第三十九話 それぞれの想い
第三十九話 それぞれの想い
船が動き始めたとき、さとるは岸壁から目を離せなかった。
ゆっくりと。
本当にゆっくりと。
自分がいた場所が遠ざかっていく。
ついさっきまで、そこに剛がいた。
最後に交わした言葉が、まだ耳に残っている。
「帰ろうな」
さとるがそう言うと、剛は頷いた。
「一緒に」
その言葉を交わしたとき、二人とも本気だった。
いつかまた、同じ場所で笑いたい。
訓練の苦しさを笑い話にしたい。
母親の作る飯がうまいとか、妹がうるさいとか、そんな何でもない話をしたい。
二人とも、生きて帰りたかった。
けれど、剛には出撃命令が出ていなかった。
剛は基地に残る。
さとるは、沖縄へ向かう。
同じ時間を過ごしてきた二人が、ここから別々の道を進むのだ。
岸壁に立つ剛の姿が小さくなっていく。
さとるは、目を凝らした。
まだ見える。
剛が、こちらを見ているように思えた。
さとるは片手を上げようとした。
けれど、腕が途中で止まった。
何かをしてしまえば、本当に別れが決まってしまうような気がした。
それでも、さとるは手を上げた。
剛も、手を上げた。
二人の間には、もう声の届かない距離があった。
「……剛」
声に出しても、届かない。
さとるは、唇を噛んだ。
――またな。
最後に交わした言葉が、胸の奥で繰り返される。
また会えると信じたかった。
けれど、今の自分には、それを約束することができなかった。
船が進む。
剛の姿が、岸壁の景色に溶けていく。
やがて、見えなくなった。
さとるは、しばらくその場所から動けなかった。
友を残してきた。
自分だけが、先へ進んでいく。
その事実が、思っていた以上に重かった。
***
船内は、静かだった。
さとるは壁際に腰を下ろし、膝の上で両手を握っていた。
指先が冷たい。
手のひらには汗がにじんでいる。
船の揺れに合わせて、身体がわずかに傾いた。
そのたびに、ここがもう陸の上ではないことを思い知らされた。
帰ろうと思っても、すぐには帰れない。
歩いて戻れる距離ではない。
自分の意思だけでは、進む方向を変えられない。
さとるは、ゆっくりと息を吐いた。
――本当に、行くんだ。
沖縄へ。
その言葉を頭の中で繰り返す。
訓練中、教官から沖縄方面への出撃について聞かされたことはあった。
そのときは、まだ遠い話のように思えていた。
いつか誰かが行く。
いつか自分にも命令が下るかもしれない。
そう考えてはいたが、どこかで、自分の番はまだ先だと思いたかった。
しかし、命令は下った。
自分の名前が呼ばれた。
出発の日が決まり、準備を終え、今こうして船に乗っている。
もう、想像の中の話ではなかった。
さとるは、握った手に力を込めた。
爪が手のひらに食い込む。
痛みを感じても、手を緩められなかった。
「……怖い」
誰にも聞こえない声で呟いた。
口に出したところで、何も変わらない。
それでも、心の中に押し込めておくことができなかった。
死にたくない。
帰りたい。
薫に会いたい。
母に、父に、もう一度会いたい。
何ひとつ、諦められていなかった。
覚悟を決めたつもりだった。
命令を受けたときには、逃げずに従わなければならないのだと思った。
しかし、命令に従うことと、死を恐れなくなることは違った。
さとるは、今になってそのことを思い知っていた。
***
目を閉じると、剛の顔が浮かんだ。
「俺も怖い」
剛は、そう言った。
いつもなら、苦しい訓練のあとでも冗談を言い、さとるが落ち込んでいるときには、わざと明るく振る舞ってくれた。
そんな剛が、出発前には、自分の弱さを隠さずに話してくれた。
母親の飯をもう一度食べたい。
妹が大きくなるところを見たい。
家に帰りたい。
さとるも同じだった。
自分だって、帰りたかった。
剛と、また一緒に笑いたかった。
二人で訓練を乗り越えた日々を、いつか思い出として語り合いたかった。
けれど、剛は基地に残った。
さとるだけが、この船にいる。
「……剛」
さとるは、もう一度その名を呟いた。
