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防衛都市への毒と、見えざる深淵の影

第零関税都市『ポルタ・マリス』。その分厚い鋼鉄の防壁の内側には、過酷なノルマと終わりのない搾取に縛られた者たちの沈んだ吐息が澱澱(でんでん)と溜まっていた。


港湾地区の外れ、アルカディア・グループの仮事務所。

その防音処理が施された応接室のソファで、二人の男が脂汗を滲ませながら小刻みに震えていた。


「ロイド……おい、本当に大丈夫なんだろうな。こんな素性の知れない商人に、俺たちの『首根っこ』を晒すような真似をして……」


「黙ってろ。俺は先週、この人たちに地獄の底から引き上げてもらったんだ。……いいから、余計な口は叩くのやめろ」


彼らは、ポルタ・マリスの第二、第三水門を統括する防衛管理官たちだった。先日カガリの提案を受け入れ、破滅の淵から生還した港湾管理官ロイドが、「確実に助かる道がある」と同僚の彼らを極秘裏に連れてきたのだ。


重厚なマホガニーのデスクを挟み、彼らの正面には二人の男が座っていた。

一人は、仕立ての良いスリーピース・スーツを隙なく着こなす相談役(コンシリエーレ)カガリ。

もう一人は、顔の上半分を漆黒の仮面で覆った長身の男――国営特務金融ギルドから出向してきた執行官、ヴィクトル・ローランである。


ヴィクトルは手元の羊皮紙には目もくれず、ただ仮面の奥で冷徹に光る赤い瞳を二人の管理官へと向けた。

それだけで室内の温度が数度下がったかのような錯覚を覚え、男たちは息を呑む。


「……第二水門管理官、ドーソン様。複数の高利貸しからの借り入れ総額、金貨八万枚。月利二十五パーセント。加えて、過去半年の間にカジノの負け分を補填するため、備品の魔石を横流しした形跡が三件」


ヴィクトルの静かで恭しい声が、静寂の部屋に響く。


「第三水門管理官、ベイツ様。負債総額は金貨十万枚。……お二人とも、明日の上納金査定を前に、完全に資金がショートしておりますね。このままでは監査部に横領が露見し、最悪の場合、命をもって利息を決済していただくことになるでしょう」


「な、なぜ……それを……っ!」


ドーソンが悲鳴のような声を上げ、ソファから腰を浮かせた。自分たちと高利貸ししか知らないはずの正確な負債額、そして隠蔽したはずの横領の事実。それを、今日初めて会ったばかりの男が完全に把握している。


ヴィクトルから漂う、微かな、しかしひどく濃厚な血の気配。彼にその赤い瞳で見据えられた瞬間、男たちは自分たちの過去から未来に至るまでのすべての『負債』を丸裸にされたような、絶対的な恐怖を味わっていた。


「ご安心ください。我々はカルテルの監査官ではありません」


怯える彼らに向けて、カガリが穏やかな笑みを浮かべた。彼は机の上に、丁寧に製本された二枚の契約書を滑らせる。


「私どもで、貴方たちの負債を一本化(リファイナンス)しましょう。金利は月利二パーセント。明日の上納金に充てる当面の資金も、我がアルカディア商会が無担保で立て替えます」


「……ほ、本当か……? だが、そんな虫のいい話が……」


「もちろん、無条件というわけにはいきません。ビジネスですから」


カガリは彼らの目を真っ直ぐに見据えた。


「担保として……貴方たちが管轄する水門の魔力炉の『アクセス権限』と、現在都市全体で進行中の防衛配管工事の『シフト表』を提出していただきたい。それだけで結構です」


男たちは顔を見合わせた。

それは、巨大カルテルの防衛システムそのものを、見ず知らずの商人に売り渡すに等しい行為だ。発覚すれば反逆罪、命は無い。


「……そ、そんなことをすれば、俺たちは……」


「すでに沈みかけている泥舟の底で、高利貸しに内臓を売る日を待つか。それとも、我々の新しい帳簿の中で生き延びるか。選ぶのは貴方たちです。……もっとも、時間はあまり残されていないようですが」


