第三十五話 出発の朝
第三十五話 出発の朝
夜が明ける少し前。
さとるは目を覚ました。
ほとんど眠っていなかった。
目を閉じるたび、薫の顔が浮かんだ。
高台で泣いていた薫。
自分の手を握った薫。
そして、
「私も一緒に行く」
と言った薫。
さとるは暗い天井を見つめた。
今日。
出発する。
昨日まで「明日」と呼んでいた日が、もう来てしまった。
布団から起き上がろうとした。
そのときだった。
足が動かなかった。
ほんの一瞬。
身体が、行くことを拒んだ。
さとるは自分の手を見た。
指先が震えている。
両手を強く握る。
それでも震えは止まらなかった。
「……怖い」
誰にも聞こえない声だった。
---
宿舎の中には、いつもとは違う静けさがあった。
誰も大声で話さない。
笑い声もない。
荷物を確認する音だけが聞こえている。
さとるは荷物を開いた。
確認する。
一度。
二度。
三度。
何度見ても、不安が消えない。
そのとき。
隣から剛の声がした。
「また見てるぞ」
さとるは顔を上げた。
「……分かってる」
「さっきも見てた」
「分かってるって」
剛は少しだけ笑った。
けれど、その笑顔はすぐに消えた。
「俺もさっきから三回見た」
さとるが剛を見る。
剛は荷物に目を落とした。
「何か忘れてる気がしてな」
「忘れてるんじゃない」
「……じゃあ何だ?」
さとるは少し黙った。
「帰れなくなるかもしれないから、何回見ても安心できないんだと思う」
剛は答えなかった。
しばらくして。
「……そうだな」
小さく言った。
二人とも、それ以上は話さなかった。
言葉にしなくても分かっていた。
怖いのだ。
二人とも。
---
突然。
外から声が響いた。
「――集合!」
さとるの身体が跳ねた。
周囲の者たちが一斉に動き始める。
さとるも立ち上がろうとした。
だが。
足が動かなかった。
まただ。
身体が固まっている。
その瞬間。
剛の手が、さとるの肩に触れた。
「さとる」
「……」
「行こう」
それだけだった。
強く引っ張るわけでもない。
命令するわけでもない。
ただ。
そこにいることを伝えるような手だった。
さとるは一度息を吸った。
「……ああ」
二人で外へ出た。
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全員が並んだ。
朝の海から冷たい風が吹いている。
さとるは前を向いた。
教官が前に立っている。
その手には書類があった。
紙が風に揺れている。
かさり。
かさり。
その音がやけに大きく聞こえた。
「これより――」
全員の背筋が伸びた。
「出発命令を伝える」
その言葉が響いた瞬間。
さとるは息を止めた。
隣にいる剛の肩も、ほんのわずかに動いた。
誰も話さない。
海の音だけが聞こえる。
教官が書類をめくる。
紙の音。
そのたびに心臓が速くなる。
さとるは拳を握った。
爪が掌に食い込む。
剛も拳を握っている。
それが見えた。
その瞬間。
さとるは思った。
――剛も怖いんだ。
当たり前のことなのに。
今まで、どこかで忘れていた。
自分だけが怖いのではない。
隣にいる剛も。
前にいる仲間も。
みんな怖い。
それでも。
誰も逃げずに立っている。
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出発者の名前が読み上げられていく。
一人。
また一人。
呼ばれた者が前へ出る。
そのたびに。
残された者たちの肩がわずかに動く。
さとるは前を見たまま。
指先を握りしめていた。
昨日までなら。
「自分じゃない」
そう思っていた。
今日は違う。
自分の名前は。
もう呼ばれている。
今日。
自分はここを出る。
教官が一度、紙から顔を上げた。
沈黙。
その数秒が。
永遠のように長く感じられた。
そして。
「さとる」
名前が呼ばれた。
胸の奥が大きく跳ねた。
「……はい」
声が震えた。
前へ出る。
一歩。
足が重い。
二歩目。
膝が震える。
そのとき。
後ろから剛の声がした。
「さとる」
振り返らない。
けれど。
聞こえた。
「行ってこい」
短い言葉だった。
さとるの喉が詰まった。
「……ああ」
少し間を置いて。
「剛もな」
剛は何も言わなかった。
ただ。
小さく頷いた。
その目は赤かった。
