第三十六話 最後の港
第三十六話 最後の港
朝だった。
けれど。
基地の中には、朝らしい明るさがなかった。
空は薄く白んでいる。
海から冷たい風が吹いている。
いつもなら、この時間の海は静かだった。
朝の光を受けて、ゆっくりと波が揺れている。
さとるは、その海を見た。
今日も同じ海だった。
昨日も。
その前の日も。
何度も見てきた海。
薫と出会った海。
剛と並んで歩いた海。
訓練が終わったあと、疲れた身体で眺めた海。
何度も、
「いつか戦争が終わったら」
と考えた場所だった。
けれど。
今日は。
その海を見るだけで、胸が苦しくなった。
――今日、ここを離れる。
そう思うだけで。
息が浅くなった。
さとるは、自分の手を見た。
指先が震えている。
両手を握る。
強く。
それでも止まらない。
「……」
隣に剛が立った。
しばらく何も言わない。
剛も、海を見ていた。
「……さとる」
「ん?」
「寒いな」
「……ああ」
それだけ。
二人とも。
本当は寒さのことを話しているのではないと分かっていた。
---
やがて。
出発する者たちが集められ始めた。
一人。
また一人。
静かに列ができていく。
誰も大きな声を出さない。
話している者もいない。
ただ。
靴音だけがする。
一歩。
一歩。
その音が。
やけに大きく聞こえた。
さとるは列に並んだ。
前を見る。
後ろを見る。
知っている顔がある。
昨日まで一緒に訓練していた仲間。
疲れたときに笑い合った仲間。
くだらない話をした仲間。
その誰も。
今日は笑っていない。
さとるは喉を鳴らした。
乾いていた。
水を飲みたい。
そう思った。
けれど。
身体を動かすことさえためらわれた。
今。
動けば。
何かが始まってしまう。
そんな気がした。
---
「集合!」
声が響いた。
全員が一斉に姿勢を正した。
さとるの背筋が伸びる。
心臓が跳ねた。
どくん。
一度。
また一度。
その音が耳の内側に響く。
前方から。
教官が歩いてくる。
ゆっくり。
一定の歩幅で。
靴音が近づいてくる。
一歩。
また一歩。
さとるは目を逸らさなかった。
教官の手には。
一枚の書類があった。
その紙が。
風でわずかに揺れている。
かさ。
かさ。
紙の音。
それだけだった。
誰も話さない。
誰も動かない。
---
教官が。
列の前に立った。
そして。
何も言わなかった。
数秒。
沈黙が続く。
さとるは。
その数秒が長いと思った。
けれど。
まだ始まらなかった。
さらに。
数秒。
教官は書類を見ている。
さとるの喉が乾く。
唾を飲み込む。
ごくり。
その音が。
自分にだけ聞こえた気がした。
隣を見ることはできない。
けれど。
剛が立っている。
分かる。
ほんの少しだけ。
剛の呼吸が速くなっている。
さとる自身も。
息が浅くなっていた。
吸う。
吐く。
吸う。
吐く。
それだけのことが。
難しい。
---
教官が。
書類を持ち直した。
紙が擦れる。
かさっ。
さとるの肩がわずかに動いた。
名前が来る。
そう思った。
しかし。
教官はまだ何も言わなかった。
また沈黙。
時間だけが過ぎていく。
誰も動かない。
海の音だけが聞こえる。
ざあ……。
ざあ……。
波の音。
風の音。
そして。
誰かが息を吸う音。
そのすべてが。
異様なほど鮮明だった。
さとるは思った。
――早く言ってくれ。
そう思った直後。
――言わないでくれ。
とも思った。
始まってほしい。
でも。
始まってほしくない。
早く終わってほしい。
でも。
終わってしまったら。
本当に出発する。
矛盾した気持ちが。
胸の中でぶつかっていた。
---
剛の手が。
わずかに動いた。
拳を握ったのだろう。
さとるにも分かった。
さとる自身も。
同じように拳を握った。
爪が掌に食い込む。
痛い。
