前哨戦②査定される夜 〜月光の領域と、白黒の獣〜
バビロンの地下水路は、淀んだ魔力と冷たい汚水が支配する暗闇の世界だった。
都市の防衛網を抜け、中枢部へと通じるその裏道に、音もなく潜入を果たす影の群れがあった。
皇帝同盟軍『蒼海の三叉槍』に属する暗殺部隊『深海』。その隊長であるミラージュ・ヴァイパーは、大気中の水分と同化する特殊な隠密魔術によって、完全に自身の気配と魔力を断ち切っていた。
「……上空の気象部隊が暴れ始めた頃合いだ。アルカディアの連中は空の防衛に気を取られている。このまま中枢の魔力炉を破壊し、幹部どもの首を頂く」
ミラージュが部下たちにハンドサインを送り、地下水路の広間へと足を踏み入れた、その瞬間だった。
「――悪いな。この先は、俺たち『バビロン警備部』の管轄だ」
暗闇の奥から、低く理知的な声が響いた。
「誰だ!」
ミラージュが鋭く声を上げると、魔導ランプの薄暗い光の中に、二つの影が浮かび上がった。
一人は、漆黒のスーツを無造作に着崩し、両手に魔力相殺の鉱石を仕込んだナックルダスターを嵌めたハーフ・ビーストの青年、クロウ。
そしてもう一人は、同じくカガリから支給された特注のブラックスーツを窮屈そうに纏った、二メートル近い巨体を持つ純粋な獣人――ザザだった。
「スラムのゴミどもか。貴様らのような野良犬が、皇帝同盟の精鋭に勝てるとでも?」
ミラージュが冷笑を浮かべ、部下たちに攻撃の合図を送る。
十数人の暗殺者たちが一斉に隠密状態を解除し、猛毒の刃を構えて二人へと殺到した。
「……クロウ。俺たちの『初仕事』だ。ボスに減給を喰らわねぇよう、速やかに終わらせるぞ」
「俺に指図すんじゃねぇよ、白黒野郎」
ザザが一歩前に出た瞬間、彼の全身を覆う「白と黒の縞模様」の毛皮が、異様な魔力光を帯びてチカチカと明滅を始めた。
「死ねッ!」
ミラージュの部下が放った必殺の刺突が、ザザの心臓を正確に捉える。
だが。
「……なっ!?」
刃は、ザザの肉体をすり抜け、空を切った。
刺突が触れたザザの胸の「黒い縞模様」の部分が、実体を持たない『影』のように透過したのだ。
「甘いな」
驚愕する暗殺者の頭部に、ザザの巨大な拳が振り下ろされる。
その瞬間、ザザの拳の毛皮が「純白」に輝いた。
『ガァァンッ!!』
凄まじい衝撃音が地下に響き渡り、暗殺者の頭蓋が鋼鉄のハンマーで叩き潰されたかのように粉砕された。
ザザの純獣人としての固有能力――【位相獣化】。
白の模様は『絶対的な硬度』を持ち、黒の模様は『質量のない影』となる。視覚の錯覚と質量変化を瞬時に切り替える、極めてトリッキーかつ暴力的な肉体変化であった。
「バカな……! 物理攻撃がすり抜けた上に、あの破壊力だと!?」
「よそ見してる暇はねぇぞ!」
動揺する暗殺者たちの隙を突き、クロウが神速のステップで懐に飛び込む。魔力相殺のナックルが次々と急所を撃ち抜き、敵の陣形はまたたく間に崩壊していった。
「ええい、使えない屑どもめ! ならば私が直接――!」
ミラージュが自身の肉体を水と同化させ、不可視の刃となってザザの背後から迫る。
水分に溶け込んだ状態からの奇襲。物理的な防御は不可能。
だが、ザザは振り返ることすらなく、背中の「白い縞模様」を一気に拡張させた。
『ギィィィンッ!』
ミラージュの水刃は、ザザの背中の絶対硬度に激突し、乾いた音を立てて弾き返された。
「……俺たちのシマを荒らそうとしたツケだ。高くつくぜ」
「がはァッ!?」
弾かれて実体化したミラージュの腹部を、ザザの「白く」発光した豪腕が正確に打ち抜く。
皇帝同盟が誇る暗殺部隊の隊長は、その一撃で内臓を完全に破壊され、汚水の中へと沈んでいった。
「……これで全部だ。査定完了だな」
クロウがナックルについた血を振り払いながら呟く。
「ああ。上も、そろそろ終わる頃合いだろう」
ザザはスーツの乱れを軽く整えながら、天井の彼方を見上げた。
◆ ◆ ◆
バビロンの上空は、狂気に満ちた暴風の宴と化していた。
ルミラが形成した厚い雷雲から、極限まで圧縮された「細い竜巻」が、落雷を伴いながら数十本もの『暴風の縛鎖』となって地上を打ち据えている。
「素晴らしいわ、ルミラ! もっとよ、もっと絶望を降らせなさい!」
巨大な浮遊盤の上で、深淵魔術官セリアが嗜虐的な笑い声を上げる。
ルミラは虚ろな瞳のまま、ただ機械的に杖を振り下ろす。彼女にとって、それは天候操作という自身の力を、組織の「兵器」として出力するだけの単調な作業だった。
「――随分とやかましい天候ね。そんな雑音じゃ、綺麗な月も見えないじゃない」
「……何者!?」
突如、浮遊盤の真横の空中に、真珠色に輝く『硬質な水滴の階段』が形成された。
そこに立っていたのは、身の丈ほどもある巨大な大剣を肩に担いだ銀髪の少女、セレーネと、その背後で大盾を構える赤髪の女騎士、カトレイアだった。
「ごきげんよう、皇帝サマの犬ども。……あんたたちのそのネチネチした風、鬱陶しいからウチの盾騎士に頼んで階段を作ってもらったのよ」
「絶対防壁の応用だ。空中の雨粒を固定し、ここまで駆け上がってきた」
カトレイアの黄金の瞳が、冷徹にセリアを射抜く。
眼下では、ルミラの放つ数十本の暴風の鞭が、カトレイアの展開した『静止』のドームに激突しては、すべての運動エネルギーを奪われてピタリと空中で停止していた。
「……チッ。忌々しい防壁ね。ルミラ、あの大剣を持ったガキを竜巻で八つ裂きにしなさい!」
セリアの命令に反応し、ルミラが杖をセレーネへと向ける。
五本の巨大な暴風の鞭が、大気を切り裂くような音を立ててセレーネへと殺到した。
「……セレーネ殿!」
「心配無用よ。あんな風遊び、私の剣の敵じゃないわ」
セレーネは不敵に笑うと、背負っていた巨大な大剣を両手で構え、莫大な魔力を込めて空間を大きく一振りした。
ブォォォォォンッ!!
