十万の威容と、スラムの傭兵たち
セレーネとその警備部隊『星降る剣』が戦力に加わってから約1月。
大陸の中央平原。
魔法都市バビロンから数里離れた広大な丘陵地帯は、見渡す限りの軍幕と軍旗によって完全に埋め尽くされていた。
『日輪の鷲』と『蒼海の三叉槍』――大陸を長年支配してきた二大皇帝ギルドが結成した、歴史上初となる巨大同盟軍。
その数、実に十万。
空には数千の飛竜が太陽の光を遮るように旋回し、大地を埋め尽くす重装歩兵たちの鎧は、潤沢な魔力によって黄金と白銀の輝きを放っている。
陣の奥には山のような兵糧が積まれ、数十基の巨大な軍事用魔力炉が絶え間なく唸りを上げていた。
大陸の覇者たる皇帝ギルドが顕現させた「暴力の完全体」であった。
その本陣のさらに奥。
豪奢な装飾が施された巨大な天幕の中で、同盟軍の財務・兵站統括官であるシオン・マーチャントは、手元の魔導板を見つめながら眉間に深い皺を刻んでいた。
「……信じられん。バビロンの物流網が、たった数ヶ月で完全に再構築されている」
プラチナブロンドの髪を几帳面に撫でつけ、一切の隙のない軍服を着こなすシオンは、冷徹な算盤使いとして皇帝ギルドの莫大なリソースを管理してきた男だ。
彼の視線の先にあるデータ――アルカディアに奪われたバビロン市場の金脈の動きは、彼の常識を根底から破壊するものだった。
「関所の撤廃による流通コストの極限カット。黒鉄連峰から産出された魔石の即時現金化。……一切の無駄がない。なんだこの美しすぎる『帳簿』は。魔法というルールを力技で押し付けてきた我々とは次元が違う」
シオンの呟きには、未知の合理性に対する微かな戦慄が入り混じっていた。
「――随分と熱心だな、シオン」
天幕の入り口が開き、涼やかな声と共に一人の男が入ってきた。
白銀の特注甲冑に身を包んだ長身の騎士。
『日輪の鷲』副総帥にして、十万の軍の精神的支柱――聖騎士団長、アシュレイ・ヴァン・ルージュ。
端正な顔立ちと、透き通るような青い瞳。圧倒的な武力と清廉潔白な人望を兼ね備えた、まさに絵に描いたような「理想の騎士」であった。
「前線の偵察部隊からの報告が上がってきたぞ。……バビロン周辺に展開しているアルカディアの戦力は、数で言えば我々の十分の一にも満たない。だが、質が異常だ。あれほどの戦士たちと刃を交えることができるのは、武人として血が湧き立つ思いだよ」
アシュレイの言葉に、シオンは冷たく鼻を鳴らした。
「武人の誇りか。相変わらずだな、お前は。……だがアシュレイ、総帥たちの考えは違うぞ」
シオンは手元の魔導板を操作し、一枚の作戦書を空中に投影した。
「先ほど、両ギルドの総帥から直々の命令が下った。アルカディアをあぶり出すため、バビロン周辺のスラム街を、民間人ごと『広域殲滅魔法』で焼き払えとのことだ。……手っ取り早く、見せしめにするためにな」
「……何だと?」
アシュレイの青い瞳から、スッと温もりが消え去った。
「罪なき民を、我々の都合で焼き払うというのか。それは……騎士の大義に反する。我々皇帝ギルドは、圧倒的な力で民を庇護するがゆえに覇者たり得たはずだ!」
「その『大義』を維持するコストが、跳ね上がっているんだ。十万の軍を一日駐留させるだけで、天文学的な金貨と魔石が消えていく。総帥たちは、被害を最小限に抑え、最速で前線基地を奪還するために、最も残酷で効率的な手段を選んだに過ぎない」
シオンの冷徹な指摘に、アシュレイはギリッと奥歯を噛み締めた。
「……総帥の決定は絶対だ。だが、スラムへの攻撃は私が前線で直接指揮を執る。誇り無き虐殺はさせない」
「好きにしろ。私は私の仕事をするだけだ」
