与えられた役目を果たすことを求められてきた。


けれど、ここまで来ても、さとるの心から消えないものがあった。


生きたいという気持ちだった。


それは、訓練を重ねても消えなかった。


命令を受けても消えなかった。


山口を離れても、沖縄に着いても、消えなかった。


むしろ、遠くへ来るほど、その思いは強くなっていた。


さとるは、海の向こうを見つめた。


薫は今、何をしているだろう。


まだ高台へ行っているだろうか。


泣いているだろうか。


それとも、もう少しだけ前を向こうとしているだろうか。


自分が最後に抱きしめたとき、薫は泣いていた。


さとるも泣いていた。


二人とも、帰ってくると約束することができなかった。


「また明日」


そう言うことしかできなかった。


それが約束ではなく、願いだと、二人ともわかっていた。


だからこそ、その言葉が胸に残っていた。


また明日。


もう一度、会いたい。


もう一度、話したい。


もう一度、あの高台で海を見たい。


さとるは、ポケットに手を入れた。


そこには、何も入っていなかった。


手紙は剛に預けてきた。


両親への手紙。


薫への手紙。


自分が帰れなかったとき、渡してほしいと頼んだものだった。


あのとき、剛は言った。


「できれば、自分で渡せ」


その言葉を思い出すと、胸が痛くなった。


自分で渡したい。


自分の手で、薫に手紙を渡したい。


自分の声で、好きだと伝えたい。


母に、ただいまと言いたい。


父と、もう一度海の話をしたい。


手紙に書いたことを、全部、自分の口で伝えたかった。


さとるはポケットから手を抜き、強く握りしめた。


「……剛」


今度は、友の顔が浮かんだ。


出発の日、剛は自分を見送ってくれた。


怖いと言いながら、それでも隣に立ってくれた。


「怖くていいからな」


そう言ってくれた。


自分は、何と返したのだったか。


「剛もな」


そう答えた。


あの短い言葉の中に、どれほど多くの気持ちがあったのだろう。


怖がってもいい。


帰りたいと思ってもいい。


死にたくないと願ってもいい。


それでも、命令が下れば、行かなければならない。


そんな自分たちの現実を、二人とも知っていた。


剛は、まだ山口にいる。


自分がいなくなった基地で、今日も訓練をしているのだろう。


もしかしたら、いつか剛にも命令が下るかもしれない。


そう考えた途端、さとるの胸に別の痛みが広がった。


剛には、行ってほしくなかった。


あいつには、生きていてほしかった。


母の飯をもう一度食べたいと言っていた。


家に帰りたいと言っていた。


妹の成長を見たいと言っていた。


そんな剛まで、海の向こうへ連れていかれるのは嫌だった。


「……剛、行くなよ」


さとるは、小さく呟いた。


もちろん、剛に届くはずはない。


それでも、言わずにはいられなかった。


船は、ゆっくりと進み続けていた。


沖縄の陸地が、少しずつ近づいてくる。


海の色が変わり、岸の輪郭がはっきりしてきた。


やがて、船内に指示が響いた。


到着後の準備をするように告げる声だった。


周囲の者たちが動き始めた。


さとるも、手すりから手を離した。


けれど、すぐには歩き出せなかった。


足が、床に張りついたように動かなかった。


ここから先へ進めば、何かが変わる。


山口にいたときには、まだ遠い話のように感じていた出撃が、もう目の前まで来ている。


そう思うと、喉が締めつけられた。


さとるは一度、目を閉じた。


薫の顔を思い浮かべた。


高台で笑っていた顔。


初めて言葉を交わした日の、驚いた顔。


二人だけで話したときの、少し照れた顔。


そして、最後に抱きしめたときの、涙に濡れた顔。


「……薫」


さとるは、心の中で呼んだ。


俺は、まだ生きている。


ここにいる。


怖いけれど、まだ生きている。


だから、もう一度会いたい。


もう一度、君と海を見たい。


その願いだけは、誰にも奪われたくなかった。


さとるは目を開けた。


沖縄の朝の光が、海の上に広がっていた。


美しい景色だった。


けれど、その美しさを見ても、心が晴れることはなかった。


この海の先に、何が待っているのか。


自分は、いつまで生きていられるのか。


帰ることができるのか。


答えは、どこにもなかった。


ただ、ひとつだけ。


さとるは、胸の中で繰り返した。


生きたい。


薫と、生きたい。


その願いを抱いたまま、さとるは沖縄の海へと足を踏み出した。


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