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白亜の執行者と見えざる令状

鈍色(にびいろ)の海を、純白の巨艦が音もなく滑っていく。

船体に刻まれたのは、剣と天秤を交差させた荘厳な紋章。世界経済調律機関――『白亜の監査騎士団(オーディター・ナイツ)』の旗艦(きかん)であった。


甲板の舳先(へさき)で、潮風に純白のマントをはためかせている男がいた。

特級監査官、エノク・アシュクロフト。

隙なく制服を着込む周囲の騎士たちとは対照的に、彼は襟元を大きく開け、気怠げに棒付きキャンディを口の端で転がしている。無精髭が混じるその横顔は、世界最高峰の武力機関トップの一角というよりは、疲労の抜けない、しがない窓際部署の男のようだった。


「……エノク特級監査官。第零関税都市『ポルタ・マリス』まで、あと三海里です」


背後に歩み寄ってきた生真面目な副官が、敬礼と共に羊皮紙の報告書を差し出した。


「昨晩から、同都市の魔力炉の出力低下が確認されています。加えて、今月の関税の上納ログが完全にストップしました。……内部で何らかの『暴動』、あるいは大規模なテロ行為が発生している可能性が極めて高いかと」


「暴動ねぇ……」


エノクはキャンディをカリッと噛み砕き、ため息交じりに頭を掻いた。


「オズボーンの連中も、もう少し上手く『飼い慣らせ』ないもんかね。おかげで俺の貴重な有給休暇がパーだ。……これ、残業代きっちり出るんだろうな?」


「特級監査官。我々は世界の法と均衡を守る『剣』です。俗世の金銭など――」


「はいはい、わかってるよ。法の下の平等、市場の絶対的均衡。……突出した富の集中は、世界を狂わせる『大罪(バグ)』だ。ちゃっちゃと帳簿のバグを修正して、帰って寝るぞ」


エノクは残ったキャンディの棒を海へと弾き捨てると、甲板の手すりに足をかけた。

海霧の向こうに、ポルタ・マリスの巨大な防壁と、天を衝く管理タワーの輪郭がうっすらと浮かび上がっている。


「副官。お前たちは艦隊の包囲陣形を維持しろ。俺が単騎で『監査』に入って、タワーの中枢システムから直接、都市の全資産をいったん凍結(ロック)する。逃げ出すネズミがいたら、一匹残らず拿捕(だほ)しろ」


「はっ! ……しかしエノク様、単騎での突入はいくらなんでも」


副官の制止が終わるより早く、エノクの身体は重力を無視したように海上へと跳躍していた。純白のマントが鳥の翼のように広がり、彼は海面スレスレを弾丸のような速度で滑空していく。


彼から放たれるのは、魔力の光でも、鋭い殺気でもない。

ただひたすらに重く、凪いだ海面のような『静寂』のオーラ。周囲の空間の魔力が、彼に近づくほどに不自然なほど均一化されていく。


「さて……他人の財布に勝手に手を入れた泥棒は、どこのどいつだ?」


エノクの眼光が、冷たく、そして鋭く細められた。


◆ ◆ ◆


同時刻。

ポルタ・マリスの中央タワー、最上階のCEO執務室。


「どういうことだ! なぜ第四水門のシステムが応答しない!? 地下区画の私兵どもは何をしている!」


オズボーン・シンジケートの現地CEOである男は、血走った目でコンソールを叩きながら絶叫していた。


彼の足元には、シュレッダーにかけられた大量の裏帳簿が散乱している。

数日前から都市のインフラに奇妙なノイズが走っていることには気づいていた。だが、それが致命的なエラーであると認識した時には、すでに港湾の管理システムも、地下の魔力炉も、誰かの手によってパスコードを書き換えられていた。


『CEO! 緊急事態です!』


通信機から、防衛部隊の隊長の切羽詰まった声が響く。


『海側より、単騎で接近する所属不明の影あり! 白いマント……あれは、監査騎士団(オーディターナイツ)の特級監査官です!』


「な、なんだと……!? なぜ連中がこんなに早く……!」


CEOの顔から完全に血の気が引いた。横領を隠蔽する前に監査官が乗り込んできたとなれば、待っているのは物理的な粛清のみだ。


「くそっ……! 迎撃しろ! 防衛用の魔導砲を一斉掃射だ! それから、地下の特務部隊(サイボーグ)を全機起動しろ! なんとしてでも時間を稼げ、その間に俺は本国へ……!」