基地に残った剛は、今頃何をしているのだろう。
いつもの訓練場所にいるのだろうか。
自分が使っていた場所を見ているだろうか。
それとも、何事もなかったように仲間と話しているのだろうか。
考えても分からない。
ただ、ひとつだけ分かることがあった。
剛もまた、さとるを送り出した不安を抱えているはずだった。
出撃命令を受けなかったからといって、安心できるわけではない。
次に誰の名前が呼ばれるのか。
いつ、自分の番が来るのか。
剛にも、それは分からない。
さとるは、胸が苦しくなった。
自分はこれから、知らない海へ向かう。
剛は、あの基地で待つ。
二人とも、恐怖から逃れられたわけではなかった。
ただ、離れた場所で、それぞれの時間を過ごすことになったのだ。
――剛。
――俺は、まだ怖いよ。
心の中でそう伝えた。
――でも、お前と交わした言葉を忘れない。
――また一緒に笑いたい。
その願いを胸にしまい、さとるは目を開けた。
***
船内の別の場所では、出発した者たちが、それぞれ静かに過ごしていた。
ある者は、両手を組んで目を閉じている。
ある者は、家族の写真を何度も見つめている。
ある者は、誰かに話しかけようとして、結局やめてしまう。
誰もが、何かを思っていた。
母親の顔。
父親の言葉。
故郷の風景。
帰るはずだった家。
もう一度食べたい料理。
言えなかった感謝。
そして、会いたい人。
さとるも、その一人だった。
懐に手を入れると、布越しに紙の感触があった。
両親への手紙。
薫への手紙。
出発前の夜、何度も書き直し、最後には剛に託したものだった。
さとるは、紙に触れたまま動かなかった。
手紙は、もう剛に渡してある。
もし自分が帰れなかったら、両親と薫に届けてほしいと頼んだ。
そのときの剛の顔が、思い浮かんだ。
「できれば、自分で渡せ」
剛は、そう言った。
さとるは、あの言葉を忘れられなかった。
自分で渡したい。
母に。
父に。
そして、薫に。
自分の手で手紙を渡し、顔を見て、言葉を交わしたい。
手紙などではなく、自分の声で伝えたい。
「ありがとう」と。
「好きだ」と。
「生きて帰りたい」と。
さとるは、唇を強く結んだ。
――まだ、終わっていない。
心の中で、そう呟いた。
今は、出撃へ向かう途中だ。
それでも、まだ生きている。
まだ、息をしている。
まだ、帰りたいと願っている。
ならば、その願いを自分から手放したくはなかった。
***
薫の顔が浮かんだ。
出発前の夜。
高台で、二人は抱き合って泣いた。
薫の身体は震えていた。
さとるも、涙を止めることができなかった。
「行かないで」
薫は、何度もそう言った。
さとるだって、行きたくなかった。
薫の手を握り、離したくなかった。
このまま二人で、どこか知らない町へ逃げてしまいたかった。
誰も自分たちを知らない場所で、普通の暮らしを始めたかった。
朝、目を覚ます。
薫の顔を見る。
一緒に食事をする。
仕事をして、帰ってきて、また話をする。
そんな日々が欲しかった。
それなのに、自分は今、薫から遠ざかっている。
さとるは、額を壁に預けた。
「……薫、ごめん」
涙が、一滴落ちた。
薫に、何もしてやれなかった。
帰ってくると約束することもできなかった。
待っていてほしいと頼むこともできなかった。
自分の命さえ、自分で守れるとは言い切れない。
それでも、薫を愛している。
この先、どんなことがあっても、その気持ちだけは嘘ではなかった。
「薫……」
もう一度、名前を呼んだ。
返事はない。
そこに、薫はいない。
それでも、さとるは目を閉じ、最後に抱きしめたときの温もりを思い出そうとした。
自分の胸に顔を埋めて泣いた薫。
背中に回された腕。
震える声。
そして、最後に交わした言葉。
「また明日」
あれは、約束ではなかった。
明日も会えると、保証できたわけではなかった。
それでも、二人はそう言った。
もう一度会いたかったから。
もう一度、同じ海を見たかったから。
さとるは、その言葉を心の中で繰り返した。
