第三十二話 私も一緒に行く
第三十二話 私も一緒に行く
朝。
さとるは目を覚ました。
眠ったという感覚がなかった。
夜中に何度も目を覚まし、そのたびに暗い天井を見つめていた。
目を閉じると。
明日のことが浮かんだ。
――出発。
――沖縄。
――帰ってこられないかもしれない。
さとるは布団の中で、両手を握った。
指先が震えている。
強く握っても。
震えは止まらなかった。
「……明日か」
小さく呟いた。
今日が終われば。
残りは一日。
明日になれば。
自分はこの場所を離れる。
薫がいる町とも。
この海とも。
家族のいる故郷とも。
すべてから。
離れていく。
そう考えるだけで。
胸が締めつけられた。
---
朝食の時間。
さとるは箸を持った。
けれど。
なかなか口へ運べなかった。
剛が向かいから見ている。
「食わないのか?」
「食べる」
さとるは一口食べた。
けれど。
味が分からない。
それでも。
身体を動かすために。
少しずつ食べた。
「今日で最後なんだな」
剛が言った。
さとるの箸が止まった。
「……ああ」
二人とも。
それ以上は話さなかった。
---
訓練場に集合する。
「本日が最後の訓練となる」
教官の声が響いた。
その言葉に。
さとるは息を止めた。
最後。
昨日まで何度も聞いていた言葉なのに。
今日は違った。
本当に。
最後だった。
「始め!」
訓練が始まる。
さとるは動いた。
走る。
止まる。
確認する。
次の動作へ移る。
だが。
頭の中には。
明日のことが浮かんでくる。
薫。
海。
故郷。
そして。
「……沖縄」
思わず小さく呟いていた。
その瞬間。
動きが止まった。
「止まるな!」
教官の声が飛んだ。
「はい!」
慌てて動く。
けれど。
次の動作でも遅れた。
「もう一度!」
「はい!」
さとるは歯を食いしばった。
怖かった。
身体が。
その恐怖を隠せなくなっていた。
---
訓練が終わった。
さとるは汗を拭きながら。
何度も自分の手を見た。
震えている。
剛が隣に来た。
「今日で最後だな」
「ああ」
「明日……行くんだな」
「うん」
剛はしばらく黙っていた。
「薫に会いに行くんだろ?」
さとるは頷いた。
「今日だけは、ちゃんと一緒にいろよ」
「……分かってる」
---
夕方。
さとるは高台へ向かった。
薫は。
いつもの場所にいた。
海を見ている。
さとるの足音に気づくと。
振り返った。
「さとる」
「ああ」
二人は並んで海を見た。
しばらく。
何も話さなかった。
今日の海は。
静かだった。
それが。
かえって悲しかった。
「今日が最後の訓練だった」
さとるが言った。
薫は頷く。
「明日?」
「ああ」
「明日、出発するんだね」
「うん」
薫は。
海を見つめた。
その横顔を。
さとるは見ていた。
やがて。
薫が口を開いた。
「……私も行く」
さとるは。
一瞬、意味が分からなかった。
「何?」
「私も一緒に行く」
「駄目だ」
返事は。
すぐだった。
「薫は行けない」
「どうして?」
「危険だから」
「分かってる」
「分かってるなら……」
「分かってるよ」
薫は。
さとるを見た。
「死ぬかもしれないんでしょ?」
さとるは。
言葉を失った。
「帰ってこられないかもしれない」
薫の声は震えていた。
「それも分かってる」
「だったら……」
「だからだよ」
薫の目に。
涙が浮かんだ。
「だから、一緒に行きたいの」
さとるは首を横に振った。
「そんな理由で来ちゃ駄目だ」
「そんな理由じゃない」
薫は。
涙を拭った。
「さとるがいなくなったあと、私はここで待っていればいいの?」
「……」
「毎日、海を見ながら」
薫の声が震える。
「今日かなって」
「明日かなって」
「帰ってくるかもしれないって思いながら……ずっと待つの?」
さとるは答えられなかった。
「もし帰ってこなかったら?」
薫の頬を涙が流れる。
「私は、どうすればいいの?」
「……薫」
「さとるがどこで最後を迎えたのかも分からない」
「……」
「何を思っていたのかも分からない」
「……」
「一人で怖かったのかもしれない」
薫は。
胸の前で手を握った。
「それを何も知らないまま、ここで生きていくなんて……私にはできない」
さとるの目から。
涙が落ちた。
「だからって……」
「私は、さとると死にたいって言ってるんじゃない」
薫の言葉に。
さとるは顔を上げた。
「私は……最後まで、さとるのそばにいたいの」
「……」
「本当は、生きたい」
薫は泣きながら言った。
「私だって、生きたいよ」
「だったら……」
「でも」
薫は一歩近づいた。
「さとると一緒に生きる未来がなくなるかもしれないのに」
声が震える。
「さとるだけを、その未来のない場所へ一人で行かせるなんて……できない」
さとるは。
何も言えなかった。
薫は続けた。
「私たち、ずっと普通の話をしてきたよね」
「……うん」
「海の近くに住みたいとか」
「うん」
「朝ご飯を一緒に食べたいとか」
「うん」
「夕方になったら、同じ家に帰りたいとか」
薫は涙を拭った。
「私は、それが全部嘘だったとは思いたくない」
さとるの胸が痛んだ。
「だから……」
薫は。
さとるの手を取った。
「最後まで、あなたのそばにいたい」
「薫……」
「それが私の決めたこと」
さとるは強く首を横に振った。
「駄目だ」
「どうして?」
「俺は薫に生きてほしい」
「私も、さとるに生きてほしい」
「だからこそ……」
「だからこそ、一人にしたくない」
二人の間に。
長い沈黙が落ちた。
海の音だけが聞こえる。
さとるは。
薫の手を握った。
温かかった。
「俺は……薫を連れていくのが怖い」
「私も怖い」
「もし……」
さとるは言葉を詰まらせた。
「もし俺が帰れなかったら」
「……うん」
「薫まで巻き込んだことを、俺は一生後悔する」
薫は涙を流しながら。
首を横に振った。
「私が決めることだよ」
「……」
「さとるが私を連れていくんじゃない」
薫は。
握った手に力を込めた。
「私が、さとるのところへ行くの」
その言葉に。
さとるは何も返せなかった。
薫の決意が。
初めて。
ただの感情ではないことが分かった。
怖い。
それでも。
離れたくない。
待つことも。
何も知らないまま残されることも。
受け入れられない。
そして。
二人で語った未来を。
最後まで自分の心から捨てたくない。
それが。
薫が一緒に行こうとする理由だった。
「……それでも」
さとるは言った。
「俺は薫に生きてほしい」
「私も生きたい」
「……」
「だから」
薫は。
涙を拭いて。
さとるを見つめた。
「最後まで、あなたと一緒にいたい」
さとるは。
薫を抱きしめた。
薫も。
強く抱き返した。
二人とも。
泣いていた。
明日。
さとるは出発する。
そして。
その明日を前に。
薫は一つの決意をしていた。
――一人で行かせない。
それだけだった。
---
日が沈む。
二人は抱き合ったまま。
しばらく動かなかった。
やがて。
薫が小さく言った。
「また明日」
さとるは。
涙を拭いながら頷いた。
「……また明日」
その言葉は。
いつもの「また明日」とは違っていた。
明日は。
出発の日。
そして。
二人の運命が。
大きく変わる日だった。




