第三十四話 薫への手紙
第三十四話 薫への手紙
夜は、深く静かになっていた。
宿舎の中には、まだ眠れずにいる者たちの気配があった。
小さな物音。
誰かが荷物を動かす音。
廊下を歩く足音。
そして。
すぐに静かになる。
明日の出発を前に。
誰もが眠れない夜を過ごしていた。
さとるは机の前に座っていた。
目の前には。
昨日書き終えた両親への手紙。
そして。
その隣には。
一枚の白い紙が置かれている。
薫への手紙を書くための紙だった。
さとるは筆記具を手に取った。
けれど。
なかなか書き始められなかった。
家族への手紙とは違う。
父と母には。
育ててもらった感謝を書いた。
故郷への思いを書いた。
幼い頃の記憶を書いた。
けれど。
薫には。
何を書けばいいのだろう。
「……薫」
名前を口にする。
それだけで。
胸が苦しくなる。
昨日。
高台で泣いていた薫。
「私も一緒に行く」
そう言った薫。
自分は拒んだ。
けれど。
薫は引かなかった。
「私が、さとるのところへ行く」
その言葉が。
今も耳に残っている。
さとるは白い紙を見つめた。
そして。
ゆっくりと書き始めた。
『薫へ』
たった三文字。
それだけなのに。
手が震えた。
しばらく筆を止めたあと。
続きを書く。
『薫へ。
今、この手紙を書いています。
明日、俺はここを出ます。
昨日、薫が一緒に行くと言ってくれたことを、ずっと考えていました。』
さとるは一度筆を置いた。
薫の顔が浮かぶ。
泣きながら。
それでも自分を見つめていた顔。
再び筆を取る。
『俺は、薫を連れて行きたくありません。
薫には、生きてほしい。
それは今も変わりません。
俺が帰れなくなったとしても、薫には生きていてほしいと思っています。』
そこまで書いて。
さとるは苦しそうに目を閉じた。
けれど。
本当の気持ちを書かなければ。
この手紙を残す意味がない。
『でも。
本当のことを言うと。
俺も怖いです。』
筆がゆっくり進む。
『明日が怖い。
死ぬことが怖い。
帰れなくなることが怖い。
でも。
一番怖いのは、薫に二度と会えなくなることです。』
さとるの目に涙が浮かんだ。
それでも書き続ける。
『薫と出会う前は。
戦争が終わることも。
自分がどうなることも。
ただ遠いことのように考えていました。
でも。
薫と出会ってから。
俺には未来が見えるようになりました。』
そこから先は。
二人の思い出だった。
『高台で初めて話したこと。
海を見ながら話したこと。
誰にも知られないように会ったこと。
くだらない話をして笑ったこと。
戦争のことを忘れて、普通の二十歳に戻れた時間。
全部、俺には大切な思い出です。』
さとるの筆が止まる。
しばらくして。
もう一度。
紙の上を走らせた。
『薫。
俺は、薫が好きです。』
その一文を書いた瞬間。
涙が落ちた。
紙の上に小さな染みができる。
さとるは手で拭った。
『もっと早く出会えていたらよかった。
もっと長く一緒にいたかった。
戦争なんてなければよかった。
そう何度も思いました。』
そして。
二人が話していた未来を書く。
『海の近くで暮らしたかった。
朝になったら、一緒に起きて。
同じ食卓でご飯を食べて。
それぞれ仕事をして。
夕方になったら、同じ家に帰って。
「ただいま」と言って。
「おかえり」と言ってもらう。
そんな毎日を、薫と過ごしたかった。』
さとるは。
そこで長く筆を止めた。
その未来は。
もう。
手の届かないものになってしまった。
それでも。
書かずにはいられなかった。
『俺は、そんな普通の人生が欲しかった。
そして。
その隣に薫がいてほしかった。』
さとるは涙を拭いた。
続けて書く。
『もし俺が帰れなかったら。
この手紙を読んでください。
俺は、薫と出会えて幸せでした。
短い時間だったけれど。
薫と過ごした時間があったから。
俺は、自分が本当に生きたいと思うことができました。』
そして。
最後に。
一番大切な言葉を書く。
『薫。
俺は生きたい。
薫と生きたい。
本当は、明日なんて来てほしくない。
ずっと、この町にいたい。
薫と海を見ていたい。』
さとるの手が震える。
『それでも。
明日は来ます。
だから。
今は、ただ一つだけ願います。
もう一度、薫と海を見られますように。』
最後の一行。
さとるはしばらく考えた。
そして。
ゆっくり書いた。
『また明日。
さとる』
筆を置く。
長い沈黙。
さとるは。
書き終えた手紙を両手で持った。
胸に押し当てる。
「……薫」
小さく名前を呼ぶ。
まるで。
目の前に薫がいるようだった。
---
しばらくして。
さとるは立ち上がった。
剛のところへ向かう。
剛はまだ起きていた。
「書いたか?」
「ああ」
さとるは二通の手紙を取り出した。
一通は。
両親へ。
もう一通は。
薫へ。
剛は黙って受け取った。
「これが家族」
「ああ」
「こっちが薫」
「うん」
剛は二通を見つめた。
「……大切な手紙だな」
「頼む」
さとるは言った。
「もし俺が戻れなかったら」
少し声が震えた。
「家族に渡してほしい」
剛は頷く。
「分かった」
「薫にも」
「分かった」
「直接渡せるなら、それが一番だけど」
さとるは一瞬だけ笑った。
「もし無理だったら……頼む」
剛は手紙を胸元にしまった。
「任せろ」
それから。
剛はさとるを見た。
「でも」
「ん?」
「できれば、自分で渡せ」
さとるは黙った。
そして。
小さく頷いた。
「ああ」
その言葉には。
二人とも。
同じ願いを込めていた。
――帰ってこい。
けれど。
それを口にはしなかった。
約束できないから。
---
部屋へ戻る。
さとるは。
明日の支度を始めた。
荷物を一つずつ確認する。
衣類。
身の回りの物。
必要なもの。
何度も確認した。
一度確認して。
もう一度見る。
さらに。
もう一度。
剛がそれを見ていた。
「さとる」
「ん?」
「さっきから三回見てるぞ」
「……そうか?」
「三回だ」
さとるは少し笑った。
「明日だからな」
「ああ」
「忘れ物をしたくない」
「分かる」
荷物を整える。
一つずつ。
丁寧に。
まるで。
この作業を終えたら。
本当に明日が来てしまうようだった。
さとるは最後に。
自分の手を見た。
少し震えていた。
その手を。
強く握る。
「……明日か」
剛が答える。
「ああ」
二人は。
それ以上話さなかった。
---
夜が更ける。
荷物の準備は終わった。
さとるは布団に入った。
けれど。
眠れない。
目を閉じると。
薫の顔が浮かぶ。
高台。
海。
涙。
そして。
「また明日」
という言葉。
明日は。
出発の日。
その先に。
どんな未来が待っているのか。
誰にも分からない。
さとるは。
目を閉じたまま。
小さく呟いた。
「……薫」
返事はない。
それでも。
もう一度。
「また明日」
そう言った。
その言葉を胸に。
さとるは。
静かな夜を迎えた。




