盤面外のチェックメイト 〜世界の圧力を刺す弾丸〜
潮風が吹き荒れる第十三廃棄区画。
巨大な防爆ゲートの前に単騎で降り立った純白の執行者に対し、アルカディアが誇る最高戦力による理外の暴力が襲い掛かっていた。
「沈めェッ!」
レオンハルトの咆哮と共に、極限まで圧縮された重力の塊たる魔導ランス「カラドボルグ」から放たれた『星墜』が、天空からエノクの頭上へと直下する。大気が悲鳴を上げ、半径数十メートルの岩盤がすり鉢状に沈み込むほどの暴撃。
それとほぼ同時。漆黒の風と化したマサムネが、エノクの死角へと滑り込んでいた。
「――『九条流奥義・断理の一閃』」
ユリウスの絶対的な断層すらも切り裂いた、魔法の脆弱性を断つ神速の抜刀。重力の暴撃による破壊の只中で、確実に首を刈り取るための無慈悲な二段構え。
轟音と土煙が上がり、海辺の仮拠点周辺が激しく揺れた。
アルカディアの幹部たちが放った必殺の連携。それが完全に直撃したかに見えた。
だが――。
土煙が海風に流されて晴れた後、そこには無傷で立つエノクの姿があった。
「……なっ」
レオンハルトが驚愕に目を見開く。
エノクの純白の軍服には、泥の跳ね返りはおろか、シワ一つついていない。マサムネの刀の切先は、エノクの首筋からわずか数ミリの距離でピタリと止まっており、レオンハルトの槍は空中で何かに支えられるように静止していた。
「……信じられん。拙者の剣が、届く直前で『なまくら』のようになったでござる」
マサムネが冷汗を滲ませながら、瞬時に間合いを取る。
エノクは口内のキャンディをカリッと噛み砕き、気怠げに首を鳴らした。
「魔法の理が通じないなら、純粋な物理でねじ伏せる……か。発想は悪くない」
彼の『強制平準』は、単に魔力を無効化するだけの魔法ではない。
彼を中心とした領域内に発生する、あらゆる『突出したエネルギー』――それが魔法による熱量であろうと、純粋な物理法則による質量や速度であろうと、空間全体の「平均値」へと強制的に分配し、平準化してしまう絶対のルールなのだ。
「だがな」
エノクの纏う静寂の空気が、一変した。
「――お前らのやってることは、俺の管轄内ではただの違法行為なんだよ」
ドォンッ!!
空間そのものが軋むような、おぞましい衝撃が走った。
それは魔法ではない。魔力による物理的な干渉でもない。
世界最高峰の武力機関の頂点に立つ者としての、純粋にして絶対的な『得体の知れない圧力』が、アルカディア陣営にのしかかったのだ。
「ぐっ……!」
ユリウスの展開していた断絶空間が、見えない巨大な手で握り潰されるようにひび割れ、砕け散る。カトレイアが全魔力を注ぎ込んでいた『絶対防壁』もまた、ガラスのように甲高い音を立てて崩壊した。
「な、なんだこの異常な……重力とも違う、抗えないプレッシャーは……!」
レオンハルトが膝を突き、魔導ランスを杖代わりにして辛うじて身体を支える。
魔法の理外にあるその不可視の重圧の前に、マサムネも、クロウも、その場に立っていることすら許されず、次々と大地に這いつくばらされた。呼吸すらままならない。血液が逆流し、己の存在そのものが世界から排斥されるような、根源的な恐怖。
「法の下ではすべてが平等だ。……突出した個の力で市場を荒らすネズミども。これより、資産および命の差し押さえを行う」
エノクが腰の長剣に手をかけた。純白の刃が抜かれ、冷たい死の気配が海辺を覆う。
全滅の危機。
誰もがその抗えない絶望に歯を食いしばった、その時だった。
「――素晴らしい。さすがは世界の法を司る番犬だ」
重々しい防爆ゲートがゆっくりと開き、静かな足音が響き渡った。
仕立ての良い漆黒のスリーピース・スーツを着こなし、片手に分厚い書類の束を持ったカガリ・ヴィスコンティが、平然と歩み出てきたのだ。
「カガリ殿……!? 来ては、なりませぬ……!」
マサムネが血を吐きながら制止の声を絞り出す。歴戦の猛者たちですら指一本動かせない異常な圧力空間。前衛としての身体能力を持たないカガリが足を踏み入れれば、一瞬で肉体が破裂しかねない。
だが、カガリは顔色一つ変えずに歩を進めた。
彼の周囲だけ、まるでエノクの放つ理不尽な圧力が綺麗に避け、道を作っているかのようだった。
「お前がここの元締めか。……俺の圧を食らって平気な顔をしてる奴は久しぶりだ」
エノクは抜いた剣の切先をカガリに向け、その眼差しを微かに鋭くした。
なぜ、カガリがこの圧力の中でが立っていられるのか。
幹部たちには知る由もなかったが、カガリの網膜に映る【ファミリー・レジャー】の赤いデータは、エノクの力の構造を冷徹に解析していた。
それは魔法ではなく、言うなれば『魂の格付け』────。
ならば、裏社会を統べるマフィアの相談役としての確固たる『支配者の格』で相殺するまで。
「我が社の貴重な資産に傷がついては困る。暴力の時間は終わりだ」