シオンは背を向けるアシュレイを横目で見送りながら、再び手元のバビロンの「美しい帳簿」に視線を落とした。
強大すぎるがゆえに、傲慢さと矛盾を孕み始めた十万の帝国。その歪みは、静かに幹部たちの心を侵食し始めていた。
◆ ◆ ◆
同じ頃。
バビロンの裏社会を牛耳る『アルカディア・バビロン支部』の裏路地。
降りしきる雨の中、カガリが支給した漆黒のスーツを着こなしたクロウの前に、一人の男が立っていた。
二メートル近い巨体を揺らす、全身を白黒の縞模様の毛皮に覆われた白虎の獣人だ。
「……何の用だ、ザザ。俺はもうスラムの揉め事には首を突っ込まねぇぞ」
クロウが鋭い三白眼を向けると、ザザと呼ばれた白虎の獣人は、顔の左半分を覆う大きな傷跡を歪めて笑った。
「冷たいこと言うなよ、兄弟。……単刀直入に言う。俺たちスラムの連中で『義勇軍』を組んだ。お前らの組織に、俺たちを雇わせろ」
クロウは僅かに眉をひそめた。
「皇帝同盟の連中が、見せしめにスラムを焼き払う気だって噂が流れてきてな。……お前らのボスが関所をぶっ壊してくれたおかげで、ようやくまともな飯が食えるようになったんだ。俺たちの故郷を、これ以上好き勝手にされるわけにはいかねぇ」
ザザの瞳には、野蛮なスラムの住人とは思えない、理知的で確かな覚悟が宿っていた。
「……気持ちは分かるが、素人の集まりじゃ十万の正規軍の足止めにもならねぇぞ」
「だから、取引をしに来たんだ」
ザザはクロウの言葉を遮り、鋭い牙を見せた。
「俺たちはこの街の裏道から地下水脈まで、地の利を完璧に把握している。遊撃部隊としては最高の駒になるはずだ。……その代わり、アルカディアの最新の武器と魔石を俺たちに投資しろ。そして戦が終わった後、スラムの『完全な自治権』を認めろ」
ただの恩返しではなく、命を懸ける代わりに自分たちのシマの権利を要求する。
そのしたたかな交渉に、クロウはフッと息を吐いた。
「……俺の一存じゃ決められねぇな。ちょっと待ってろ」
クロウは懐から通信用の魔導具を取り出し、遠く離れたアルカディア新本部の『コンシリエーレ・ルーム』へと回線を繋いだ。
『……どうした、クロウ。バビロンの空模様に変化でもあったか?』
通信機越しに、カガリの静かな声が響く。
クロウはザザの要求――スラム義勇軍の参戦と、武器の提供、そして戦後の自治権について、簡潔に報告した。
数秒の沈黙の後、カガリは淡々と答えた。
『……自治権の譲渡は却下だ』
その言葉に、ザザが眉根を寄せる。
だが、カガリの言葉は続いた。
『バビロンの都市経営は我がアルカディアが完全に統合する。スラムだけを切り離すのは、インフラ管理の観点から非効率だ。……だが、君たちを「アルカディア・バビロン支部の正規治安維持部隊」として雇用することは可能だ』
「正規の部隊、だと……?」
ザザが通信機に向かって問い返す。
『ああ。武器と魔石は前払いの「経費」として支給しよう。給与も一般社員と同等の額を保証する。……ただし、防衛ラインを突破され、一つでも設備に損害を出せば、契約不履行として君たちの給与から天引きさせてもらうがね』
合理的な判断ではあるが、彼らをスラムの厄介者ではなく、アルカディアの立派な「社員」として迎え入れるという対等な条件。
ザザは大きく息を吸い込み、そして、口角を深く吊り上げた。
「……悪意のある契約じゃねぇな。乗ったぜ、コンサルタント」
『交渉成立だ』
新本部の執務室で、カガリは静かに通信を切った。
皇帝同盟軍が十万の威容で押し寄せようとする中、アルカディアの帳簿には、新たな強烈な「牙」が書き加えられた。
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