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集合が終わった。
出発準備の時間に入る。
さとると剛は、人の少ない場所に移動した。
二人とも。
しばらく黙っていた。
剛が口を開く。
「俺さ」
「ん?」
「さっき、お前の名前が呼ばれたとき」
剛は一度言葉を止めた。
「……怖かった」
さとるは何も言わずに聞いた。
「お前が前に出ていくのを見たら……」
剛は俯いた。
「もう、本当に行くんだって思った」
さとるの胸が痛くなる。
「俺も怖い」
「分かってる」
「昨日からずっと」
「俺もだ」
二人は顔を見合わせた。
そして。
ほんの少しだけ笑った。
笑える状況ではない。
それでも。
その一瞬だけ。
昔の二人に戻ったような気がした。
訓練で失敗して。
教官に怒鳴られて。
疲れて。
くだらない話をして。
それでも一緒に飯を食った。
そんな普通の日々が。
急に遠くなった。
剛が言った。
「なあ、さとる」
「ん?」
「怖いままでいいんじゃないか」
さとるは黙った。
「怖いって思ったままでも……行けるだろ」
「……ああ」
「俺は、怖い」
剛ははっきり言った。
「死にたくない」
さとるも答えた。
「俺も」
「帰りたい」
「俺も」
「家に」
「……俺は、薫のところに」
剛は少しだけ笑った。
「そうだな」
そして。
「帰りたいって思ってるほうが、俺たちらしい」
さとるは目を伏せた。
「剛」
「ん?」
「手紙……頼んだ」
「分かってる」
「家族のと、薫の」
「ちゃんと渡す」
「もし俺が……」
そこまで言ったとき。
剛が遮った。
「言うな」
さとるが顔を上げる。
「まだ、そこまで言うな」
剛の声は震えていた。
「自分で渡せ」
その言葉に。
さとるの目が熱くなった。
「……ああ」
「自分で渡せ」
「……分かった」
剛はさとるの肩を軽く叩いた。
今度は。
さっきより少し強く。
「行ってこい」
「……ああ」
さとるも剛の肩を叩いた。
「剛もな」
二人はそれ以上、何も言わなかった。
それで十分だった。
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やがて。
再び集合の声が響いた。
「集合!」
二人は同時に前を向いた。
さとるは歩き出す。
けれど。
その前に。
剛が小さく言った。
「さとる」
「ん?」
「またな」
さとるの足が止まった。
その言葉は。
「帰ってこい」という命令でも。
「必ず生きろ」という約束でもなかった。
ただ。
二人が今まで何度も交わしてきた。
普通の言葉だった。
だからこそ。
胸に刺さった。
さとるは振り返った。
「……またな」
二人は頷いた。
そして。
それぞれの場所へ歩き出した。
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高台へ向かった。
海が見える。
そこに薫がいた。
「さとる……」
薫の顔を見た瞬間。
張りつめていたものが崩れた。
「今日なんだね」
「ああ」
「本当に……今日なんだ」
「うん」
薫の目に涙が浮かぶ。
さとるも。
もう隠せなかった。
「怖い」
薫は何も言わず。
さとるの手を握った。
「私も怖い」
二人は海を見た。
「……行かなきゃ」
「うん」
さとるは薫を抱きしめた。
薫も強く抱き返した。
「もっと一緒にいたかった」
「私も」
「もっと普通に暮らしたかった」
「うん」
「……生きたかった」
薫の肩が震える。
「私も……」
二人は泣いた。
しばらく。
何も言えなかった。
ただ。
抱き合っていた。
遠くから。
また集合を知らせる声が響いた。
さとるは目を閉じた。
そして。
ゆっくり薫から離れた。
「……また明日」
薫が涙を拭いながら頷く。
「また明日」
それは約束ではなかった。
未来を保証する言葉でもなかった。
ただ。
二人が最後まで手放したくなかった。
小さな願いだった。
さとるは歩き出した。
振り返らないようにした。
けれど。
数歩進んだところで。
一度だけ振り返った。
薫が立っている。
海を背にして。
泣きながら。
こちらを見ている。
さとるは。
小さく頭を下げた。
そして。
前を向いた。
足は震えていた。
心臓は痛いほど鳴っていた。
怖い。
逃げたい。
帰りたい。
それでも。
歩く。
その先には。
出発を待つ場所がある。
故郷の海を離れる時が。
とうとう来たのだった。




