第三十三話 出発前の夜
第三十三話 出発前の夜
高台を離れる頃には、空はすっかり暗くなっていた。
さとるは一人で基地へ戻る道を歩いていた。
足取りは重かった。
薫と別れてから、ずっと頭の中に同じ言葉が残っている。
――私も一緒に行く。
さとるは何度も首を横に振った。
「……駄目だ」
誰に言うでもなく呟く。
薫を連れて行きたくない。
薫には生きてほしい。
それだけは、何があっても変わらなかった。
けれど。
薫の言葉も、消えなかった。
――私が、さとるのところへ行く。
自分だけが残されること。
何も分からないまま待ち続けること。
それが薫にとって、どれほど苦しいことなのか。
さとるは初めて知った。
やがて。
基地の明かりが見えてきた。
さとるは一度立ち止まり、深く息を吸った。
そして。
宿舎へ戻った。
---
宿舎へ戻ると。
剛がいた。
「遅かったな」
「ああ」
剛は、さとるの顔を見た。
「薫と話してきたんだろ?」
さとるは頷いた。
「うん」
「……どうだった?」
さとるはすぐには答えなかった。
やがて。
小さな声で言った。
「薫が……一緒に行くって」
剛の表情が変わった。
「一緒に?」
「ああ」
「どうして?」
「俺を一人で行かせたくないって」
剛は黙った。
「俺は駄目だって言った」
「そうだろうな」
「薫には生きてほしいから」
「……うん」
「でも……薫も怖いんだ」
さとるは椅子に腰を下ろした。
「俺がいなくなったあと、何も分からないまま待つのが怖いって」
剛はしばらく何も言わなかった。
やがて。
「薫らしいな」
そう呟いた。
さとるは苦笑した。
「俺だって怖い」
「知ってる」
「死にたくない」
「俺もだよ」
二人の間に。
静かな時間が流れた。
明日は出発。
それだけは。
変えられない。
---
食事の時間になった。
二人は食堂へ向かった。
いつもと同じような食事だった。
けれど。
さとるには。
何もかもが違って見えた。
箸を持つ。
ご飯を口に運ぶ。
味噌汁を飲む。
魚を少し食べる。
どれも。
これまで何度も繰り返してきたことだった。
それなのに。
今日は。
一つ一つが妙に鮮明だった。
「……うまいな」
さとるが呟いた。
剛が顔を上げる。
「何だ、急に」
「いや……」
さとるは味噌汁を見つめた。
「こういう飯も、明日から食べられないかもしれないと思ったら」
そこまで言って。
口を閉じた。
剛も何も言わなかった。
二人とも。
同じことを考えていた。
いつもの食事。
いつもの宿舎。
いつもの海。
いつもの仲間。
それが。
明日からは「いつものもの」ではなくなる。
食事を終え。
二人は宿舎へ戻った。
---
部屋へ戻ると。
さとるは机の前に座った。
しばらく何もせず。
紙を見つめていた。
剛が気づく。
「どうした?」
「……手紙を書こうと思う」
剛は黙って頷いた。
「家族に?」
「ああ」
少し間を置いて。
「それと……薫にも」
剛の表情が変わった。
「二通か」
「うん」
さとるは紙を二枚取り出した。
「もし俺が帰れなかったら」
言葉が詰まった。
それでも。
続ける。
「預かってほしい」
剛はさとるを見た。
「分かった」
「家族への手紙は、父さんと母さんに」
「うん」
「薫への手紙は……薫に渡してほしい」
「分かった」
剛は静かに答えた。
「預かる」
その言葉を聞いて。
さとるは小さく頷いた。
けれど。
まだ手紙は書いていない。
これから。
自分の言葉で書かなければならない。
さとるは二枚の紙を机の上に置いた。
そして。
まず一枚を手に取った。
「先に……家族に書く」
剛は何も言わず。
少し離れた場所に座った。
---
さとるは紙の上に。
ゆっくりと文字を書いた。
『父さん、母さんへ』
そこまで書いて。
筆が止まる。
家族への手紙を書くのは。
初めてではない。
これまでにも何度も書いてきた。
元気でいること。
訓練をしていること。
