第四十一話 剛の決断
第四十一話 剛の決断
薫が高台で沖縄へ行きたいと口にしてから、剛は以前よりも頻繁に海を眺めるようになった。
海は、いつもと変わらなかった。
朝になれば光を受け、昼には青く広がり、夕暮れには遠くの空と溶け合う。波は寄せては返し、風は草を揺らして通り過ぎていく。
けれど、その海の向こうには、さとるがいた。
今ごろ、どこを進んでいるのだろう。
船の中で、何を考えているのだろう。
眠れているのだろうか。食事は喉を通っているのだろうか。
そして――。
さとるは、薫にもう一度会いたいと思っているだろうか。
剛には、それが痛いほどわかっていた。
出撃命令が下ったとき、さとるは震えていた。
声をかけても、すぐには返事ができなかった。いつもなら何でもない動作にさえ時間がかかり、何度も手荷物を確かめ、何度も深く息を吸っていた。
それでも、さとるは行った。
帰りたいと言いながら。
死ぬのが怖いと言いながら。
薫と生きたいと言いながら。
剛は、あのときのさとるの顔を忘れられなかった。
そして今、薫もまた、同じ海の向こうへ行こうとしている。
ただ、薫には行き先さえわからない。
沖縄のどこにさとるがいるのか。どこへ行けば会えるのか。そもそも、どうやって沖縄まで行くのか。
何一つ、確かなことはなかった。
それなのに、薫は高台に立つたび、海の向こうを見つめていた。
まるで、遠くにいるさとるの姿を見つけようとしているかのように。
「……薫さん」
剛は、ひとり呟いた。
あのとき、自分は薫に厳しいことを言った。
行き先もわからないのに、どうやって行くつもりなのか。
さとるに会えなかったらどうするのか。
帰る場所も、戻る方法も考えているのか。
どれも、間違った問いではなかった。
薫を危険な目に遭わせたくなかったからこそ、剛は問い詰めたのだ。
けれど、問い詰めるだけで何もできない自分にも、腹が立っていた。
さとるは、自分の大切な友人だった。
訓練で失敗して怒鳴られた日も、疲れ果てて食事をする気力さえなくした日も、二人で何度も顔を見合わせた。
怖くないふりをする必要はなかった。
剛も怖かった。
今も、怖い。
自分の名前が呼ばれる日が来るかもしれない。今日かもしれない。明日かもしれない。何日か先かもしれない。
命令が出れば、断ることはできない。
そのとき、自分はどうするのだろう。
さとると同じように、震えながら前へ出るのだろうか。
それとも――。
剛は、そこで考えるのをやめた。
考えたところで、答えは出なかった。
けれど、ひとつだけ、胸の中に残り続けている思いがあった。
もし、自分にも出撃命令が下ったら。
もし、自分が沖縄へ向かうことになったら。
そのときは、薫を連れていこう。
さとるのいる海へ。
それが本当に正しいことなのか、剛にはわからなかった。
薫を危険にさらすことになるかもしれない。さとるに会える保証もない。自分自身だって、沖縄から帰れるかどうかわからない。
それでも、薫がひとりで何も知らないまま高台に立ち続ける姿を想像すると、胸が苦しくなった。
さとるがどこにいるのかもわからず、いつ帰るのかもわからず、ただ海を見つめながら待つ。
その時間が、薫にどれほど長く、残酷なものになるのか。
剛には、想像することしかできなかった。
だからといって、簡単に連れていけるわけではなかった。
薫は軍人ではない。
出撃する者たちの中に、ひとりの女性がいると知られれば、当然、問いただされるだろう。どうしてここにいるのか。誰の許可を得たのか。何をしに来たのか。
むしろ、二人の危険が増えるだけかもしれない。
それでも、剛は考え続けた。
薫を連れていくなら、人目につかないようにしなければならない。
誰にも知られず、誰にも見つからず、出発する者たちの中に薫の存在を紛れ込ませる方法を考えなければならない。
だが、具体的な方法はまだなかった。
剛は、海を見つめたまま拳を握った。
「……俺に命令が出たらだ」
それは、誰かに聞かせるための言葉ではなかった。
自分自身に言い聞かせるための言葉だった。
