譲れぬ騎士道と、追憶の扉
ガレナ渓谷の中央戦線を覆い尽くしていた喧騒が、嘘のように消え去っていた。
炎上する同盟軍本陣の瓦礫の山。その中心で激突する『黄金の軍神』と『白銀の聖騎士』――二人の規格外の武神から放たれる凄まじい覇気は、周囲の空間を物理的に歪曲させるだけでなく、戦場にいるすべての者の「闘争心」そのものを呑み込んでいた。
もはや戦術も、兵力差も、陣営の思惑すらも関係ない。
すべてをかなぐり捨てて逃亡した総帥たちとは違う、純粋に己の命と誇りだけを懸けた「本物」の決闘。その神話的な光景を前に、誰一人として泥に塗れた命のやり取りを続ける気力など湧かなかったのだ。
両軍が不可侵の円形闘技場と化した戦場の中央で、極限の死闘はついに臨界点を迎えた。
『ギィィィィィィンッッッ!!!!!』
レオンハルトの放った『極点圧縮・引力突』。
極限まで圧縮された重力によって「空間の断層」と化したカラドボルグの極薄の刃が、アシュレイの白銀の大剣と正面から噛み合う。
「おおおおおおッ!!」
アシュレイが口から鮮血を撒き散らしながら、己の全存在を懸けた大義の魔力を爆発させる。
だが――レオンハルトの槍に込められた、対個人に特化させた極大の引力と斥力のコントロールは、アシュレイの純粋な魔力放出を紙一重で上回っていた。
「……悪いな。俺はもう、負けるわけにはいかねぇんだよ!」
レオンハルトが咆哮と共に腕を捻り、槍の穂先に発生させていた重力のベクトルを「横」へとスライドさせた。
アシュレイの防御の軸が、その理不尽な引力によって強制的にズラされる。
「しまっ――」
空いた絶対的な死角。そこへ、レオンハルトの凄まじい踏み込みが炸裂した。
『ガァァァァンッ!!』
甲高い金属音と共に、アシュレイの大剣が手から弾き飛ばされ、宙を舞って遠くの瓦礫に突き刺さる。
同時に、レオンハルトのカラドボルグの冷たい穂先が、体勢を崩したアシュレイの首筋にピタリと止められた。
あと数ミリ押し込めば、その首は容易く刎ね飛ぶ。
完全なる決着。圧倒的な質量を誇った皇帝同盟の最後の盾が、完全に崩れ去った瞬間だった。
「……勝負あったな。アンタの負けだ、聖騎士殿」
レオンハルトは荒い息を吐きながら、首元に槍を突きつけたまま低く告げた。
「これ以上、無駄な血を流す必要はねぇ。……降参ろ。そこの部下たちを連れて、国へ帰れ」
それは、悪徳ギルドの用心棒らしからぬ、レオンハルトの元・騎士団長としての最大限の情けだった。
だが、首筋に極薄の刃を突きつけられたアシュレイは、血塗れの顔を上げ、透き通るような青い瞳でレオンハルトを真っ直ぐに睨み返した。
「……断る。私の首を刎ねろ」
迷いのない、確固たる拒絶。
レオンハルトは眉根を寄せた。
「……アンタの命はもう詰んでるんだ。ここで意地張って死ぬことに、何の意味がある?」
「意地ではない。これは、私の背負うべき『責任』だ」
アシュレイは背後を――炎上する本陣と、怯えながらこちらを見つめる同盟軍の末端の兵士たちを振り返った。
「総帥たちは逃げた。彼らにとって、我々はただの数字でしかなかったのだろう。……だが、彼ら兵士たちは違う。上層部の非道な命令に葛藤しながらも、同盟の誇りを信じ、泥に塗れ、理不尽に散っていった私の大切な同志たちだ」
アシュレイの言葉に、周囲で見守っていた同盟軍の兵士たちの肩が震え、嗚咽を漏らす。
「私がここで命を惜しんで降伏すれば……彼らの流した血も、信じた誇りも、すべてが泥に塗れた『無駄死に』へと変わってしまう! 私の命は、彼らの誇りを証明するための最後の供物なのだ!! 殺せ、軍神!!」
