蒼海の悔恨と、反旗の決意
―――時計の針を、少しだけ巻き戻す。
バビロンの西方に広がる巨大な港湾都市。
『蒼海の三叉槍』の母港であり、かつては大陸一の美しさを誇ったその海は、今や見る影もなく変わり果てていた。
深夜の静まり返った桟橋。潮騒の音すら重く淀んだその場所で、海軍大提督クレイグ・タイドウォーカーは一人、膝をつき、水面に両手を浸していた。
彼の視線の先にあるのは、月光を反射することすらできない、どす黒く濁った海面。
皇帝同盟の総帥が、アルカディアの物流網を機能不全に陥らせるために強行した広域環境汚染。その代償として海流に乗って逆流した猛毒の遅効性魔薬が、彼らの母港の生態系を完全に殺し尽くしていたのだ。
「……ぐ、ぅぅ……ッ!」
クレイグの分厚い胸板が微かに震え、口の端からドス黒い血が滴り落ちる。
彼は今、己の生命力そのものである魔力を削り、直接海へと流し込むことで、桟橋周辺の僅かな範囲だけでも汚染を中和しようと試みていた。しかし、天文学的な総量の汚染物質に対し、個人の魔力など毒の海に落ちた一滴の真水に過ぎない。
「……また、救えなかったか」
波打ち際に無数に打ち上げられた魚の死骸を見下ろし、クレイグはギリッと拳を握りしめた。
アルカディアを沈めるという総帥の至上命令。
その大義のためならば、自らの命より愛した海を殺すことも正当化される。組織の決定に逆らえば、何万という配下の海兵たちが反逆罪で粛清される。
己の保身と引き換えに、故郷を毒の海へと変えてしまった自らの無力さを、彼は心の底から呪っていた。
「――愛するものを売り払って得た椅子は、随分と座り心地が悪そうだな、提督」
背後の闇から、不意に静かな声が響いた。
「誰だッ!!」
クレイグは振り返るや否や、背に負っていた身の丈ほどもある巨大な鋼の錨の柄を掴み、大気を引き裂くほどの速度で背後へと振り抜いた。
長年無敗の艦隊を率いてきた海将の、殺意すら置き去りにする物理の暴力。
『―――ガァァンッ!!』
鈍く重い金属音が、夜の港に響き渡る。
だが、鋼の錨は誰の肉も砕いてはいなかった。
クレイグの死角から音もなく放たれていた拳――闇に溶け込んでいたハーフ・ビーストのクロウが、極限まで練り上げられた回し蹴りと魔力相殺のナックルダスターで、莫大な質量を持つ錨の柄を完全に「殺して」いたのだ。
「……簡単に首を取れると思うなよ、陸の犬が」
クレイグが凄む。その錨越しに伝わる常軌を逸した膂力に、クロウは鋭い三白眼を細め、獣のように喉を鳴らした。
「へぇ……。こんだけ重てェ鉄の塊を、片手でやすやすと振るうたァ。……大した水兵さんだ。まともに喰らえば、骨ごと砕けそうだぜ」
クロウが格闘の構えを解かずに低く笑う。
その背後から、完璧に仕立てられたスリーピース・スーツに身を包んだカガリが、葉巻の煙を燻らせながらゆっくりと歩み出てきた。
さらにその後ろには、精密な工具箱を提げたドワーフの職人――バルカス・ロッソの姿がある。
「アルカディアの……ボスか? 護衛の数も揃えずに敵の拠点のど真ん中に現れるとは、随分と命が安いらしいな」
クレイグは巨大な錨を構えたまま、カガリを睨みつけた。
圧倒的な威圧感。だが、カガリは片手でポケットを探り、銀の懐中時計を取り出してパチンと蓋を開けた。
「命の値段を決めるのは市場だよ。そして今、最も暴落しているのは貴殿の『誇り』だ」
カガリは歩みを止め、クレイグの血が滲んだ口元と、どす黒く濁った海を見下ろした。
「自国の海を殺してまで、敵国に毒を撒き散らす。……皇帝同盟という組織は、目先の武力のためにインフラの寿命を削る、典型的な三流の経営手法をとっているようだ。己の命を削ってまで下水を浄化しようとする貴殿の忠誠心は立派だが……それも無駄なコストだ。いずれ組織ごと腐り落ちる」
「……貴様に、我々の海の何が分かる!!」
クレイグの怒声が夜の海に響く。
