追憶②血の帳簿と、冷徹なる獣の誕生
夜明け前。
戦闘の準備を終え、アジトの奥にある薄暗い礼拝堂で、一人静かに祈りを捧げている男がいた。
マルコ・ファルコーネ。
十字架の前に跪くその広い背中へ向かって、カガリは音もなく歩を進める。
懐に隠したベレッタの金属の冷たさが、胸の皮膚を焼き切るように痛い。
(……すまない、マルコ兄貴。俺は……アンタの誇りより、アンタ以外の全員の命を選ぶ)
銃のグリップを握るカガリの手は、今のレオンハルトのように、いや、それ以上に激しくガタガタと震え、瞳からは制御できない涙が止めどなく溢れ落ちていた。
「……来たか、カガリ」
背中を向けたまま、マルコが静かに口を開いた。
礼拝堂の冷たい空気が、決定的な悲劇の幕開けを告げていた。
「……カルテルの犬どもと、話をつけてきたんだな」
ゆっくりと立ち上がり、振り返ったマルコの顔には、裏切り者に対する怒りも、死への恐怖もなかった。ただ、自らの不甲斐なさを恥じるような、深い慈愛と少しの寂しさだけが浮かんでいた。
カガリは嗚咽を噛み殺し、震える両手でベレッタを構え、最も愛する兄弟分へと銃口を向けた。
「……はい。アンタの首一つと引き換えに、他の皆の命は保証する……そう約束させました」
「俺が自首しても、ダメだったか」
「ダメです……! アンタが自己犠牲の英雄のまま死ねば、若い衆は必ず復讐に走る。誇りに狂った連中は、全滅するまで止まらない! ……だから、身内の裏切りによって、無惨に死んでもらうしかないんです……!!」
血を吐くようなカガリの叫びが、静寂の礼拝堂に木霊する。
「……そうか」
マルコは優しく微笑んだ。
「お前は、自分が泥を被ってまで、俺たちの命を拾いにいってくれたんだな。……すまねぇ、カガリ。俺の不器用な誇りが、お前に一番重い十字架を背負わせちまった」
「アンタの美しい理想が……その誇りが、皆を殺す猛毒なんだ! なんで分からないんですか!」
涙で視界が滲む中、カガリの叫びは裏返っていた。
マルコは静かに歩み寄り、震えるカガリの両手ごと、冷たいベレッタの銃口を自らの心臓へと真っ直ぐに誘導する。
「いいか、カガリ。俺は誇りのために死ぬ。だがお前は、お前のやり方で……その冷たい帳簿で、不器用な家族を守り抜いてくれ。……俺たちの『誇り』ごと、お前が全部背負って生きろ」
「マルコ兄貴……ッ!!」
「撃て、兄弟」
その声は、かつてシチリアの陽光の下で笑い合った時と変わらない、温かな響きを持っていた。
カガリは絶叫と共に、固く目を閉じ、引き金を引いた。
『―――パーァンッ!!!』
乾いた銃声が、礼拝堂のステンドグラスを震わせる。
崩れ落ちる巨体。広がっていく血の海。
十字架の下で、若き日のカガリ・ヴィスコンティは、永遠に物言わぬ肉塊となった兄弟分にすがりつき、獣のように慟哭した。
(二度と……二度と、不確かな感情で組織は動かさない。俺が、すべてを冷徹な数字で支配してやる……!!)
