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愛と劇物のマネジメント・エラー

「亡霊の砦」へと至る隘路は、物理的な標高以上に、精神を削り取るような異様な静寂に支配されていた。


カガリの網膜に投影された【ファミリー・レジャー】の数値は、この空間の異常性を如実に示している。


【鑑定:亡霊の砦(外郭)】

・稼働率:0.02%(実質的な放棄状態)

・魔力濃度:極めて安定(恒常的な空間干渉の残滓)

・特記事項:半径100メートル以内に『生命活動を不可逆的に停止させる化学物質』を検知。


「……なるほど。エルセが胃薬を勧めた理由が、データとして証明された。この漂ってくる臭気……シチリアの廃棄物処理施設が炎上した時でも、もう少しマシな空気を吸えたぞ」


カガリは汚れ一つないハンカチで鼻を覆い、冷徹な瞳で砦の正門を見据えた。


「カガリ……悪いことは言わん。今からでも『取引中止』にして、引き返さないか? 俺の直感が、かつてない戦死の予感を告げている」


レオンハルトが、名槍カラドボルグを握る手を珍しく震わせる。マサムネに至っては、鯉口を切るどころか顔を青白くして後退りしていた。


その時、重厚な石造りの扉が、一切の摩擦音を立てずに開かれた。まるで空間そのものが「開くことを強制された」かのような不自然な滑らかさである。


奥から現れたのは、凛々しく整った美貌を持つ女性。艶やかな赤髪をポニーテールに結い、その上には、戦場にはおよそ不釣り合いな、得体の知れないシミがこびりついたエプロンを纏っている。


彼女の右手に握られていたのは、巨大な盾ではなく、柄の長いお玉であった。


「……誰だ。部下たち以外に、この『亡霊の砦』の門を叩く不届き者がいるとは」


――カトレイア・ヴォル・バレンシュタイン。


彼女が放つ圧力は、先ほどの岩竜とは比較にならないほど重厚で、かつ静謐だった。お玉から滴り落ちた紫色の液体が石畳に触れた瞬間、ジュウと音を立てて石そのものを融解させる。


「止まれ。これより先は私の『聖域』だ。いつか戻る部下たちのために、究極の栄養食を煮込んでいる最中だ。邪魔をするな」


「お初にお目にかかる。コンシリエーレ(相談役)のカガリだ。……カトレイア、君の『盾』という名の不良債権を、正当に評価しに来た」


カガリは、マサムネとレオンハルトが戦慄する中、一歩も引かずに死の臭気が渦巻く中へと歩み寄った。


「不良債権だと? 貴様、私を物のように扱うか。私は部下を飢えさせ、兵団を事実上の解体に追い込んだ大罪人だ。この砦で飯を作り続ける……それが私の贖罪だ」


「贖罪という名の『非効率』だな。

君がここで鍋をかき回している間、君の部下たちはどこで何をしていると思う? 騎士としての技能を失い、日雇いの労働で糊口を凌ぎ、かつての誇りを切り売りしている。……それが君の望んだ結果か?」


カガリの言葉が、カトレイアの眉間に鋭い亀裂を生じさせた。


「黙れ! 私は彼らのために……!」


「彼らが求めていたのは、君の毒味スープではない。君の『盾』に守られ、勝利し、生きて家族の元へ帰ることだ。君は愛情という名の『マネジメント・エラー』で、組織の根幹を破壊した。

……カトレイア。君の盾は、まだ一級の価値を維持している。だが、その使い道を間違えれば、ただの重い鉄屑だ」


カガリは懐から一冊の帳簿を取り出し、彼女の眼前に突きつけた。そこには、彼女がかつて率いた部下たちの「現在」の推定配置データが記されている。

エルセの耳が拾い上げた、散り散りになった兵士たちの無残な現状である。


「君が私の傘下ファミリーに入れば、私が彼らを一人ずつ買い戻そう。彼らに再び剣を与え、腹一杯の『まともな』飯を与え、君という不落の盾の後ろで戦う場所を用意する。……どうだ、この『再建案』は」


カトレイアの黄金の瞳が揺れた。そこに宿るのは、戦士としての矜持と、不器用な献身がゆえの苦悩である。


「……信じられんな。貴様のような計算高い男が、なぜそこまでリスクを背負う。私を雇えば、いつこの砦のように貴様の組織も食中毒で全滅するか分からんのだぞ」


「当然リスクヘッジはする。君には今後一切、ファミリーの食事の調理を禁ずる。それが契約の絶対条件だ。

……その代わり、君の魔力『静止ディレイ』は、私のギルドの大切な資産を守るための『最強の盾』として活用させてもらう」


カガリの冷徹な、しかし確信に満ちた言葉に、カトレイアは沈黙した。足元で泡立つ不気味な鍋と、カガリが差し出した契約書を見比べる。


やがて、彼女は意を決したように顔を上げ、カガリを真っ直ぐに射貫いた。


「……分かった。貴殿の合理的な残酷さに、私の『盾』を預けよう。

だが、契約を結ぶ前に……一つだけ、どうしても譲れない条件がある」


カトレイアはカガリに一歩近づき、その凛々しい顔を不自然なほど真剣なものへと変えた。


「私は、団員の『福利厚生』を何より重視する。ゆえに、予防医療としての『毒物耐性獲得プログラム』の導入を要求する」


カガリは微かに眉を動かした。


「……予防、医療だと?」


「そうだ。この先、未知の魔物や卑劣な暗殺者の毒牙が我々を襲うやもしれん。いざという時、部下たちが毒に倒れるのを見過ごすわけにはいかんのだ」


カトレイアは、足元でジュウジュウと石畳を溶かし続けている紫色のスープを、誇らしげに指差した。


「私が丹精込めて作ったこの『極限栄養スープ』には、私の魔力による毒性の中和と、未知の成分への強靭な抗体を促す効果がある。

これを週に一度、全社員に盃一杯分、必ず飲み干させることを義務付ける。いわば『予防接種ワクチン』だ」


「ば、馬鹿な! そんなものを毎週飲まされたら、毒の前に胃壁が溶けて死ぬぞ!」


背後で、レオンハルトが戦慄の声を上げた。マサムネも無言で深く頷き、武人としての死生観すら揺らいでいる様子を見せている。


だが、カトレイアは彼らの悲鳴を「良薬は口に苦し」という程度の反応としか受け取っていないようだった。彼女の瞳は、純粋な部下への愛情と、一切の妥協を許さない戦士の使命感に満ち溢れている。


「これが私の譲れぬ『愛』だ。福利厚生をケチる組織に、未来はないぞ」


カガリの脳内の【ファミリー・レジャー】が、想定外の追加条項に対し、「組織崩壊バイオハザードリスク 85%」「労災申請率 100%」という絶望的な数値を凄まじい勢いで弾き出していた。


マフィアのコンシリエーレとして、数々の冷酷なボスや強欲な権力者と渡り合ってきたカガリであったが、この手合の「純度100%の善意」による組織破壊工作を突きつけられたのは初めての経験である。


(……なるほど。予防接種という名目の、定期的な劇物散布。これを拒めば最強の盾は手に入らず、受け入れれば毎週ファミリーが壊滅の危機に瀕する、か)


カガリは僅かに目を見開き、そして……深く、静かに思考の海へと沈んでいった。

面倒くさいカトレイアをどうか許してやってください。彼女は真っ直ぐに仲間を想うあまり、行動のベクトルの修正ができないだけなのです……

あと、彼女は実はハーフエルフです。

カガリが初めて困惑していますが……次回をお楽しみに!



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