追憶①シチリアの陽光と、誇りという名の天秤
カチ、カチ、という銀の懐中時計の秒針の音が、いつしか、遠くで鳴り響く教会の鐘の音へと溶けていった―――。
視界を覆っていた戦場の煤や泥の匂いは消え、代わりに、鼻腔をくすぐる深く焙煎されたエスプレッソの香りと、乾いた地中海の潮風が吹き抜ける。
――それは、カガリ・ヴィスコンティがまだ、「冷徹な数字の奴隷」になる前の記憶。
◆ ◆ ◆
「おいおい、また眉間に皺が寄ってるぞ、ヴィスコンティ。そんなに数字の羅列ばっかり睨みつけてると、シチリアの極上の太陽に嫌われちまうぜ?」
眩しい陽光が降り注ぐ、街角のオープンテラス。
白い麻のシャツの胸元を無造作にはだけさせた大柄な男が、カガリの目の前で大げさに肩をすくめてみせた。
日に焼けた肌に、無数の小さな傷跡。彫りの深い顔立ちと、誰をも惹きつけるような人懐っこいヘーゼルナッツの瞳。
彼の名は、マルコ・ファルコーネ。
この街を牛耳るマフィアの幹部であり、孤児だったカガリを泥水から拾い上げ、生死を共にする誓いを立てた絶対の『兄弟分』であった。
「……マルコ兄貴。俺がこうして胃を痛めながら帳簿と睨み合っているからこそ、ファミリーの資金繰りが回っているんです。昨日だって、港の倉庫の上がりをアンタがごっそり孤児院への寄付に回したせいで、今月の予算はギリギリなんですよ」
二十代前半の若きカガリは、完璧に仕立てられたスーツのネクタイを少しだけ緩めながら、呆れたように手元の万年筆を置いた。
アルカディアで見せるような「絶対零度の威圧感」はない。その瞳にはまだ年相応の熱があり、文句を言いながらも、口元には自然な笑みがこぼれていた。
「はっはっは! 悪い悪い。だが、あそこのシスターが屋根の修理代で困ってたんだ。街の連中が笑ってなきゃ、俺たちファミリーがこのシマを張ってる意味がねぇだろう?」
マルコが豪快に笑いながら、カガリの前にエスプレッソのカップを滑らせる。
「ほら、飲め。数字をいじるのは極上の葉巻を一本吸い終わってからだ」
「……アンタのそういう甘い経営方針、いつか組織の致命傷になりますよ」
カガリはため息をつきながらも、出されたエスプレッソに口をつけ、マルコから差し出された葉巻に火を点けた。
二人で紫煙をくゆらせながら、テラス席から石畳の街路を眺める。この時間が、若き日のカガリにとって何よりも心地の良い、真の「家族」を感じる瞬間だった。
マルコ・ファルコーネは、文字通りこの街の『太陽』だった。
テラスを出て二人でシマを見回れば、道行く人々が次々と彼に声をかけてくる。
パン屋の主人は焼きたてのバゲットを差し出し、花屋の少女はマルコに抱きつき、裏路地でたむろする不良少年たちすらも、彼を見れば背筋を伸ばして深く道を譲った。
武力による恐怖支配ではない。純粋な敬意と、圧倒的な愛情。
マルコは義理人情に厚く、仲間のためならばどんな矢面にでも立つ男だった。
「……なぁ、カガリ。お前は頭が良い。俺なんかよりずっと、この世界の仕組みが見えてる」
街路を歩きながら、マルコがふと真面目な声で口を開いた。
「でもな。お前みたいに利の計算ばかりして、損なものを切り捨てていくと、いつか一番大事なものを見落とすぞ」
「一番大事なもの?」
カガリが聞き返すと、マルコは立ち止まり、カガリの肩をドンと強く叩いた。
「ああ。いいかカガリ。帳簿の数字ばっかり見てると、一番大事な天秤が狂っちまうぞ。俺たちの命の価値は、損得じゃねぇ。『誰のために命を懸けられるか』――つまり、誇りで決まるんだ」
マルコは自分の胸をドンと叩き、街の人間たちを愛おしそうに見渡した。
「俺は、この街の連中やファミリーのためなら喜んで命を張れる。それが俺の誇りだ。お前にもいつか、損得なんかどうでもよくなるくらい、命を懸けられる『本当の理由』が見つかるさ」
「……非合理の極みですね。俺は、アンタを含めたファミリーの命を最大化するために計算してるんです。誇りだけじゃ、腹は満たせませんよ」
カガリが皮肉交じりに返すと、マルコは「お前は本当に可愛くねぇな!」と大笑いし、カガリの綺麗に撫でつけられた髪を無造作にくしゃくしゃと撫で回した。
「やめてください、セットが崩れる」
「はははっ! さあ、帰るぞ兄弟! ボスが極上のワインを開けて待ってる!」
肩を組んで歩き出す二人。
シチリアの眩しい太陽の下、カガリは心の底から笑っていた。
マルコのその「高潔で非合理な誇り」こそが、カガリにとって何よりも眩しく、守るべき最大の資産だと信じて疑わなかったからだ。
――だが。
その「誇り」という名の美酒が、間もなく組織全体を死の淵へと追いやる猛毒に変わることを、当時のカガリはまだ、計算式の中に組み込めてはいなかった。
◆ ◆ ◆
平穏は、唐突に、そして音もなく引き裂かれた。
「……アジトの周囲五百メートル、完全に包囲されました。武器の質も数も、桁違いです」