この瞬間、シチリアの街角で笑い合っていた青年は死んだ。
代わりに、世界を数字と損得だけで冷酷に切り刻む、一匹の『冷徹なる獣』が誕生したのである。
◆ ◆ ◆
――カチ、カチ、カチ。
銀の懐中時計が刻む秒針の音が、遠いシチリアの幻影を打ち払った。
魔法都市バビロン、最上階。
カガリは静かに瞳を開き、目の前の巨大な魔導スクリーンを見据えた。
画面の中央では、ガレナ渓谷の瓦礫の中で、レオンハルトがアシュレイの首元に槍を突き立てたまま、かつての自分と同じように「高潔な敵を殺すことの葛藤」に激しく身を震わせている。
背後では、アリサが祈るように両手を組み、エルセが沈痛な面持ちでそれを見つめている。
カガリの瞳は、絶対零度の冷徹さを保ちながらも、その奥底でかつてないほどの激しい思考の渦を巻いていた。
(……聖騎士アシュレイ・ヴァン・ルージュ。戦局を不当に引き延ばす敵の不良債権。皇帝同盟の最後の精神的支柱である彼をこの場で処理することが、我がアルカディアにとって最も効率的な決済だ)
それが、コンシリエーレとしての完璧な計算式だった。
部下のために自らを犠牲にしようとするあの騎士の首を刎ねれば、敵の十万は完全に烏合の衆となり、盤面はアルカディアの圧倒的な黒字で幕を閉じる。
だが。
スクリーンに映るアシュレイの姿が、部下を庇い、己の大義に殉じようとするその眩しさが――礼拝堂の冷たい床に沈んだ、あの不器用な兄弟分の笑顔と重なって消えなかった。
そして、かつて引き金を引いた己と同じように、致命的な一撃を放つことができずに震えるレオンハルトの背中。
周囲の幹部たちが抱く、敵将への痛いほどの共感と敬意。
カガリは銀の懐中時計の蓋をそっと撫でた。
(……私の冷たい帳簿は、二度と同じ悲劇を繰り返さないために作り上げたものだ。それなのに、今の私は、あの日のカルテルと同じように……気高い誇りを無惨にへし折ることを、自らの将に強要しているのではないか?)
損得だけで切り捨てるなら、簡単なことだ。
だが、その決断は、アルカディアという新たな家族の魂に、永遠に消えない傷を刻むことになる。
カガリの視線が、微かに揺らいだ。
脳内の計算式が凄まじい速度で組み替わっていく。
死を以て誇りを証明しようとする者を、どうすれば救える?
いや、救うのではない。「利益」として取り込むのだ。
彼らの抱える天文学的な負債ごと、すべてを強引に買収し、生かしたまま盤面を支配する超法規的な解決策。
(そうだ。あの時の私と、今の私とでは、決定的に違うものがある)
「……あの時、私には力がなかった」
カガリの唇から、ふと、そんな呟きがこぼれた。
アリサが驚いたように振り返る。
「力がないからこそ、最も愛するものを帳簿から切り捨てるしかなかった。……だが、今は違う。我がアルカディアには、世界を丸ごと買い叩けるだけの莫大な資本がある」
カガリは手元の魔導通信機を取り上げ、その拡声ボタンのスイッチを押し込んだ。
『――レオンハルト。槍を下ろせ』
戦場に響き渡った静かな、しかし絶対的な命令に、レオンハルトの肩がビクッと跳ねた。
「ボス……?」
「情けなど無用だ! 殺せ、アルカディアの軍神!!」
死を渇望するアシュレイの絶叫を遮るように、カガリの冷徹な声が戦場全域に降り注ぐ。
『情けではない。不良債権の処理方法を変更しただけだ。……聖騎士アシュレイ・ヴァン・ルージュ。貴君のその重たすぎる誇り、そして戦場に散ろうとする十万の兵士たちの命……。それら全額、我がアルカディアが買い取ろう』
「……な、に?」
アシュレイが、呆然と宙を見上げる。
レオンハルトもまた、カガリの常軌を逸した宣言に目を見開いた。
『死んで責任を取るなどという、安易な自己破産は認めない。貴君らは今日、この瞬間から我々の資産だ。……這いつくばってでも生きて、その高潔な誇りを、アルカディアの社員としての労働で返済してもらおう』
殺すのではなく、すべてを背負い、生かす。
それは、かつて礼拝堂で散った『誇り』に対する、彼なりの不器用で、最大級の弔いだった。
冷徹な計算式と追憶によって導き出された『超法規的買収《M&A》』の宣言。
その言葉は、沈黙の戦場に新たな血を流させることなく、長く苦しい総力戦の終わりを告げる、静かな夜明けの鐘のように響き渡った。
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