第四十話 沖縄へ行きたい
第四十話 沖縄へ行きたい
夕暮れの海を前に、薫は膝を抱えて座っていた。
隣には剛がいる。
さっきまで、薫は泣いていた。
さとるがいなくなった高台で、声を押し殺しながら、何度も名前を呼んでいた。
剛は、そんな薫の隣に座り、何も言わずに海を見つめていた。
けれど、薫の涙は、簡単には止まらなかった。
「……剛さん」
しばらくして、薫が口を開いた。
「ん?」
「さとるは、沖縄のどこへ行くんですか」
剛は、すぐには答えなかった。
沖縄方面へ向かうことは聞いている。
しかし、さとるがどこに到着するのか、その先で何が起こるのか、剛にも詳しいことは分からなかった。
「詳しい場所までは、俺にも分からない」
「……分からないんですか」
「ああ。俺には出撃命令が出ていない。基地に残ることになってるから、知らされていないことも多いんだ」
薫は、うつむいた。
膝の上で、両手をぎゅっと握りしめる。
「そう……ですよね」
その声は、ひどく小さかった。
剛は、薫の横顔を見た。
何かを考えている。
ただ悲しんでいるだけではない。
その表情に、剛は胸の奥がざわつくのを感じた。
「……薫さん」
「はい」
「何を考えてる?」
薫は答えなかった。
海の向こうを見つめている。
その目には、涙が残っていた。
剛は、もう一度尋ねた。
「何を考えてるんだよ」
薫は、唇を噛んだ。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「……私、沖縄へ行きたいです」
剛は、言葉を失った。
「……何だって?」
「さとるのところへ行きたいんです」
風が吹いた。
薫の髪が頬にかかる。
剛は、しばらく薫を見つめていた。
聞き間違いではない。
薫は、今、確かにそう言った。
「……本気で言ってるのか?」
薫は、頷いた。
「はい」
「沖縄へ行くって……どうやって?」
「それは……」
薫は、言葉に詰まった。
剛は、思わず立ち上がった。
「薫さん、分かってるのか。沖縄がどこにあるのか、ここからどれだけ遠いのか」
「分かっています」
「いや、分かってない!」
自分でも驚くほど、声が強くなった。
剛は、すぐに口を閉じた。
薫の肩が、小さく震えている。
それでも、薫は目をそらさなかった。
「……すみません。でも、私は……」
「謝ってほしいんじゃない」
剛は、苦しそうに息を吐いた。
「俺は、さとるから薫さんのことを頼まれたわけじゃない。けど、あいつがどれだけ薫さんを大切にしていたか、知ってるんだ」
薫の目に、また涙が浮かんだ。
「だからこそ、言ってるんだ。簡単に沖縄へ行くなんて言わないでくれ」
「簡単になんて、考えていません」
薫の声が震えた。
「私だって、怖いです。沖縄へ行くことが、どれほど大変なのかも、何が起こるのかも、全部分かっているわけではありません」
「だったら……」
「でも!」
薫は、初めて声を張った。
剛が黙る。
薫は、両手を握りしめたまま続けた。
「さとるが、今、どんな気持ちでいるのか考えると……何もできない自分が、苦しくて仕方ないんです」
声がかすれた。
「怖がっていると思います。帰りたいと思っていると思います。私に会いたいと、思ってくれているかもしれない」
薫は、涙を拭った。
「それなのに、私はここで海を見て、泣いているだけなんです」
「薫さん……」
「さとるが、どこにいるのかも分からない。今、何をしているのかも分からない。何を考えているのかも分からない」
薫の頬を、涙が伝った。
「もし、あの人がひとりで怖がっているのなら……私は、そばにいたいんです」
剛は、何も言えなかった。
薫の気持ちは分かる。
自分だって、さとるのそばにいてやりたかった。
出発する前に、もっと何かできたのではないかと考えてしまう。
けれど、気持ちだけでは、どうにもならないことがある。
「……それで、沖縄のどこへ行くつもりなんだ?」
剛は、もう一度尋ねた。
今度は、声を抑えていた。
「沖縄と言っても広いんだ。さとるがどこにいるかも分からない。どの港へ行けばいいのかも、どうやって会えばいいのかも分からないだろう」
薫は、答えられなかった。
「船に乗れば着く、そんな簡単な話じゃない。今は戦争中なんだ。普通に旅をすることだって難しい。まして、出撃する部隊のところへ行くなんて……」
剛は、そこで言葉を切った。
薫の顔を見て、胸が痛んだ。
それでも、問いかけずにはいられなかった。
「薫さん。沖縄のどこへ行くんだ?」
薫は、唇を震わせた。
「……分かりません」
「じゃあ、どうするつもりなんだ?」
「……分かりません」
「さとるに会えるかどうかも分からないんだぞ」
「……はい」
「それでも行くのか?」
