執行の流儀 〜法の死角と理外の暴力〜
通信が途絶え、無機質な電子音だけが響く中枢タワー最上階の執務室。
青い光を放ち続けるコンソールをじっと見つめていたエノクは、純白のマントを翻し、床にへたり込むオズボーン・シンジケートの現地CEOへと視線を下ろした。
「さて。市場を荒らすネズミの巣は分かった。……お前には、そのネズミを手引きしたインサイダー取引の嫌疑と、重大な横領の罪で連行状を執行する」
エノクが気怠げに歩み寄ろうとした、その瞬間だった。
執務室の豪奢な絨毯に落ちていたCEOの『影』が、ふくりと不自然に膨れ上がった。
「――横入りは感心しませんね、特級監査官殿」
闇から滲み出るように姿を現したのは、完璧に仕立てられた漆黒のスリーピース・スーツに身を包んだ長身の男。顔の上半分を覆う仮面の奥で、ヴィクトル・ローランの赤い瞳が冷酷な弧を描いていた。
「な、何だお前は……っ! どこから入ってき……」
悲鳴を上げるCEOの首筋へ、ヴィクトルの指先から放たれた極細の『赤い糸』が、蛇のように絡みついた。
「この男の命は、我が社が既に差し押さえております。……滞納された利息は、今ここで決済していただきましょう」
「や、やめ……!」
ヴィクトルが恭しく一礼しながらCEOの首元へ顔を寄せた直後、男の全身から凄まじい勢いで血が抜き取られた。それは単なる吸血ではない。血液を媒介とし、対象の記憶、魔力、そして隠し資産の暗証コードに至るまでのすべてを強制的に回収する、吸血鬼の『強制執行』であった。
一瞬にして干からびた肉塊となったCEOが、ボロ屑のように床へ崩れ落ちる。
「……随分と野蛮な回収業者だな」
エノクの眼差しが、氷のように冷たく細められた。目の前の男から立ち上る、規格外に濃密な血と闇の気配。
「お前が裏で帳簿をいじったネズミの一匹か。市場のルールを根底から荒らし回るテロリストめ。……そのふざけた命ごと、俺がこの手で粛清してやる」
エノクが口内のキャンディを噛み砕いた瞬間、彼を中心とした空間が歪んだ。
『強制平準』の領域。突出した魔力も運動エネルギーも、すべてを平均値へと引きずり下ろす絶対の法が、ヴィクトルを押し潰さんと迫る。
ヴィクトルの周囲に漂っていた赤い魔力の霧が、ガラスが砕けるようにパリンと音を立てて無害な塵へと変わっていく。
だが、ヴィクトルは微塵も動じなかった。彼は優雅に一歩後退し、迫り来る領域の境界線スレスレで立ち止まる。
「お見知りおきを。私はしがない一介の執行官に過ぎません。それに……」
ヴィクトルは仮面の奥で静かに微笑み、窓の外――はるか海辺にそびえ立つ、完成したばかりの黒鉄の要塞を指し示した。
「本命の交渉は、あちらで。……我らが主が、お待ちです」
ヴィクトルの姿が言葉の余韻と共に影の中へと溶け、完全に消失する。
執務室に取り残されたエノクは、窓の外の要塞をじっと見据えた。
「……面白い連中じゃないか」
純白のマントを翻し、エノクの眼底に、法を執行する狂信的な狩人としての光が燃え上がった。
◆ ◆ ◆
同時刻、ポルタ・マリス近海。
都市を完全に包囲すべく展開した『白亜の監査騎士団』の艦隊は、その圧倒的な威容で波間を制圧しようとしていた。純白の装甲に包まれた数十隻の軍艦が、一糸乱れぬ陣形で作戦海域へと進入していく。
だが、その前方に、海霧を割って巨大な黒い影が立ちはだかった。
漆黒に塗装されたアルカディア・フリートの旗艦である。
「止まれ。これより先は、我らが主君の『庭』だ」
艦橋の拡声魔導器から、クレイグ大提督の重厚な声が響き渡る。
「島国の海賊船風情が……! 世界の法を司る我ら監査騎士団の航路を塞ぐというのか!」
監査艦隊の指揮官が激昂し、数十門の純白の魔導砲が一斉にアルカディアの旗艦へと向けられた。まばゆい魔力が集束し、空を焼き尽くさんばかりの砲撃が放たれる。
だが、クレイグは分厚い胸板を張り、背負っていた自身の身の丈ほどもある巨大な鋼の錨を軽々と振り回した。