カガリはエノクの数メートル前で立ち止まり、手にしていた分厚い書類の束――旧CEOの裏帳簿と、オズボーン・シンジケートの不正送金ログ――をエノクの足元に投げ捨てた。
「法の下の平等と言うのなら、我々の『合法的な帳簿』にも目を通す義務があるはずだ。……それに、あなた方は真の病巣を見誤っている」
「……何?」
「我々をここで潰すより、より巨大な『世界のバグ』――この大陸を裏で牛耳る八大世界樹の腐敗を掃除するための猟犬として、我々を使ってみてはどうか」
カガリの言葉は、公的権力に対する悪魔の司法取引だった。
「ふざけるな。テロリストとの取引など、監査の法には存在しない」
エノクが冷酷に吐き捨て、カガリの首を刎ね飛ばそうと踏み込んだ。
その瞬間。
カガリは懐中時計を見つめる視線を上げず、右手の人差し指を銃の形に結び、エノクへと向けた。
「――『魔弾』」
詠唱も、魔法陣もない。
ただ「完璧な計算式」と「極限まで圧縮された殺意のイメージ」のみで編み上げられた漆黒の弾丸が、カガリの指先から音もなく放たれた。
「ッ!?」
エノクの顔に、初めて明確な驚愕が走った。
空間を平準化する絶対の法。それを穿つように突き進む、純度一〇〇パーセントの殺意の塊。魔力容量としては微々たるものだが、その異常なまでの「密度の高さ」に、エノクは咄嗟に長剣の腹を盾にして弾丸を受け止めた。
キィィィンッ!!
火花が散り、エノクの身体が数センチだけ後方へ押し流される。
その一瞬の空白。カガリが自らの手でこじ開けた、数秒の猶予。
這いつくばっていた幹部たちの目に、信じられない光景として焼き付いた。
あの魔力が全く使えなかったはずのカガリが、魔法を放ち、そして世界の最高権力の歩みを止めたのだ。
「……面白い芸当をするじゃないか、コンシリエーレとやら」
エノクが狂気的な笑みを浮かべ、再び踏み込もうとした――その直後だった。
エノクの純白の軍服の胸ポケットから、けたたましい警告音が鳴り響いた。
監査騎士団の緊急通信用魔導器だ。
エノクが舌打ちをしながら通信機を耳に当てると、副官の悲痛な声が漏れ聞こえてきた。
『エノク特級監査官! 至急、本国からの緊急指令です! このポルタ・マリスに隣接する第壱関税都市にて、突如として天文学的な規模の買い占めが発生! 複数の国営金融機関が結託し、市場の魔石相場が完全に崩壊しかけています! このままでは近隣経済がデフォルトを起こします! 至急、特級監査官の武力介入を――!』
「……なんだと?」
エノクの瞳孔が収縮した。
カガリがエノクをこのポルタ・マリスで足止めしている裏で、エルセの情報網と、ルシウス率いる『真紅の天秤』の莫大な資金力を用いた「局地的な金融テロ」が、まさに今、隣の都市で決行されたのだ。
カガリは静かに口角を吊り上げた。
「さて、法の番人殿。目の前の『終わった買収』に固執するか、今まさに崩壊している『隣の市場の均衡』を救いに行くか。……世界を相手にするのは大変だな」
それは、盤面外からの完全なるチェックメイトであった。
エノクがここでアルカディアの迎撃に固執すれば、隣の関税都市は完全に崩壊し、莫大な富が消失する。法の番人である以上、彼はより被害の大きい「進行中のエラー」を優先せざるを得ない。
エノクは通信機を握り潰さんばかりに強く握りしめ、足元に落ちたカガリの書類の束を一瞥した。そこには、カルテル群への「正当な監査」に使える決定的な証拠が記されている。
「……完全に一杯食わされたってわけか。お前らみたいな最悪のネズミは、初めて見たぜ」
エノクは殺気を収め、剣を鞘に納めた。その瞳には、強烈な敵意と、それを上回る狂気的な愉悦が混じっていた。
「さあ、残業の時間ですよ、特級監査官殿」
カガリが悠然と銀の懐中時計を閉じる。
「次は逃がさねぇぞ、カガリ・ヴィスコンティ。……お前らの顔、確実に俺のブラックリストに入ったからな」
エノクは純白のマントを翻し、重圧の領域を解くと、弾丸のような速度で空へと飛び去っていった。
海を包囲していた白亜の艦隊も、新たな緊急指令を受け、慌ただしく反転していく。
圧倒的な絶望空間から解放され、幹部たちが荒い息を吐きながら立ち上がる。
「……食えない御方だ、本当に……」
マサムネが額の汗を拭いながら苦笑し、レオンハルトは空を睨みつけたまま「次は必ずブチ抜いてやる」と低く唸った。
カガリは波打つ海を見つめながら、静かに葉巻に火を点けた。
アルカディアは、新大陸での世界の絶対権力との初戦を、コンシリエーレの「魔法」と「策略」によって見事に生き延びた。そしてこれは、本土市場の完全なる支配への確固たる第一歩であった。
ここまでお読みいただき本当にありがとうございました!
エノクの声が「津田健次郎」さんのイケボで再生されているのは作者だけだろうか……
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