大剣が空気を切り裂き、空間そのものを強烈に振動させる。
その直後。セレーネを中心とした半径数十メートルの空間が、美しい『月夜の星空』へと一瞬にして塗り替えられた。
「な、何!? 空間が……星空に!?」
セリアが驚愕の声を上げる。
セレーネの特殊魔力――【月境領域】。
大剣が振動させた空間の中に形成されるその領域は、彼女にとって絶対的な優位をもたらす「月夜の牢獄」となる。
ルミラの放った五本の暴風の鞭がセレーネに迫る。
だが、セレーネの姿がフッと月光のようにブレて消失した。
『シュンッ!』
次の瞬間、セレーネはルミラの真横の空中に姿を現していた。
彼女の移動の軌跡には、美しい「三日月の光」が残されている。
「この領域内なら、私は自由に移動できるの。……もっとも、『三日月の軌道』でしか動けないっていう窮屈な縛りはあるけどね」
セレーネは空中で大きく身体を反らせ、大剣を振りかぶった。
「でも、そのおかげで……この大剣には、止めることのできない『遠心力』が乗り続けるのよ!!」
三日月の軌道で極限まで加速された、莫大な物理的質量を誇る大剣の一撃。
「防壁展開ッ!!」
セリアが咄嗟に、多重の魔法防壁をルミラの前に展開する。
だが。
『ガァァァァァァンッッ!!!』
セレーネの大剣は、その絶対的な遠心力の暴力で、セリアの防壁を空間ごとガラスのように叩き割った。
「きゃぁぁっ!?」
防壁の破片と共に凄まじい衝撃波が襲い、セリアとルミラが浮遊盤の上で大きく体勢を崩す。
「まだまだ行くわよ! 『朔望・満月牢』!!」
セレーネは領域内を三日月の軌道で連続で瞬間移動を繰り返した。
右から、左から、上から、下から――――。
無数の三日月の軌跡が空間に重ね合わされていく。弧と弧が交差し、やがてそれは逃げ場のない「満月」の形をした巨大な斬撃の牢獄となって、セリアたちを包み込んだ。
「くゥッ……! ば、バカな……! ただの物理攻撃が、これほどの魔力を持つなんて……!」
セリアは全身に細かい切り傷を負いながら、己の深淵魔術で必死に防ぐのが精一杯だった。
大剣の物理的な破壊力と、月光の美しさを伴う魔力の融合。
それが、「月光」の異名を持つセレーネの真の力であった。
「……セレーネ。オーナーの指令は『査定』だ。これ以上の破壊は、敵の戦力を完全に削いでしまう。目的に反するぞ」
カトレイアが冷静な声で忠告する。
「……チッ。分かってるわよ」
セレーネが大剣の動きを止めると、月夜の星空の領域がフッと解け、元の紫色の雷雲の世界へと戻った。
満身創痍となったセリアは、荒い息を吐きながらセレーネたちを睨みつけた。
「……今日はこのくらいにしておいてあげるわ。アルカディア、せいぜい今のうちに命を惜しんでおくことね」
セリアは極めて冷徹な判断力で不利を悟ると、浮遊盤に魔力を込め、凄まじい速度で後方へと急旋回した。
「ルミラ、撤退よ! さっさと雲を引かせなさい!」
「……はい」
ルミラは傷を負いながらも表情を変えず、淡々と杖を収めた。
セレーネは大剣を肩に戻し、夜の闇に消えていく浮遊盤の後ろ姿――一切の感情を見せず、ただ命令に従うだけのルミラの横顔を思い出し、微かに眉をひそめた。
「……あの子、人形みたいだったわね。少し、胸糞悪い組織だわ」
かくして、魔法都市バビロンを巡る前哨戦は、アルカディア側の完全な『査定完了』によって幕を閉じた。
神速と重力による陸の蹂躙。
そして、位相の獣と月光の大剣による闇と空の制圧。
皇帝同盟軍が誇る十万の軍勢に、見えない「恐怖」という名の強烈な負債が、確実に重くのしかかろうとしていた。
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