命令が出るまでは、何も決められない。
けれど、命令が出たそのとき、自分は迷わない。
薫を置いていかない。
さとるのいる沖縄へ、連れていく。
たとえ、その決断が自分の人生を大きく変えることになっても。
剛は、そう心に決めた。
*
翌日の夕方、剛は再び高台へ向かった。
訓練が終わったあとだった。
体は疲れ切っていた。肩には重さが残り、足を動かすたびに筋肉が張った。いつもなら、宿舎へ戻って少しでも休みたいと思う時間だった。
それでも、剛は高台へ向かった。
薫がいるかどうかはわからなかった。
けれど、話さなければならないと思った。
高台へ続く道を上っていくと、草の向こうに人影が見えた。
薫だった。
彼女は、いつもの場所に立っていた。
海を見つめ、両手を胸の前で固く握りしめている。
風が吹くたび、髪が頬にかかった。それを払うこともせず、薫はじっと沖を見つめていた。
剛は、しばらく声をかけられなかった。
さとるがいなくなってから、薫の笑顔を見ることが少なくなった。
以前の薫は、さとると会った日には、ほんの少しだけ表情が明るくなった。何を話したのかは詳しく聞かなくてもわかった。
帰ってきたさとるが、どんな顔をしていたのか。
何を話して、どんなふうに笑ったのか。
薫の表情に、その日の時間が残っていたからだ。
今は、その表情がない。
あるのは、海の向こうに置いてきた人を思う、深い寂しさだけだった。
「薫さん」
声をかけると、薫はゆっくり振り返った。
「……剛さん」
「また、ここにいたんだな」
「はい」
薫は小さく頷いた。
「ここにいると、さとるが見えるような気がするんです」
その言葉に、剛は胸を締めつけられた。
もちろん、本当に見えるわけではない。
船はもう遠くへ進んでいる。ここから姿を探したところで、見つかるはずはなかった。
それでも薫は、毎日のようにここへ来る。
見えないとわかっていても、海の向こうを見つめている。
「……薫さん」
剛は、隣に立った。
「今日は、話があるんだ」
薫の表情が変わった。
「さとるのことですか?」
「それもある。でも、俺自身のことでもある」
剛は一度、息を吸った。
どう話せばいいのか、何度も考えてきたはずだった。
けれど、いざ薫を前にすると、言葉が簡単には出てこなかった。
「俺にも、いつ命令が出るかわからない」
薫は黙って剛を見つめた。
「今はまだ、俺には出撃命令は出ていない。でも、いつまでもそうだとは限らない。明日かもしれないし、もっと先かもしれない」
「……はい」
「命令が出たら、俺も沖縄へ向かうことになるかもしれない」
その言葉に、薫の目が揺れた。
沖縄。
その地名は、今の薫にとって、さとるがいるかもしれない場所だった。
そして同時に、さとるが遠ざかっていく先でもあった。
剛は、薫の目を見た。
「もし、俺に出撃命令が出たら――」
一度、言葉を切った。
自分がこれから何を口にするのか、もう一度確かめるように。
「薫さんを、沖縄へ連れていこうと思ってる」
薫は息を止めた。
「……本当ですか?」
「まだ決まったわけじゃない。俺に命令が出るかどうかもわからないし、実際に連れていけるかどうかもわからない」
剛は、はっきりと言った。
「だから、簡単に約束はできない。でも、もし俺が沖縄へ行くことになったら、薫さんをここにひとり残したまま行くことだけは、もう一度考えたいと思ったんだ」
薫の目に、涙が浮かんだ。
「剛さん……」
「ただし」
剛の声が少し低くなった。
「ひとつ、絶対にわかっていてほしいことがある」
薫は涙をこらえながら頷いた。
「薫さんを連れていくなら、隠さなければならない」
「……隠す?」
「ああ」
剛は海から目を離さなかった。
「薫さんは軍人じゃない。俺たちと一緒に沖縄へ向かう理由を、誰にでも話せるわけじゃないんだ。女の人が出撃する者たちについていくなんて、簡単に認められることじゃない。見つかれば、どうして来たのか、誰が連れてきたのか、問いただされるだろう」
薫の顔から、わずかに明るさが消えた。
剛は続けた。