――また明日。
今度は、声には出さなかった。
声に出せば、胸の奥にあるものが全部こぼれてしまいそうだった。
***
やがて、船の揺れに少し慣れてきた。
さとるは窓の外を見た。
広い海が、どこまでも続いている。
岸は、もう見えない。
自分がいた町も、剛の姿も、遠い景色の中に消えてしまった。
ここには、海しかない。
海の向こうに、沖縄がある。
さとるは、水平線を見つめた。
沖縄へ向かうことが、こんなにも怖いとは思わなかった。
訓練を重ねてきた。
命令に従う覚悟も、少しずつ身につけてきたつもりだった。
しかし、海を見つめていると、訓練の日々とは違う恐怖が押し寄せてきた。
この海の先で、自分はどうなるのだろう。
家族に、もう一度会えるのだろうか。
薫のところへ、帰れるのだろうか。
答えはなかった。
さとるは、目を伏せた。
そして、もう一度、はっきりと願った。
――生きたい。
――帰りたい。
――薫と、生きたい。
その願いは、少しも立派なものではなかった。
誰かに褒められるような覚悟でもなかった。
ただ、二十歳の青年が、好きな人と一緒に生きたいと願っているだけだった。
それでも、さとるにとっては、何よりも大切な願いだった。
***
同じ頃。
基地に残った剛は、いつもの場所に立っていた。
さとるが出発したあと、基地の空気は少し変わった。
そこにいるはずの人間が、いない。
いつもなら、訓練の合間に顔を合わせていた。
疲れたときには、短い言葉を交わした。
時には、くだらない話をして笑った。
それが、もうできない。
剛は、さとるが使っていた場所を見つめた。
「……さとる」
呼んでも、返事はない。
当たり前だった。
さとるは、もうここにはいない。
沖縄へ向かっている。
そう思った途端、剛の胸に重いものが広がった。
出撃命令が出なかったとき、少しだけ安心した。
自分は、まだ行かなくていい。
そう思った。
けれど、さとるの名前が呼ばれたとき、その安心は消えた。
友が選ばれた。
自分は残された。
その事実を、喜ぶことなどできなかった。
剛は、拳を握った。
さとるが帰ってくることを願っていた。
もう一度、ここで会いたかった。
「またな」と交わした言葉を、本当にしたかった。
そして、さとるから託された二通の手紙を思い出した。
両親への手紙。
薫への手紙。
剛は、届けると約束した。
けれど、本当は届けたくなかった。
その手紙を渡す日が来るということは、さとるが帰らなかったということだからだ。
「……自分で渡せよ」
剛は、小さく呟いた。
出発前に言った言葉だった。
今も、その気持ちは変わらない。
さとるには、生きて帰ってきてほしい。
自分の手で家族に会い、薫に手紙を渡してほしい。
そして、二人で交わした言葉を、笑いながら思い出してほしい。
剛は、空を見上げた。
どこまでも続く空の向こうに、さとるがいる。
今、何を考えているのだろう。
怖がっているだろうか。
薫を思っているだろうか。
帰りたいと願っているだろうか。
きっと、そうだ。
剛は、唇を噛んだ。
「帰ってこいよ、さとる」
今度は、はっきりと声に出した。
誰もいない場所に、その声が静かに落ちた。
***
海の上では、さとるが水平線を見つめていた。
基地では、剛が同じ空を見上げていた。
二人は、離れた場所にいた。
同じ景色を見ることも、言葉を交わすこともできない。
それでも、心の中には、同じ願いがあった。
生きていたい。
帰りたい。
もう一度、会いたい。
さとるは、薫の笑顔を思い浮かべた。
剛は、さとるの顔を思い浮かべた。
それぞれの場所で、それぞれの大切な人を思いながら。
時間だけが、静かに過ぎていく。
船は、沖縄へ向かって進んでいた。
さとるの願いを知ることもなく。
その先に何が待っているのかを、誰にも教えることなく。
さとるは、目を閉じた。
胸の中で、もう一度だけ呟いた。
――薫。
――俺は、生きたい。
その願いを抱いたまま。
彼は、帰る場所から遠ざかっていった。