心配しなくていいこと。
そんなことを書いてきた。
けれど。
今夜は違う。
明日。
自分は出発する。
帰ってこられるかどうかは。
分からない。
さとるはしばらく紙を見つめ。
ゆっくりと書き始めた。
『父さん、母さんへ。
明日、出発します。
こうして改めて手紙を書くと、家を出てきた日のことを思い出します。』
筆を進める。
『母さん。
家を出る朝、何度も「身体に気をつけなさい」と言っていたね。
荷物を何度も確かめて。
忘れ物がないか聞いて。
最後まで僕の服を直してくれていました。
あのときは、もう子どもじゃないんだからと思っていました。
でも今になって。
あれが母さんなりの心配だったんだと分かります。』
さとるは少し笑った。
母の顔が浮かんだ。
朝早く起こされること。
食事を残すと注意されたこと。
風邪をひけば心配され。
帰りが遅くなれば玄関で待っていたこと。
特別な出来事ではない。
けれど。
今は、その一つ一つが恋しかった。
『母さん。
今まで、何度も心配をかけてごめんなさい。
手紙を書くたびに、元気だと書きました。
本当は。
怖いと思うこともあります。
帰りたいと思うこともあります。
でも。
母さんには心配をかけたくありませんでした。』
さとるは一度筆を置いた。
涙を拭う。
そして。
父への言葉を書く。
『父さん。
父さんは、あまり多くを話す人ではなかったね。
子どもの頃は、それが少し寂しいと思ったこともありました。
もっと話してほしいと思ったこともあります。
でも。
今になって思います。
父さんは、言葉よりも行動でいろいろなことを教えてくれていたんだと思います。』
幼い頃の記憶が浮かぶ。
父の後ろを歩いたこと。
海へ連れて行ってもらったこと。
何かを教えてもらうとき。
父は長々と説明することはなかった。
ただ。
自分でやってみせてくれた。
『海を見ると、父さんと一緒にいた日のことを思い出します。
あの頃は、ただ父さんについて行っていただけでした。
でも。
今は、海を見ると故郷を思います。
家を思います。
父さんと母さんを思います。』
筆が止まる。
さとるは。
しばらく何も書けなかった。
そして。
二人への言葉を続けた。
『父さん。
母さん。
僕は、もっと家にいたかったです。
もっと二人と話したかった。
もっと一緒にご飯を食べたかった。
もっと普通に、家族として過ごしたかった。』
涙が紙に落ちる。
『もし帰れなかったら。
今まで育ててくれて、本当にありがとう。
僕は、父さんと母さんの子どもでよかったです。
家で過ごした時間は、僕にとって一番大切な思い出です。』
最後の言葉を書く。
『どうか、元気でいてください。
僕のことを忘れなくてもいいです。
時々、思い出してくれたら、それだけで十分です。
母さん。
今まで心配してくれて、ありがとう。
父さん。
今まで黙って見守ってくれて、ありがとう。
二人の子どもとして生まれてよかった。
ありがとう。
さようなら。』
さとるは筆を置いた。
静かな部屋だった。
しばらく。
手紙を見つめる。
そして。
ゆっくりと紙を折った。
家族への手紙。
それは。
「最後の手紙」というより。
今まで言えなかった感謝を。
父と母、それぞれに伝えるための手紙だった。
薫のことは。
まだ書かなかった。
薫への言葉は。
もっと違うものになる。
好きだということ。
生きたいということ。
一緒に未来を見たかったこと。
それは。
家族には書けない。
明日。
もう一枚の白い紙に。
自分の心をすべて書かなければならない。
さとるは机の上に。
折りたたんだ家族への手紙を置いた。
隣には。
まだ何も書かれていない白い紙がある。
その白い紙を見つめながら。
さとるは小さく息を吐いた。
「……薫には、何を書けばいいんだろう」
答えは。
まだ出なかった。
けれど。
明日までには。
書かなければならない。
出発の朝は。
もうすぐそこまで来ていた。