「俺が薫さんを連れていくと決めたからって、何もかも簡単になるわけじゃない。むしろ、見つかったら、薫さんだけじゃなく俺も危険になるかもしれない」
「……はい」
「それに、沖縄へ行けば、必ずさとるに会えるわけでもない」
その言葉は、薫にとって何よりもつらい現実だった。
剛は、それでも言わなければならなかった。
希望だけを与えることはできない。
薫が本当に沖縄へ向かうことになったとき、そこに待っているのは、思い描いた再会だけではないかもしれないのだから。
「さとるがどこにいるのか、俺にも正確にはわからない。沖縄のどこにいるのかも、いつ会えるのかも、会えるかどうかさえもわからないんだ」
薫は俯いた。
頬を伝った涙が、足元の草に落ちた。
「……それでも、私は」
声が震えた。
「それでも、さとるのところへ行きたいんです」
剛は黙って聞いた。
「どこにいるのかわからないのは、わかっています。会えるかどうかも、わからない。でも、ここで待っているだけでは、何もわからないままなんです」
薫は両手を握りしめた。
「さとるが怖い思いをしているとき、どんな顔をしているのかもわからない。苦しいとき、誰かに話せているのかもわからない。ひとりで、帰りたいと思っているかもしれないのに……私は、ここで海を見ていることしかできない」
言葉が途切れた。
涙を拭おうとしても、次から次へと溢れてくる。
「私、さとると一緒に生きたいんです」
その言葉を聞いたとき、剛はさとるの顔を思い出した。
高台で、薫のことを話したさとる。
死ぬのが怖いと、帰りたいと、薫に会いたいと口にしたさとる。
あいつも同じことを言っていた。
薫と生きたい。
ただ、それだけだった。
特別な未来ではない。
立派な家でも、裕福な暮らしでもない。
朝、目を覚まして、隣にいる人の顔を見る。
一緒に食事をする。
仕事から帰り、ただいまと言う。
夕暮れの海を眺める。
そんな、どこにでもある日々を望んでいた。
それなのに、戦争は、その当たり前の未来さえ奪おうとしている。
剛は、ゆっくり拳を握った。
「……わかった」
薫が顔を上げた。
「剛さん……?」
「俺に命令が出たら、できる限りの方法を考える。薫さんを沖縄へ連れていける道があるなら、探す」
剛は薫を見つめた。
「でも、今ここで、必ず連れていくとは言えない。隠れる方法も、行き先も、まだ何も決まっていないんだ」
「はい」
「だから、それまでは誰にも話さないでほしい。俺がこういうことを考えているのも、薫さんが沖縄へ行きたいと思っていることも。誰かに知られたら、何もできなくなるかもしれない」
薫は何度も頷いた。
「わかりました」
「それから、俺の名前を出して、誰かに頼ろうともしないでくれ。今はまだ、俺にも何ができるかわからないんだ」
「はい……」
薫は涙を拭った。
その表情には、まだ不安が残っていた。
けれど、さっきまでのように、ただ海の向こうを見つめているだけではなかった。
ほんのわずかでも、進む道があるかもしれない。
そう思えたのだ。
「剛さん」
「ん?」
「どうして、そこまでしてくれるんですか?」
剛は、すぐには答えなかった。
なぜなのか。
さとるのためだから。
薫があまりにも悲しそうだから。
友人を失いたくないから。
どれも本当だった。
けれど、それだけではなかった。
剛自身もまた、怖かったのだ。
自分の名前が呼ばれる日が来ることが。
いつか、自分もこの町を離れることになるかもしれないことが。
そして、もし自分が帰れなかったら、残された人たちがどれほど悲しむのかということが。
さとるがいなくなったあと、薫がひとりで泣いている姿を見て、剛は思った。
自分がいなくなったあとにも、誰かが同じように泣くのだろうか。
母も、父も、妹も。
帰りを待って、海を見つめて、届かない人に向かって名前を呼ぶのだろうか。
だからこそ、今はできることをしたかった。
さとるが大切にしていた人を、ただ置き去りにしたくなかった。
「……さとるは、俺の大事な友達だから」
剛は静かに答えた。
「それに、薫さんも、あいつが大切にしている人だ。だから、できることがあるなら、何かしたいんだ」
