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君と見た最後の海 ~海に咲いた、二十歳の恋~ 二十歳の恋の行き先は、未来ではなく、二人で向かった最後の海だった。  作者: 雨宮ぐみ


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第三十七話 山口を離れる

第三十七話 山口を離れる


出発命令が下された。


その言葉を聞いてから。


さとるは、ずっと胸の奥が落ち着かなかった。


足は歩いている。


周囲の仲間たちも歩いている。


けれど。


頭の中だけが。


まだ、あの場所に残っているようだった。


――故郷の海。


――薫。


――家族。


――剛。


一つ一つの名前が。


胸の中を行ったり来たりしていた。


さとるは歩きながら。


隣を見た。


剛がいる。


いつもと同じように。


前を向いて歩いている。


けれど。


その顔は硬かった。


「剛」


「ん?」


「……大丈夫か?」


剛は少し黙った。


「大丈夫に見えるか?」


さとるは。


小さく首を振った。


「見えない」


「だろ?」


剛は苦笑した。


「俺も怖いんだよ」


その言葉に。


さとるは何も言えなかった。


剛が。


自分から「怖い」と言うのを聞くと。


胸の奥が少しだけ軽くなった。


「俺も怖い」


「知ってる」


「……分かる?」


「分かるよ」


剛は前を向いたまま言った。


「ずっと一緒に訓練してきたんだから」


さとるは。


少しだけ笑った。


「そうだな」


---


二人は歩き続けた。


しばらく。


誰も話さなかった。


その沈黙は。


嫌なものではなかった。


言葉を探さなくても。


隣にいるだけで分かることがあった。


さとるは。


ふと口を開いた。


「なあ、剛」


「ん?」


「もし……」


そこで言葉が止まった。


剛は急かさなかった。


「……何だ?」


「いや」


「言えよ」


さとるは。


しばらく迷った。


「もし俺が、帰れなかったら」


剛の足が。


ほんの少し止まった。


「……その話は」


「うん」


「まだするな」


剛の声は。


少し震えていた。


「俺も考えたくない」


さとるは。


黙った。


すると剛が続けた。


「でも」


「……」


「お前が帰れなかったら」


剛は前を見たまま。


ゆっくり言った。


「手紙はちゃんと渡す」


さとるの胸が痛くなった。


「薫にも」


「ああ」


「家族にも」


「ああ」


「絶対に」


剛は頷いた。


「分かった」


それから。


少し間を置いて。


「でもな」


「ん?」


「できれば、自分で渡せ」


さとるは。


剛を見た。


剛は笑っていなかった。


「お前が直接渡せ」


その言葉が。


胸に残った。


「……うん」


「薫にも」


「うん」


「家族にも」


「うん」


「だから」


剛は。


さとるの肩を軽く叩いた。


「帰ることだけ考えろ」


さとるは。


しばらく何も言えなかった。


そして。


「剛」


「ん?」


「お前もな」


剛は。


一瞬だけ目を伏せた。


「ああ」


---


歩きながら。


剛が突然言った。


「俺さ」


「ん?」


「昨日の夜、眠れなかった」


「……俺も」


「何回も起きた」


「俺も」


「朝になってほしくなかった」


さとるは。


剛を見る。


剛は笑った。


「情けないよな」


「情けなくない」


さとるはすぐに言った。


「俺だって同じだから」


「……そうか」


「怖いよ」


「うん」


「死ぬのも」


「うん」


「家に帰れないのも」


「うん」


「薫に二度と会えないのも」


剛は黙って聞いていた。


そして。


「俺は家族に会いたい」


と言った。


さとるは頷いた。


「うん」


「母さんの飯、もう一回食いたい」


「……うん」


「親父とも、もっと話したい」


「うん」


「妹がいるんだ」


「知ってる」


「もう少し大きくなったら、どんな顔になるのか見たかった」


剛の声が。


少しずつ小さくなる。


「だから……」


一度。


息を吸う。


「俺も帰りたい」


さとるは。


剛の肩に手を置いた。


「帰ろう」


剛が顔を上げた。


「……ああ」


「一緒に」


その言葉に。


剛はすぐには答えなかった。


しばらくして。


小さく頷いた。


「一緒に」


二人は。


また歩き出した。


---


港が近づいてきた。


海が見えてくる。


さとるは。


思わず足を緩めた。


そこから見える海は。


いつもの海だった。


けれど。


もう。


「いつもの海」ではなくなる。


剛も立ち止まった。


二人で。


黙って海を見た。


「……覚えてるか?」


剛が言った。


「何を?」


「初めてここへ来たとき」


さとるは。


少し考えて。


笑った。


「覚えてる」


「俺、ここで帰りたいって思った」


「早すぎるだろ」


「だって訓練きつかったからな」


二人とも。


ほんの少し笑った。


その笑い声は。


すぐに消えた。


でも。


その一瞬だけ。


二人は戦争の中にいる青年ではなく。


ただの二十歳の若者だった。


剛が言った。


「また、こうやって笑えたらいいな」


さとるは。


海を見たまま答えた。


「ああ」


「くだらない話して」


「ああ」


「飯食って」


「ああ」


「また海を見て」


「ああ」


剛は。


小さく息を吐いた。


「……生きて帰りたいな」


「うん」


さとるは。


はっきり答えた。


「俺も、生きて帰りたい」


---


二人は。


再び歩き始めた。


港へ向かう。


さとるの胸には。


まだ恐怖があった。


消えてはいない。


剛の胸にも。


きっと同じ恐怖がある。


それでも。


一人ではなかった。


怖いと言える相手がいる。


帰りたいと言える相手がいる。


黙って隣を歩いてくれる相手がいる。


それだけで。


ほんの少しだけ。


足を前へ出すことができた。


---


港に着く。


出発を待つ場所に。


仲間たちが集まっている。


さとるは。


最後にもう一度だけ。


故郷の海を見た。


その海の向こうに。


薫がいる。


家族がいる。


そして。


自分が帰りたい場所がある。


剛が隣に立った。


「さとる」


「ん?」


「行こう」


さとるは。


頷いた。


「うん」


二人は歩き出す。


しばらくして。


剛が小さく言った。


「なあ」


「ん?」


「またな」


さとるは。


その言葉を聞いて。


少しだけ笑った。


「……またな」


二人は。


前を向いた。


恐怖を抱えたまま。


それでも。


互いの存在を支えにして。


故郷の海を離れていった。

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