腐敗する兵站と、見えざる闇市
魔法都市バビロン――旧『叡智の冠』本部タワー、最上階。
かつてゼノ・メビウスが絶対的な権力で支配していた玉座の間は、今やアルカディアの最前線基地として機能していた。
壁一面に展開された魔導スクリーンには、バビロンの西方に広がる「ガレナ渓谷」周辺の精緻な俯瞰映像が映し出されている。
バルカスの魔導技術と、エルセの『精霊の耳』を連動させて構築した、広域監視システムである。
「……前哨戦から三日。皇帝同盟の十万の軍勢は、ガレナ渓谷から一歩も動けていませんね。レオンハルトさんとマサムネさんが与えたプレッシャーが、相当効いているようです」
ソファに優雅に腰掛け、紅茶を啜りながらエルセが淡々と状況を解説する。
「十万って……数字だけ聞くと気が遠くなりそうだけど、本当に大丈夫なんですか、カガリさん?」
受付嬢の制服のまま、スクリーンの異常な数の赤い光点(敵兵)を見つめ、アリサが不安げに眉を下げる。
彼女の隣では、カガリが静かに葉巻の煙を吐き出しながら、手元の分厚い帳簿とスクリーンを交互に見比べていた。
「心配はいらないよ、お嬢さん。むしろ、相手の数が『十万』で助かっているくらいだ」
「助かってる……? 数が多い方が普通は不利じゃないですか?」
「それは単純な物理法則の話だ。経済のルールでは、抱える人員が多ければ多いほど、少しの『滞り』が致命的な内部崩壊を招く」
カガリは手帳のページをパラリとめくった。
「十万の人間が一日行動せずに滞在すれば、どれほどの食糧と水、そして娯楽が必要になると思う? 彼らの兵站は、すでにパンク寸前だ。……我がファミリーの『影の物流部門』が、良い仕事をしている証拠だな」
カガリのブラウンの瞳の奥で、冷徹な青い光が脈動した。
◆ ◆ ◆
バビロンから数十キロ西。ガレナ渓谷の手前に布陣する、皇帝同盟の大軍勢の野営地。
降り続いた泥雨は止んだものの、足元はぬかるみ、兵士たちの士気は最悪の泥沼に沈んでいた。
最前線の巨大な岩の防壁には、見えない「恐怖」がこびりついている。いつまた、あの理不尽な重力の槍と神速の刃が降ってくるかわからない。
その極限のストレスの中、兵士たちの間に「奇妙な噂」が蔓延していた。
野営地の裏手、見張りの目が届かない深い森の奥。
そこに、夜な夜な『美味い酒と干し肉』を売りに来る奇妙な商人たちが現れるというのだ。
「……おい、今日は酒はあるか? 昨日の夜から、支給されるパンがカビてやがって食えたもんじゃねぇんだ」
こっそりと森を訪れた同盟軍の歩兵の一人が、暗闇に向かって小声をかける。
すると、木立の影から、派手な毛皮を羽織った初老の男――アルカディアの裏の物流を担う高利貸し、ザロフが嫌らしい笑顔を浮かべて姿を現した。
「ヒッヒッヒ。おいでなすったね、兵隊さん。極上のエール酒と、九条の里で採れたての新鮮な野菜のスープがあるぜ。……ただし、代金は金貨じゃねぇ。あんたが持ってる、その『魔導通信機』だ」
「通信機……? だが、これは小隊長の……いや、背に腹は代えられねぇ! 持ってけ!」
兵士はあっさりと軍の備品をザロフに渡し、代わりに温かいスープと酒を受け取った。
「毎度あり! 次は『防衛結界のシフト表』を持ってきたら、極上のステーキをつけてやるよ」
こうした光景が、野営地の至る所で同時多発的に発生していた。
クロウが率いる遊撃部隊とザロフの手下たちが、ガレナの森に無数の『闇市』を形成したのだ。
飢えと恐怖に苛立つ末端の兵士たちにとって、アルカディアが流す美味い食事と酒は、麻薬のような甘い誘惑だった。
武器、防具、魔導具、さらには軍の機密情報。
それらが次々と、パンや酒と交換され、アルカディア側へと横流しされていく。
敵を物理的に殺すのではなく、欲望によって内側から腐らせる。これこそが、マフィアの相談役が仕掛けた「経済的猛毒」であった。
◆ ◆ ◆
「……信じられん。これは一体、どういうことだ……!」
皇帝同盟軍の本陣、巨大な指揮用テントの中。
財務・兵站統括官であるシオン・マーチャントは、手元の報告書を見て血の気を失っていた。