薫は唇を噛んだ。
「ありがとうございます……」
「礼を言うのは、まだ早いよ。何もできていないんだから」
剛は、少しだけ笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「それに、俺だって怖いんだ」
薫は顔を上げた。
「命令が出たら、俺も沖縄へ行くことになるかもしれない。そうなったら、俺だって帰れるかどうかわからない。正直、行きたくないと思うこともある」
剛の声は、いつもより低かった。
「母さんの飯を、もう一度食べたい。父さんと話もしたい。妹が大きくなるところも見たい。普通に家へ帰って、いつもの暮らしに戻りたい」
言葉にした途端、剛の胸の奥に押し込めていた思いが、はっきりと形になった。
自分も、生きたい。
帰りたい。
その願いは、さとるだけのものではなかった。
「俺も、生きて帰りたいんだ」
薫は、涙を浮かべたまま頷いた。
「……はい」
「だから、薫さんを連れていくことが、本当にできるのかも、これから考えなきゃならない。危険なことも、たくさんあると思う」
「それでも、私は行きたいです」
薫は、今度は迷わずに言った。
「さとるに会えるかどうかわからなくても、私は、さとるのいる場所へ向かいたい」
剛は、薫の決意を見つめた。
もう、ただの思いつきではない。
薫は、さとるを追いかけたいのではなかった。
さとると生きる可能性を、最後まで手放したくないのだ。
それがどれほど危険なことなのか、薫も少しずつ理解し始めていた。
「……わかった」
剛はもう一度、そう言った。
「俺に命令が出たら、そのときは本気で考える。薫さんを連れていく方法も、見つからないようにする方法も。ただ、今はまだ、誰にも気づかれないようにしていてくれ」
「はい」
「それまでは、この高台にも、あまり長くいないほうがいいかもしれない。誰かに見られて、何かを聞かれたら困るから」
薫は海を振り返った。
いつもなら、ここを離れるのが嫌だった。
この場所にいれば、さとると過ごした時間が少しだけ近くに戻ってくる気がしたから。
けれど、今は違った。
さとるに会うために進むのなら、この場所に立ち続けるだけではいけない。
薫は、ゆっくりと海から目を離した。
「……剛さん」
「何だ?」
「さとるに会えたら、伝えたいことがあります」
「うん」
「帰ってきて、とは言えないんです。そんな約束をさせたら、さとるを苦しめてしまうかもしれないから」
薫の声は、涙でかすれていた。
「でも……私は、さとると生きたい。もう一度、一緒に海を見たい。普通に暮らしたい。それだけは、伝えたいんです」
剛は、ゆっくり頷いた。
「きっと、あいつも同じことを思ってるよ」
「……そうでしょうか」
「そうだよ。さとるは、薫さんと生きたいって言ってたから」
薫の目から、再び涙が溢れた。
剛は、それ以上、何も言わなかった。
慰める言葉を並べても、さとるが今どこにいるのかはわからない。
二人が再び会えるのかも、わからない。
それでも、剛は決めた。
もし、自分に出撃命令が下ったなら。
薫を置いていかない。
沖縄へ連れていく道を探す。
そして、薫の存在を知られないようにしなければならない。
簡単なことではない。
誰にも見つからず、誰にも疑われず、薫を連れていく方法など、まだひとつも思いついていなかった。
それでも、もう、何もしないまま海を眺めているだけではいられなかった。
剛は、夕暮れの海を見つめた。
遠くの空が、ゆっくりと赤く染まっていく。
その向こうに、さとるがいる。
そして、いつか自分も、あの海へ向かう日が来るかもしれない。
その日が来るのかどうか、剛にはわからなかった。
ただ、ひとつだけ確かなことがあった。
薫は、さとるのいる沖縄へ行きたいと願っている。
そして自分は、その願いを、もう見ないふりはできなかった。
「……待ってろよ、さとる」
剛は、誰にも聞こえない声で呟いた。
「俺に命令が出たら、薫さんを連れていく方法を探すからな」
海は、何も答えなかった。
ただ、夕暮れの波が、静かに岸へ寄せては返していた。




