停滞の空、遅れ来る刃
バビロンの広場は、レオンハルトが叩き込んだ重力の暴虐によってすり鉢状の荒野と化していた。
降り注ぐ泥雨と、硝煙、そして魔力の焦げた匂いが立ち込める中、赤髪の女騎士・カトレイアは、神輿の上から見下ろす女魔術師と対峙していた。
『叡智の冠』幹部、カーミラ。
彼女の妖艶な顔は、同僚であるイグニスが粉砕された驚愕と、圧倒的な劣勢に対する苛立ちによって醜く歪んでいた。
「……野蛮な猿どもが。この叡智の都を土足で踏み荒らして、ただで帰れると思っているの?」
カーミラが血の滲む唇を吊り上げ、両手から十指の爪を伸ばすように構えた。
「イグニスは馬鹿よ。あんな大味な炎では、隙だらけになるに決まっているわ。……私の『糸』で、その美しい顔ごと細切れにしてあげる!」
カーミラの指先から、鋼の数十倍の強度を持つ極細の『魔力線』が無数に放たれた。
泥雨を切り裂きながら全方位から襲い来るそれは、肉眼では視認不可能な暗殺の刃。
触れれば骨ごと人体を三枚に下ろす、物理切断の極致である。
「死になさいッ!」
シャアァァァッ!!
鋭い風切り音と共に、無数のワイヤーがカトレイアの全身を包み込むように殺到した。
だが、カトレイアはその場から一歩も動かない。背負っていた大盾を地面に突き立て、静かに右手を前にかざしただけだった。
「……私の『盾』を、侮るな」
カトレイアの魔力属性『静止』が、彼女の周囲数メートルの空間に展開される。
『ギギギギィィィンッ……!!』
強烈な金属の軋み音が広場に響き渡った。
カトレイアを四つ裂きにするはずだった不可視のワイヤーは、彼女の肌に触れる数センチ手前で、すべての運動エネルギーを強制的にゼロまで減衰させられ、空中にピタリと固定されていた。
「な、なんだと……!? 私の魔力線が、空中で止まっている!?」
「……届かない距離ではないぞ、魔女」
カトレイアが、地面を蹴った。
彼女が向かったのは、カーミラがいる上空の神輿へ向かう直線距離ではない。自らの眼前に張り巡らされ、空中に固定された『カーミラのワイヤー』の上へと跳躍したのだ。
「なっ……!?」
カトレイアは、鋼の強度で空中にピーンと張り詰め、完全に『静止』したワイヤーを足場にし、空を駆け上がり始めた。
さらに彼女は、周囲に降り注ぐ泥雨すらも局地的に『静止』させ、空中に硬質な水滴の階段を形成していく。
重装の鎧を纏った騎士が、物理法則を無視して三次元空間をジグザグに跳躍し、瞬く間に神輿の周辺空間を支配し始めた。
「ヒッ……! くるな、来るんじゃないわよこの化け物ォォッ!!」
カーミラがパニックに陥り、残されたワイヤーを乱れ撃ちにする。
だが、空を駆けるカトレイアはその軌道を完全に読み切り、空中で身体を捻りながら腰の長剣を抜いた。
『シュッ!』
『シュアッ!』
カトレイアは空中で何度も剣を振るう。
しかし、その斬撃はカーミラの身体には届かず、すべて虚空を斬っているようにしか見えなかった。
「……あ、あははっ! 何よ、ただの素振りじゃない! 空間魔法でもない唯の剣が、この高さに届くわけがないでしょう!」
カーミラが安堵と嘲笑の声を上げる。
彼女の周囲には、すでにミスリル合金すら凌駕する分厚い防御結界が何重にも展開されていた。
だが、カトレイアは神輿の直前の空中で『静止させた雨粒』にふわりと着地すると、長剣を静かに鞘へと収めた。
「……私の魔力は、運動エネルギーをゼロに固定する」
カトレイアの黄金の瞳が、冷徹にカーミラを射抜く。
「ならば、私が放った『斬撃の運動エネルギー』を、空中にそのまま固定しておくことも可能だということだ」
「……は?」
カーミラが怪訝な顔をした瞬間。
カトレイアが、鞘に収めた剣の柄を親指で「カチン」と弾いた。
『――遅延斬撃、解放』
その合図と共に。
カーミラの周囲の空間――先ほどカトレイアが「空振り」したと思われていた複数の箇所から、突如として凄まじい刃鳴りが生じた。
『ガァァンッ!!』
『ギィィィンッ!!』
「な、に……!?」
カーミラの展開していた防御結界が、全方位から見えない巨大な刃に叩き切られ、粉々に砕け散っていく。
カトレイアが空中に置き去りにしていた「斬撃」が、時間差で一斉に発動したのだ。
それは防御の死角を完全に突いた、回避不能の処刑刃。
「あ……」
結界ごと全身を切り刻まれたカーミラは、信じられないものを見るような目で自らの傷を見下ろし、そのまま糸の切れた操り人形のように、神輿から泥水の中へ墜落していった。
「……オーナーの帳簿に、不要な負債は残さない」
カトレイアは空中の足場を解除し、優雅に地面へと着地する。
広場における一万の魔術師の軍勢は、二人の幹部が呆気なく討ち取られたことで、完全に戦意を喪失して武装を解除していた。
アルカディアの「軍神」と「盾」は、魔法都市の防衛線を完膚なきまでに粉砕したのだ。
「……表の掃除は終わったか」
レオンハルトが、槍を担ぎながらカトレイアの横に並び立つ。
二人の将軍は、未だ不気味な静寂を保つ白銀の尖塔を見上げた。
「ああ。……あとは、我々のコンシリエーレの『交渉』がどう終わるか、だな」
カトレイアの黄金の瞳は、主君の勝利を微塵も疑うことなく、ただまっすぐに塔の最上階を見据えていた。
ここまでお読みいただき本当にありがとうございます!
もしも作者が異世界転生したら、間違いなくカトレイアの能力が万能すぎて欲しい。
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