ヴィクトルが、万年筆を静かに彼らの前へ置いた。

―――沈黙は、十秒と続かなかった。

男たちは震える手で万年筆を握り、自らの保身のために、巨大要塞の首輪をカガリへと遂に委ねた。

紙を擦るペンの音だけが、静かな部屋の中に響いていた。


◆ ◆ ◆


数日後―――。

都市の最下層。巨大な魔力炉から伸びる無数の配管が入り組む、熱気と煤煙にまみれた地下区画。

配管保守の現場監督であるハンスは、脂に塗れた作業着の胸ぐらを掴まれ、冷たいコンクリートの壁に叩きつけられていた。


「どういうことだ、ハンス。先月分の『みかじめ料』がまだ入ってねぇぞ。監査部にパイプの横流しを報告されたくなけりゃ、明日までに耳を揃えて払え」


彼を壁に押し付けているのは、カルテルの腕章をつけた二人の私兵だった。

防衛という名目で各区画に配置されている彼らもまた、過酷な上納金を末端の労働者や監督から搾り取ることで自身の地位を保っている。


「ま、待ってくれ……! 先月は魔力炉の冷却トラブルで、俺たちの給与すら出ていないんだ! これ以上(むし)られたら、部下たちが……」


「知るかよ。足りねぇなら、お前のその内臓でも売って金に替えろ」


私兵の一人が嘲笑いながら、手のひらに赤黒い炎を収束させる。抵抗すらできないハンスの顔面へ、容赦なくその熱源が叩きつけられようとした瞬間だった。

頭上の太い配管の陰から、音もなく何かが落下した。

鈍い打撃音。

私兵が手元に集めていた炎は、突如降ってきた漆黒の靴底によっていとも容易く踏み砕かれ、ただの火の粉となって虚空に散った。


「なっ……!?」


驚愕に見開かれた私兵の顎を、流れるような蹴り上げが捉える。骨が砕ける嫌な音が響き、男は白目を剥いて崩れ落ちた。


「貴様、何者だ! 侵入者か!」


残るもう一人の私兵が慌てて魔導槍を引き抜き、闇から現れた黒髪の青年――クロウに向けて鋭い突きを放つ。

だが、その切先が青年に届くことはなかった。

通路の暗がりから、白黒の縞模様に覆われた巨体が無言で滑り出た。突き出された刃は、まるで蜃気楼に触れたかのようにザザの胸をすり抜けていく。

私兵がバランスを崩した一瞬の隙。実体を取り戻したザザの拳が、鋼鉄の防具ごと男の胸倉を深々と陥没させた。

私兵の身体が倉庫の奥へと吹き飛び、静寂が降りる。

クロウは倒れ伏したカルテルの兵には目もくれず、へたり込んでいるハンスの胸元に、一枚の書類と、手のひらサイズの「黒い金属の箱」を投げ落とした。


「……あ、あんたたちは……?」


「あんたの抱えてるその借金。ウチのボスが肩代わりしてやる」


クロウは感情の読めない三白眼で見下ろしながら、淡々と告げた。


「やることは簡単だ。あんたの管理してる配管工事の、一番目立たない死角にこのパーツを取り付けるように指示を出せ。警備のシフトはすでにウチで書き換えてある。……それで明日から、あんたもあんたの部下も、ウチの社員(ギルドメンバー)だ」


ハンスは震える手で、投げ渡された書類を見た。そこには、現在の劣悪な環境とは比較にもならない、医療費の負担と退職金積立、適正な歩合報酬が明記された『アルカディアの雇用契約書』が印字されている。


「カルテルの底で使い潰されるか、正当な対価をもらって生きるか」


クロウは、冷たく好戦的な瞳を細めた。


「俺たちのボスは、仕事の対価はきっちり払うぜ。それは俺が保証する……好きに選べ」


ハンスの視線が、床に転がるカルテルの私兵と、手元の黒い箱を往復する。

彼はゆっくりと、しかし確かな意志を持って、その部品を油塗れの手で固く握りしめた。


◆ ◆ ◆


―――数週間後、仮事務所の一角。

エルセは複数の魔導端末の前に座り、絶え間なく送られてくる膨大なデータの波を、天使のような微笑みを浮かべながら淡々とさばいていた。


「……精霊さんの声を聴かない情報収集というのも、存外楽しいものですね。たった今、クロウさん達が手配した水門の配管の|中継端末《バルカスさんの魔導ウィルス》からの情報も入ってきました。同時期にヴィクトルさんが手に入れた第ニ、第三水門の管理者権限のコードで、水門関係のシステムへの認証も粗方(あらかた)通りました」


彼女の静かな報告を受け、カガリは窓辺から都市の夜景を見下ろした。

彼の網膜には【ファミリー・レジャー】の赤いデータが投影されている。だがその赤字は今、都市の地下から、そして管理中枢の末端から、確実に青い光――アルカディアの帳簿――へと上書きされつつあった。


カルテルという強大な巨獣の細胞が、自ら空けた穴で自発的に壊死し、少しずつその所有者を変えていく。


「面白いくらいに順調ですね。ここまでキーが揃えば、この都市の防衛システムだけでなく、関税の動きも手に取るように分かります。フフッ、こんなに欲にまみれた醜い帳簿を見るのは初めてです」


エルセの指先が、流れるようにコンソールの盤面を叩く。

だが、次の瞬間。情報の深い階層へと潜っていた彼女の指が、ピタリと止まった。


「……カガリさん」


エルセの声から平坦なトーンが消え、わずかな怪訝さが混じる。


「この都市の『帳簿』……少し、妙です」


「妙、とは?」


カガリが振り返る。


「ポルタ・マリスの資金の流れ……関税の送金ログを追ってみました。これほどの巨大要塞、当然、莫大な利益はオズボーン・シンジケートの『本国』、あるいは中央銀行へ納められているはずと思ってましたが……」


エルセは空中に、複雑な送金経路を示す光のグラフを投影した。

そこには、ポルタ・マリスが関税として搾取した天文学的な額の金貨と魔石が、カガリたちの想定とはまったく別の方向へと流出している軌跡が描かれていた。


「関税収入の約七割が、システム利用料という名目で、大陸各地の『七つの異なる座標』へ向けて定期的に分割送金されています。……まるで、この要塞すらも、何者かに上納金を納める『末端』に過ぎないかのように」


カガリは目を細め、投影された七つの未知なる座標を凝視した。

【ファミリー・レジャー】の視界を通しても、その送金先の全貌は厚いノイズに覆われて読み取れない。


「……なるほど」


カガリの脳裏に、一つの推論が組み上がる。


「大陸進出の入口であるこの関税障壁は、単なる一企業の独占ビジネスではないということだ。大陸の各地に……本当の意味でこの世界を分割・管理している『巨大なインフラの根源』が存在している」


彼らが今まさに喰い破ろうとしている巨大な要塞都市すらも、真の支配者から軒先を借りているだけの末端(フランチャイズ)に過ぎないのか。


窓の外に広がる果てしない夜の闇の向こうに、カガリは底知れない世界のスケールと、未だ見ぬ『真の市場』の気配を感じていた。


そのブラウンの瞳に、静かだが、確かな飢餓の炎が灯る。

ここまでお読みいただき本当にありがとうございました!

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