プラチナブロンドの髪を几帳面に撫でつけ、一切の隙のない軍服を着こなす彼は、同盟軍における数少ない「理性を重んじる頭脳」である。
「第一大隊の予備武器が三割消失……第四大隊の食糧配給がストップ……おまけに、陣中になぜか『アルカディア印の手形』が出回っているだと!?」
シオンの指が微かに震える。
十万の軍を動かすという「天文学的なコスト」。
それを維持するために彼が緻密に組み上げたはずの兵站網が、見えない何者かの手によってボロボロに食い破られている。
兵士たちの間で、同盟の金貨の価値が暴落し、代わりに「闇市で使えるアルカディアの手形」が絶対的な価値を持ち始めていた。これは軍隊という組織における、完全な「信用不安」の始まりを意味していた。
「……ッ、すぐにガレス大隊長たちに報告し、末端の取り締まりを強化しなければ……このままでは、アルカディアと戦う前に軍が崩壊する!」
シオンが天幕を飛び出そうとした、その時だった。
『――シオン。騒々しいぞ』
空気が、異様な重圧で凍りついた。
天幕の奥。薄暗い上座に置かれた二つの巨大な椅子に、いつの間にか「座っていた」者たちがいた。
「そ、総帥……! ならびに、副総帥まで……!」
シオンは咄嗟に片膝をつき、頭を垂れた。
右の椅子に座るのは、白髪を逆立て、全身からチリチリと青白い放電を散らす老人。
左の椅子に座るのは、眼帯をつけ、周囲の空気を歪ませるほどの暴風を無意識に纏う老人。
かつて大陸を武力で平定した時代の生き残りであり、皇帝同盟の頂点に君臨する二人の絶対者。
『雷神』と『風神』の異名を持つ、生きた災害クラスのバケモノたちだった。
そして彼らの前に、白銀の特注甲冑に身を包んだ清廉なる騎士――副総帥アシュレイ・ヴァン・ルージュが、苦渋に満ちた表情で立っていた。
「総帥……! 前線の兵士たちは疲弊しています。アルカディアの得体の知れない策により、補給が断たれ、士気が下がっているのです。ここは一度軍を引き、態勢を立て直すべきです!」
アシュレイが悲痛な声で進言する。
しかし、雷を纏う老総帥は、虫でも払うかのように鼻を鳴らした。
『……兵が疲弊している? 士気が下がっているだと? アシュレイよ、貴様は未だにそんな「人間」の都合で戦を考えているのか』
老人の赤い目が、ギョロリとアシュレイを睨む。
『我々の力をもってすれば、アルカディアなど城塞ごと灰燼に帰すことなど容易い。……ネズミどもの小細工で兵が逃げるというのなら、逃げた兵ごと吹き飛ばせばよいだけの話だ』
「な……っ!? 自軍の兵士ごと、大地を焼くおつもりですか!?」
アシュレイが絶望に目を見開く中、風を纏うもう一人の総帥がゆっくりと立ち上がった。
『……退屈な前哨戦は終わりだ。我々自らが赴き、十万の兵を「肉の盾」としてアルカディアを踏み潰す。……シオン、全軍に突撃の号令をかけろ』
圧倒的な暴力の権化たちが、ついに重い腰を上げた。
戦術も兵站も無視した、純粋な「災害」による力押しの進軍。アシュレイの理想も、シオンの計算も、彼らの圧倒的な力の前では無意味だった。
◆ ◆ ◆
「……やはり、バケモノはバケモノらしく、力で盤面をひっくり返しに来たか」
バビロン最上階。
スクリーンに映る同盟軍本陣の異常な魔力反応を見て、カガリは静かに懐中時計を閉じた。
「カガリさん! 敵の大軍が、一気にこっちに向かって動き出しました!」
アリサが緊迫した声で叫ぶ。
「ああ。十万の烏合の衆と、二匹の理不尽な災害……面白い監査になりそうだ」
カガリは立ち上がり、黒いスーツの埃を優雅に払い落とした。
「レオンハルト、マサムネ、カトレイア。そしてセレーネとザザを前線へ。……迎え撃て。我がアルカディアの役員が、時代遅れの老害どもに劣るはずがないことを証明してこい」
かくして。
マフィアの経済工作によって内側から腐り落ちた同盟軍と、アルカディアの最強戦力が真正面から激突する、「総力戦」の火蓋が切って落とされたのであった。
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