薫は、顔を上げた。
涙に濡れた目で、剛をまっすぐ見つめた。
「……行きたいです」
剛は、再び言葉を失った。
薫は続けた。
「どこへ行けば会えるのか、今は分かりません。でも、分からないからって、何もしないまま、あの人が帰ってくるのを待つだけなんて……私には、できないんです」
「薫さん……」
「私は、さとると一緒に生きたいんです」
その言葉に、剛の胸が締めつけられた。
薫は、泣きながら言った。
「死にたいわけじゃありません。私だって、生きたいです。さとると一緒に、普通に暮らしたい。朝起きて、一緒にご飯を食べて、夕方になったら、またこの海を見たい」
薫は、高台の地面に目を落とした。
「でも、あの人がひとりで遠くへ行ってしまって……私は何も知らないまま、ここで待つしかない。それが、苦しいんです」
剛は、拳を握った。
薫の言葉は、さとるが話していたことと重なっていた。
さとるも、同じことを願っていた。
薫と生きたい。
普通の暮らしがしたい。
帰りたい。
二人は、同じ未来を見ていたのだ。
だからこそ、剛には分かってしまった。
薫は、ただ悲しみに耐えられず、衝動的に沖縄へ行こうとしているのではない。
さとると離れたまま、何もできずにいることが耐えられないのだ。
それでも。
剛は、薫の前に立った。
「……もう一度聞く」
薫が顔を上げる。
「沖縄のどこへ行くつもりなんだ?」
厳しい声だった。
「どうやって、さとるを探すつもりなんだ? 行った先で会えなかったらどうする? 帰る場所も、戻る方法も考えているのか?」
薫は、答えられなかった。
剛の問いは、どれも正しかった。
行き先は分からない。
さとるの居場所も分からない。
会える保証などない。
それでも、行きたいという気持ちだけが、胸の中で強くなっていく。
「……考えます」
薫は、ようやく言った。
「これから、考えます。何も分からないまま、ただ飛び出していくつもりはありません」
剛は、薫を見つめた。
「本当に?」
「はい」
「自分の命も、大切にするんだな?」
薫は、すぐには答えられなかった。
さとるのことを考えると、自分のことなど、どうでもよくなってしまいそうだった。
けれど、さとるは何と言うだろう。
自分に生きてほしいと言った。
自分を危険な場所へ連れていきたくないと言った。
薫は、涙を拭った。
「……はい。私も、生きたいです」
そして、もう一度、はっきりと言った。
「さとると、一緒に生きたいんです」
剛は、長い沈黙のあと、ゆっくりと腰を下ろした。
「……分かった」
薫が顔を上げる。
「ただし、俺は、何も分からないまま沖縄へ行くことには賛成できない」
「……はい」
「さとるに会いたい気持ちは分かる。でも、気持ちだけで行けば、薫さん自身が危険になる。さとるだって、それを望まないはずだ」
薫は、唇を噛んだ。
分かっていた。
さとるなら、きっと止める。
危ないから来るなと言うだろう。
自分には生きていてほしいと、何度も言うだろう。
それでも、薫の心は、さとるのいる海の向こうへ向いていた。
「……剛さん」
「ん?」
「さとるがいる場所について、何か分かったら、教えてください」
剛は、薫の目を見た。
「分かった。ただ、俺にも分からないことは多い。分からないことを、分かったようには言えない」
「はい」
「それでも、知っていることがあれば話す」
薫は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼はいらないよ」
剛は、海を見た。
「俺だって、さとるに帰ってきてほしいんだ」
その声は、少し震えていた。
「俺は基地に残った。あいつは、沖縄へ向かった。今の俺にできることは多くない。でも、あいつが帰ってくることを、諦めたくない」
薫は、剛の横顔を見つめた。
剛もまた、さとるを大切に思っている。
そのことが、痛いほど伝わってきた。
「……私も、諦めたくありません」
薫は、海へ目を戻した。
「さとるが帰ってくることを、諦めたくない」
夕暮れの風が、二人の間を吹き抜けた。
高台から見える海は、どこまでも続いていた。
その向こうに、さとるがいる。
今、何を思っているのだろう。
薫は、そっと胸に手を当てた。
――さとる。
――私は、あなたに会いたい。
――あなたと、生きたい。
その願いは、涙を流しても消えなかった。
そして、剛もまた、同じ海の向こうにいる友を思っていた。
さとるに会いたい。
もう一度、話がしたい。
一緒に帰りたい。
三人の願いは、それぞれ違う形をしていた。
けれど、どれも、失いたくない人を思う気持ちから生まれていた。
海は、何も答えなかった。
ただ、沖縄へ向かう船が進む方向へ、夕暮れの光を静かに伸ばしていた。