血を吐くようなアシュレイの絶叫が、ガレナ渓谷に響き渡った。
「…………ッ」
レオンハルトはギリッと奥歯を噛み締め、カラドボルグの柄を握る手に力を込めた。
突き刺せば終わる。それがカガリの帳簿における最も効率的な決済だ。
だが――レオンハルトの槍の穂先は、アシュレイの首の皮一枚を破ったところで、どうしてもそれ以上先へ進むことができなかった。
(クソッ……なんて眩しい野郎だ……)
レオンハルトの脳裏に、王国時代に自身が抱いていた青臭い正義感がフラッシュバックする。
守れなかった部下。腐敗した貴族。どうしようもない現実の前に、彼は大義を捨て、酒に逃げた。
だが目の前の男は、すべてを失ってもなお、その眩しすぎる「理想」をたった一人で背負って立とうとしている。
自分がかつて捨てざるを得なかった、最も気高く、最も愚かな騎士の姿。
それに槍を突き立てることは、レオンハルトにとって、かつての自分自身の魂を永遠に否定することと同義だった。
「……あァ、クソッ……。俺も、ヤワになっちまったもんだな……」
レオンハルトは自嘲するように呟き、微かに槍を持つ手を震わせた。
その光景を、周囲のアルカディアの幹部たちも静かに見つめていた。
「……見事な武士でござるな。あのような将が上に立っていれば、あの軍も腐ることはなかったであろうに」
マサムネが、静かに鯉口を鳴らして敬意を示す。
「ああ。あれこそが本来の騎士の姿だ。……レオンハルト殿が迷うのも無理はない。武人であれば、あの眩しさに目を焼かれない者などいない」
カトレイアが大盾を下ろし、悲痛な溜息を漏らす。
遠くの岩山から見下ろしていたクロウも、チッと舌打ちをして目を伏せた。
「……馬鹿野郎が。あんなツラ見せられりゃ、いくら俺たちでも、後ろから殴りつける気なんて失せるだろうが」
「……ドワーフの浪漫とは対極にある、ひどく脆くて美しいだけのガラス細工ですな。……だが、決して嫌いではありませぬ」
重機の中から、バルカスがぽつりとこぼす。
「馬鹿みたい。負けを認めればいいのに……でも、あれじゃまるで、昔の私ね」
セレーネはかつて不当な契約に縛られ、カジノの警備を一人で背負い込もうとしていた自分自身を重ね合わせ、切なげに大剣を握りしめた。
「ふむ……美しい自己犠牲ですね。帳簿上は全くの無価値ですが、芸術品としての鑑賞価値は極めて高い」
ヴィクトルすらも、赤い瞳を細めてその高潔な魂の輝きを称賛していた。
誰もが、アシュレイの高潔さに心を打たれ、レオンハルトの迷いに痛いほどの共感を抱いていた。
◆ ◆ ◆
バビロン最上階。
魔導スクリーン越しにその光景を見守っていたアリサは、祈るように両手を胸の前で組み、涙を浮かべていた。
「……カガリさん、もう十分です。あの人を無理やり死なせるなんて……」
エルセもまた、普段の軽口を封印し、沈痛な面持ちでスクリーンの映像を見つめている。
アルカディアの誰もが感情に揺れ、戦場の時間が完全に静止していた。
だが――。
この広大な世界でただ一人、元マフィアの相談役であるカガリの瞳だけは、一切の熱を帯びることなく、絶対零度の冷徹さを保っていた。
「…………」
カガリはソファに深く腰掛けたまま、無機質な動作で銀の懐中時計をパチンと開いた。
カチ、カチ、と規則正しく時を刻む秒針の音が、静まり返った執務室に響く。
画面の中、かつての自分に似た高潔な騎士を殺せずに迷うレオンハルトの姿。
それを見つめるカガリの脳裏に、不意に『前世の記憶』の扉が開いた。
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