「分からんよ。私は相談役だ。感情論ではなく、数字と利益でしか物事を判断しない。だからこそ……貴殿に『圧倒的に利益の出る取引』を持ちかけに来た。……バルカス」
カガリが顎で合図をすると、バルカスが恭しく一礼して前へ出た。
「カガリ様、準備は完了しておりますぞ」
バルカスは海水を無造作にガラスのコップで掬い上げると、工具箱から取り出した「黒い鉱石が詰まった筒状のフィルター」を取り付けた。
「皇帝同盟の技術者どもは、一度撒いた汚染魔力は不可逆だとでも言っているのでしょう。ですが、ドワーフの浪漫と、極小単位の精密魔導工作……お目にかけましょう」
バルカスが筒の上部から、濁った汚染水を流し込む。
筒の中で魔力相殺鉱石が青白く発光し、精密極まりない駆動音を立てた。
次の瞬間。
フィルターの底から滴り落ちたのは、濁りなど一切ない、透き通った無色透明の水だった。
「な……ッ!?」
クレイグが驚愕に目を見開く。
「私が組み上げた『特注・広域海洋浄化装置』の心臓部ですぞ。こいつを海流の拠点や魔力炉に組み込めば、この海の汚染物質は分子レベルですべて中和できる計算です」
バルカスは浄化された水が入ったコップを、静かにクレイグの足元へ置いた。
クレイグは震える手で、その透き通った水を見つめる。
しかし次の瞬間、彼は巨大な錨の切っ先を、一瞬の躊躇もなくカガリの喉元へと突きつけた。
クロウが殺気を膨れ上がらせ、一歩踏み出そうとする。だが、カガリは片手でそれを制し、表情一つ変えずにクレイグの目を見据えた。
「……貴様らアルカディアも、海を『利益の道具』としか見ていないのだろう? なぜ敵国の海を救う? 綺麗事で私を騙せると思うなよ、コンシリエーレとやら」
クレイグの殺意の籠もった問い。それに、カガリは葉巻の煙を長く吐き出し、極めて冷徹な声で返した。
「インフラの死んだ港は、一円の価値も生まない不良債権だ。私は『美しい海』に投資しているのではない。『莫大な利益を生む海』に投資するのだ。だから、絶対に守る」
カガリの瞳には、一切の欺瞞も、偽善もなかった。
そこにあるのは、結果を約束する冷酷なまでの合理性だけだ。
「タダではないぞ、提督。これはビジネスだ」
カガリは錨の刃先を指先で退け、懐から一枚の羊皮紙――契約書を取り出した。
「我がアルカディアに寝返り、皇帝同盟の背中を撃て。条件はそれだけだ。報酬として、この浄化設備の独占提供と、皇帝同盟の制圧後……我がアルカディア・グループ傘下における『西側海域の完全な自治権』を約束しよう」
クレイグは静かに目を閉じ、潮騒の音に耳を澄ませた。
重く淀んだ波の音は、悲鳴のように聞こえた。ここで彼が保身に走れば、海は二度と元には戻らない。部下たちもまた、誇りを失った抜け殻のまま死んでいく。
だが、目の前の男の「嘘のない欲望」に従えば、海は必ず蘇る。
「……総帥の元に残ったとて、私の誇りはすでに泥水の中に沈んでいる」
クレイグが目を開く。
その瞳には、かつての『蒼海の三叉槍』を率いていた海の男としての、猛烈な覚悟の火が宿っていた。彼は巨大な錨を背に収め、カガリの手から契約書をひったくるように受け取った。
「良いだろう、アルカディアのコンシリエーレ。この契約、このクレイグの魂に懸けて承諾しよう。……同盟の艦隊の砲門は、私が必ず本陣へと反転させてみせる」
「賢明な判断だ。……これで、盤面は完全にひっくり返る」
カガリは契約書を受け取ると、懐に収め、優雅に身を翻した。
「クロウ、バルカス。帰るぞ。総力戦の準備だ」
海神の寝返り―――。
『最強のジョーカー』が、アルカディアの帳簿に刻み込まれた瞬間であった。
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アクアマン観ました?めっちゃかっこいいですよね。クレイグはあんな感じをイメージしてます。
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