けれど。
その痛みがありがたかった。
まだ。
自分がここにいると分かる。
まだ。
身体がある。
まだ。
海の音が聞こえる。
まだ。
剛が隣にいる。
まだ。
薫の顔を思い出せる。
そう思った。
---
教官が。
一度だけ顔を上げた。
全員を見る。
さとるは。
息を止めた。
視線がこちらへ来る。
心臓が跳ねる。
次だ。
そう思った。
けれど。
教官は。
また書類へ目を落とした。
沈黙。
長い。
あまりにも長い。
さとるの額に。
薄く汗が浮かんだ。
朝の冷たい風が吹いているのに。
身体は熱かった。
手のひらも。
汗で濡れていた。
――怖い。
その言葉さえ。
今は頭の中で声にならない。
ただ。
待つ。
名前が呼ばれるのを。
---
そして。
教官が。
ゆっくりと口を開いた。
「――」
しかし。
言葉が続かない。
ほんの一瞬。
また止まった。
その瞬間。
さとるは思った。
この一秒が。
永遠だったらいい。
名前が呼ばれなければ。
このまま時間が止まれば。
薫のところへ戻れる。
剛と話せる。
海を見ていられる。
そう思った。
でも。
時間は止まらない。
教官が。
書類の端を指で押さえた。
紙が動く。
そして。
ようやく。
声が響いた。
「――これより、出発命令を伝える」
その瞬間。
さとるの胸が。
強く締めつけられた。
周囲から。
小さく息を呑む音がした。
誰も。
顔を上げない。
誰も。
話さない。
ただ。
その言葉だけが。
静かな朝の中に残った。
---
「出発者は、名前を呼ばれたら前へ出ろ」
「はい!」
返事が重なる。
さとるの声も。
その中にあった。
けれど。
声は震えていた。
教官が書類を見る。
一度。
また一度。
そして。
紙をめくる。
かさ。
その音だけで。
さとるの心臓が跳ねた。
「山本一郎」
「はい!」
一人。
前へ出る。
「田中清二」
「はい!」
また一人。
「中村浩」
「はい!」
名前が呼ばれる。
そのたびに。
さとるの胸は苦しくなる。
そして。
やがて。
教官が。
顔を上げた。
「――さとる」
時間が止まった。
一瞬。
何も聞こえなくなった。
「……」
返事をしなければ。
分かっている。
でも。
声が出ない。
教官がもう一度呼ぶ。
「さとる」
喉が震えた。
「……はい」
ようやく。
声が出た。
一歩。
前へ出る。
足が重い。
二歩目。
膝が震える。
それでも。
歩く。
その瞬間。
後ろから剛の声が聞こえた。
「さとる」
振り返らない。
「怖くていいからな」
さとるの胸が熱くなった。
「……ああ」
少し間を置いて。
「剛もな」
剛は答えなかった。
ただ。
小さく頷いた。
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命令が続いていく。
出発する者たちが。
一人ずつ前へ出ていく。
さとるは。
その列の中に立っていた。
足元を見る。
震えている。
自分の足なのに。
自分のものではないように感じた。
教官の言葉が続く。
「出発準備に入る」
その言葉を聞いた瞬間。
さとるは目を閉じそうになった。
――本当に行くんだ。
頭の中に。
薫の顔が浮かぶ。
「また明日」
昨日。
最後に交わした言葉。
約束ではない。
それでも。
さとるは。
もう一度その言葉を聞きたかった。
もう一度。
薫に会いたかった。
---
出発の時刻が告げられる。
「――出発する」
その声を聞いた瞬間。
身体が震えた。
逃げたい。
帰りたい。
薫のところへ行きたい。
それでも。
足は前へ向いた。
一歩。
また一歩。
そして。
その先には。
故郷の海があった。
さとるは。
最後に一度だけ海を見た。
静かだった。
あまりにも静かだった。
まるで。
何も起こっていないかのように。
それが。
かえって怖かった。