深夜のファミリーの拠点。分厚いカーテンが閉められた薄暗い広間で、見張りの若い衆が震える声で報告した。
『ゴライアス・カルテル』。
近年、隣国から凄まじい勢力拡大を続けている巨大な国際的犯罪組織。大昔にレモン農園を守っていた時と大差ないような昔気質のシチリア・マフィアとは違い、莫大な金と暴力だけで全てを蹂躙する「怪物」だ。
彼らは銃を撃ち込むことすらせず、ただ静かに、そして圧倒的な暴力の壁でアジトを囲み、一人の使者を通じて『最後通牒』を突きつけてきた。
『――明日の夜明けまでに、若頭マルコ・ファルコーネの首を差し出せ。さもなくば、このアジトはおろか、お前たちが庇護しているこの街ごと灰にする』
「……ふざけやがって。たかがカルテルの犬どもが、シチリアの誇りを金で買えると思ってやがるのか」
広間の奥で、ファミリーの老ボスが葉巻を噛み砕きながら低い声で唸った。
周囲を囲む若い衆たちの目にも、恐怖よりも強い「怒り」が宿っていた。
「……ボス。みんな。俺が行く」
重い沈黙を破り、マルコが静かに立ち上がった。
「奴らの狙いは、この街で一番顔が利く俺だ。俺の首一つで街の連中とファミリーが助かるなら、安い取引だ」
マルコが腰の拳銃を外し、テーブルの上に置こうとした、その時だった。
「ふざけるなッ!!」
老ボスが机を叩き割り、立ち上がった。
「マルコ! お前を売って生き延びる命に、一体何の価値がある! 我々の誇りを、あの薄汚い外道どもに売り渡すというのか!」
「そうです、マルコ兄貴!!」
若い衆の一人が、涙を流しながら叫んだ。
「兄貴を見捨てて生き延びるくらいなら、俺は死んだ方がマシだ! 一緒に戦いましょう! 俺たちの生き様を、あいつらの脳裏に刻み込んでやるんです!」
「俺も行きます!」
「マルコ兄貴と一緒に、死ぬまで撃ち合ってやる!!」
次々と声を上げる仲間たち。彼らの瞳には、恐怖を完全に麻痺させるほどの強烈な「大義の火」が燃え盛っていた。
マルコは彼らの気高さに言葉を詰まらせ、そのヘーゼルナッツ色の瞳に熱い涙を浮かべた。
「……お前ら……。ああ、分かった。俺たちの命の価値は、誰にも奪わせねぇ。……共に戦おう、兄弟たち!!」
広間が、悲壮な決意と熱狂に包まれた。
(違う……違うだろう……!!)
しかしただ一人、カガリだけが、その光景を愕然と見つめていた。
彼の目には、美しい家族の絆も、気高い自己犠牲も、すべてが「狂気」にしか見えなかった。
彼が頭の中で弾き出した計算式は、限りなくゼロに近い数字を示している。
敵は重武装の数百人。対するこちらは旧式の拳銃を持った数十人。正面から撃ち合えば、数時間以内にファミリーの構成員は一人残らず全滅する。街も灰になる。完全な「崩壊」だ。
マルコのその眩しすぎる『理想』と『カリスマ性』が。
純粋すぎる『誇り』が。
愛する家族たち全員の目を濁らせ、生存確率0%の『死地への行軍』へと嬉々として向かわせる「猛毒」となっている。
「ボス……マルコ兄貴! 目を覚ましてください! これは戦争じゃない、ただの集団自殺だ! 今は誇りを捨ててでも、生き延びる方法を探すのが――」
「黙れ、カガリ!!」
マルコが、かつてないほど厳しい顔でカガリを怒鳴りつけた。
「損得ばかり計算しているお前には分からない! 俺たちは、生きるために誇りを捨てるんじゃない。誇りを守るために生きているんだ!!」
その言葉が、カガリの胸を鋭く抉った。
誰も、カガリの「正論」に耳を貸そうとはしなかった。
◆ ◆ ◆
―――深夜二時。
熱狂に包まれるアジトを一人抜け出したカガリは、裏路地の暗がりで、カルテルの使者である冷酷な目をした男と対峙していた。
「……我がファミリーを全面降伏させる。条件は、残された構成員と街の人間への一切の手出し無用。……この条件で、取引を呑め」
カガリの絞り出すような声に、使者はニヤリと歪んだ笑みを浮かべた。
「いいだろう。だが、降伏の証明として……あの目障りな若頭の首はもらっていく。あいつが英雄のまま死ねば、残った連中はいずれ復讐のために牙を剥くからな」
使者は、カガリの胸に冷たい指先を突き立てた。
「生存ルートは一つだ、若き参謀殿。……夜明け前までに、お前の手でマルコを始末しろ。身内の『裏切り』によって無惨に殺されたとなれば、奴らの誇りも完全にへし折れるだろうよ」
「な……ッ」
カガリは絶叫しそうになるのを必死に堪え、己の唇を噛み破った。
自分が裏切り者の泥を被り、最も愛する兄弟分の命を、その手で断ち切る。
彼を「悲劇の英雄」から「無惨な敗者」へと引きずり下ろさなければ、熱狂の猛毒に侵されたファミリーを止めることはできない。
それが、『愛する家族の命を救うための、たった一つの残酷な計算式』であった。
「…………取引、成立だ」
血の味がする口内で、カガリは感情を殺してそう告げた。
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