CEOの狂乱の命令を受け、タワーの外壁に設置された数十門の巨大魔導砲が一斉に砲身を海へ向けた。

圧倒的な魔力が収束し、夜明け前の空を焦がすほどの極太の光条となって、海面を滑空してくる白い影――エノクへと降り注ぐ。


直撃すれば、島の一つが消し飛ぶほどの熱量と破壊力。

だが、エノクは足を止めることなく、ただ気怠げに右手を軽く前にかざした。


「――『強制平準(イコール)』」


その呟きと共に、彼を中心とした半径百メートルの空間が『歪んだ』。

魔導砲から放たれた致死の光条(ひかり)は、エノクの空間に触れた瞬間、パリンと音を立ててガラスのように砕け散った。

否、砕けたのではない。極限まで高められた魔力エネルギーが、空間全体の「平均値」へと強制的に分配・均等化されたのだ。

熱量も、破壊力も、すべてがただの生温かいそよ風へと変貌し、エノクのマントを微かに揺らすだけで消え去った。


「なんだ、今の出力は。規定値を超えてるぞ。……まったく、地方の末端(フランチャイズ)はコンプライアンスがなってない」


エノクはため息をつきながら、そのままタワーの防壁を蹴り上がり、テラスへと軽やかに着地した。


「殺せェッ!!」


テラスで待ち構えていたのは、カルテルの切り札である特務部隊。全身の筋肉を魔導回路でサイボーグ化し、純粋な膂力(りょりょく)と魔力のアシストで戦う生体兵器たちだ。


巨大な鉄球や刃が、エノクを肉塊に変えようと四方八方から襲いかかる。

しかし、エノクが彼らの間をすり抜けるように一歩踏み出した瞬間、特務兵たちの動きが急激に鈍り、次々と膝から崩れ落ちた。


「な、身体が……重い……!?」


強制平準(イコール)』の法が敷かれた空間内では、突出した能力や魔力アシストはすべて「平均」へと引き下げられる。彼らの肉体に埋め込まれた魔導回路の出力は強制的にゼロに等しくなり、異常な質量を持つ鉄の装甲は、ただの自重となって彼ら自身を押し潰した。


「法の下では、何者も平等だ。……お前らみたいな規格外の暴力(バグ)は、市場の均衡を乱すだけなんだよ」


エノクはもがく特務兵たちを一瞥すらせず、執務室へと続く重厚な扉を無造作に蹴り破った。


◆ ◆ ◆


「ひ、ひぃぃっ……!」


扉が弾け飛ぶ音に、CEOは腰を抜かして床にへたり込んだ。

彼の目の前には、一切の傷も汚れもない純白の軍服を着たエノクが見下ろすように立っている。


「オズボーン・シンジケート、第零関税都市CEO。……お前の事業所における魔力供給法違反、および重大な脱税・横領の疑いにより、特別監査を実施する」


エノクは軍服のポケットから新しいキャンディを取り出し、包装を破りながら淡々と告げた。


「これより、この都市の全インフラと資産を凍結(ロック)させてもらう。おとなしくお縄を頂戴しろ」


エノクはおびえるCEOを無視し、部屋の中央にある中枢コンソールへと歩み寄る。

彼がキーボードに手を触れ、監査騎士団の絶対権限コードを打ち込み、システムの凍結を実行しようとした――その時だった。


『アクセス拒否。当該インフラの所有権は、現在他社へ移転されています』


無機質な電子音声と共に、コンソールの画面が警告の赤ではなく、美しい青色の光を放った。


「……ほう?」


エノクの目が、初めて鋭く細められる。

画面に浮かび上がったのは、オズボーンの紋章でも、監査騎士団の天秤でもない。未知の、しかしどこか洗練された新興ギルドの紋章――アルカディアのものだった。


『……おや。アポイントのない来客かと思えば、随分と物騒な白い方だ』


コンソールのスピーカーから、静かで、冷徹な、しかしどこか優雅さすら感じさせる青年の声が響いた。


「誰だ、お前は」


エノクはキャンディを噛み砕き、コンソール越しに見えない相手へと語りかけた。


『アルカディア・グループの相談役(コンシリエーレ)をしている、カガリと申します。……監査官殿。申し訳ないが、その都市のインフラと資産は、既に我が社が正当な手続きで『買収(M&A)』済みだ。貴方たちが手を触れる権利はない』


「買収、だと?」


エノクは鼻で笑った。


「馬鹿を言え。こんな重要インフラの所有権移転が、我々監査騎士団の認可なしに行われるわけがない。……さては、お前が裏で帳簿をいじったネズミだな。市場のルールを根底から荒らし回るテロリストめ」


『テロ、とは心外な。我々はただ、不良債権を抱えて首が回らなくなった現地の役人たちに、低金利の融資(セーフティネット)を提供しただけですよ。彼らが自らの意志で、担保としてシステム権限を差し出したのですから、何一つ法には触れていない』


通信越しの声には、一切の焦りがない。完全な盤面支配を終えた者の、絶対的な自信が満ちていた。


「……なるほどな」


エノクの唇の端が、三日月のように吊り上がった。昼行灯のような気怠さは消え失せ、彼の眼底に、法を執行する狂信的な狩人としての光が宿る。


「巧妙に法の網の目をかいくぐったつもりだろうが、俺たちの目から見れば、お前のような存在こそが最大の『バグ』だ。市場の均衡を独占によって破壊する害悪。……いいだろう。お前のそのふざけた帳簿ごと、俺がこの手で『強制執行』してやる」


『やれるものなら、やってみたまえ』


カガリの声が、氷のように冷たく響く。


『この大陸の物流の血管は、すでに我々が握っている。差し押さえの令状があるというのなら……私のデスクまで、直接持ってくることだな。もっとも、そこまで辿り着ければの話だが』


プツン、と通信が切れる。

執務室には、青い光を放ち続けるコンソールと、静かな怒りと歓喜を纏ったエノクだけが残された。


「……面白い。最高に厄介なバグじゃないか」


エノクは純白のマントを(ひるがえ)し、窓の外――大陸の奥地へと視線を向けた。

法と均衡の執行者と、すべてを買収する異端の相談役(コンシリエーレ)

相容れない二つの絶対的なルールの激突が、今まさに始まろうとしていた。

ここまでお読みいただき本当にありがとうございました!



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