「海をなめるな、青二才ども!」
クレイグが錨を海面へ叩きつけた瞬間、海流そのものが巨大な竜巻となって渦を巻き、そそり立つ分厚い水の壁となって魔導砲の光条を完全に呑み込んだ。蒸発する海水の爆発的な水蒸気が、海上の視界を真っ白に染め上げる。
「チッ、目障りな水魔術だ! 構わん、突っ込め!」
視界不良の中、監査騎士団の精鋭たちが甲板を蹴り、アルカディアの旗艦へ直接乗り込もうと宙を舞う。彼らの手には、法を執行するための高度な魔力を帯びた刃が握られていた。
その時、蒸気の幕を切り裂くように、一筋の影が飛び出した。
「……ったく、どいつもこいつも派手にやりやがって」
空中で騎士の一人の顔面を、強烈な回し蹴りが捉える。
鈍い骨の砕ける音とともに、魔力による防御結界を物理的に踏み砕かれた騎士が、為す術もなく海へと叩き落とされた。
突如として甲板に降り立った黒髪の青年――クロウに対し、残りの騎士たちは一斉に魔力刃を向ける。だが、クロウは全く動じない。
甲板を蹴り、空中で無理やり身体を捻ると、魔力相殺の鉱石を仕込んだナックルで、迫り来る魔力刃を次々と根元から殴り砕いた。
騎士たちは、その理不尽な純物理のインファイトの前に対応しきれず、瞬く間に甲板へ叩き伏せられていく。
「見事な体術だ、遊撃隊長! だが、海の上では足場に気をつけることだな!」
クレイグが豪快に笑いながら、再び巨大な錨を振り回し、監査艦隊の船体スレスレに荒波を巻き起こして敵の陣形を完全に崩す。
「おっさんの援護は荒っぽくて敵わねェぜ……!」
クロウは濡れた髪を払いながら艦の縁に着地し、監査艦隊を冷たく見据えた。
圧倒的な海戦の練度と、純粋な暴力による遊撃力。たった一隻の黒船が、世界最高峰の権力機関の艦隊を、見事に海上で足止めしていた。
◆ ◆ ◆
第十三廃棄区画、アルカディア仮拠点前。
潮風が吹き抜ける防爆ゲートの前に、単騎で降り立ったエノクの姿があった。
彼の行く手を阻むように、二つの影が静かに立ちはだかる。
「これより先は、我らがボスの領域だ。立ち去れ、監査官」
ユリウスが細身の直刀を無造作に振り下ろし、エノクの眼前の空間を『断絶』する。絶対的な死の断層。
ユリウスの隣で、カトレイアが身の丈ほどもある大盾を地へ突き立て、あらゆる運動エネルギーを静止させる真珠色の結界『絶対防壁・慈母の愛』を展開した。
空間そのものを切り離す矛と、すべてを停止させる盾。
二人のプロフェッショナルによって構築された、一ミリたりとも越えられない完璧な防波堤。
だが、エノクは歩みを止めなかった。
彼が一歩、また一歩と前進するたび、ユリウスの断絶空間がひび割れ、カトレイアの絶対防壁が悲鳴を上げて軋む。
『強制平準』の法。いかに強固な魔力であっても、彼の前では空間の「平均値」へと強制的に分配され、その効力を失っていく。
「なるほど、悪くないセキュリティだ。……だが、俺の法の下では、いかなる魔法も意味を成さない」
エノクがキャンディを噛み砕き、結界が完全に粉砕されようとした、その瞬間。
「――魔法の理が通じねェなら、純粋な『力』でねじ伏せるまでだ」
低く獰猛な声と共に、ひび割れた防壁の中から、極限まで圧縮された重力の塊がエノクの頭上へ直接叩きつけられた。
「……ッ!?」
エノクの動きが初めて止まる。
レオンハルトの放った『星墜』。それは魔法というより、純粋な質量兵器による暴撃に近かった。
その隙を縫うように、漆黒の風がエノクの死角へと滑り込む。
「世界の法とやら……拙者の剣に斬れぬ理はない」
マサムネの神速の抜刀術が、エノクの纏う静寂のオーラごと、その空間を真っ二つに切り裂いた。
世界の権力が敷く絶対的なルールに対し、アルカディアが誇る「理外の暴力」が牙を剥く。
血と硝煙の匂いが入り混じる海辺の要塞の前で、最強と最強の激突が幕を開けた。
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