神に至った者
びしゃり、ビーカーに移していた薄緑の液体から激しく跳ねたしずくが机上を濡らす。傍らのリディーラが小さく声を上げ、それに驚いたのか向かいのロランが手を止めた。
「ヴェルガ、大丈夫? 濡れなかった?」
「あ……すまない。リディーラ、かかってないか?」
「ええ。でも、気をつけてね」
用意されていたふきんですぐに机を拭く。リディーラも無事なようだ。液体が入っていたビンをテーブルの真ん中の素材置き場に戻し、手元のビーカーを見る。ああ、次はどうすればいいんだったっけ。
「危なっかしいですねぇ。代わりましょうか?」
「……いや、大丈夫だ」
ロランの申し出を断り、調合の手順が書かれている黒板を一瞥する。そうだ、これに干した黒トカゲの粉末を混ぜればいい。その後はビーカーを火にかけて軽く沸騰させて、それから……。
(粉は……ああ、これか)
調合に使用するすべての材料は、共有するべきものとしてテーブルごとに用意されている。同じテーブルにいる者同士でグループになり、最終的な評価はグループ全体の出来から判定されるからだ。
ヴェルガと同じテーブルで作業しているのはロランとリディーラだが、三人で分けても十分な量だった。多少失敗しても問題はない。そう思いつつ、大きな皿の上に並べられた灰色の粉末の載っている薄紙に手を伸ばした。
「ヴェルガ、それはトカゲの粉じゃないわよ!? ……あっ、いけない!」
「それは砕いたスケルトンの骨です。それの出番はまだ――熱ッ!」
手順を誤りかけたヴェルガを止めようと慌てたのか、身を乗り出したリディーラはまだ手元に残っていた彼女の空のビンを倒してしまった。ロランはすでにビーカーの中身を沸騰させる段階まで進んでいたようだが、マッチを擦った瞬間に手を離した。
特殊な加工のされたテーブルに落ちたマッチの炎は、それ以上燃えることなく消える。普段見せないヴェルガの姿に、二人も調子を狂わされたようだ。
「……悪かった」
「ヴェルガ、今日はもう無理しないほうがいいのではありませんか? 明日になれば気持ちの整理もつくでしょう」
「そうね、あとはわたし達がやっておくわ」
「本当にすまない……」
ヴェルガが諦めて二人の言葉に従ったのは、手が滑ってトカゲの粉を机上にぶちまけ、大きく燃やしすぎた炎で銀の髪の毛先をわずかに炙ってしまってからだった。調合の手順はまだある。ただでさえヴェルガが戦力外なのに、これ以上続けるのはさすがに二人にまで迷惑がかかってしまう。
憂鬱な気分のまま、使い終わった器具や素材を慎重に片付ける。普段なら手際よく進められる調合演習の講義も、今日ばかりは気がそぞろになってはかどらない。朝からずっとこの調子だ。それは、今朝がた届いた一通の手紙のせいだった。
王家の封蝋が用いられたそれを開ければ、中身は登城要請で。それも、先日届いた母親からのものよりもっと重い――――国王、エルドムント直々の筆だった。
長期休暇の際にラヴェンデル宮で滞在しているときに使者が遣わされたことならあったような気がしないでもないが、平日に父王からそんな手紙が来たことなど一度もなかった。
詳しい説明も、回りくどい挨拶も、親としての言葉もない。ただ淡々と、ヴェルガの来訪だけを命じた文書。そう、あれは勅命だ。断る勇気も、断っていい理由もない。何の目的で呼び出されるのかもわからないまま、ただびくびくとその日を待ち、その時間が過ぎるのを待つしかなかった。
指定された登城の日は、四日後の星ノ日だ。貴重な週末の休日が、まさかこんなことに費やされることになるとは。まだ今週は始まったばかりだというのに、さっそく気分が暗くなる。講義も部活も委員会も、何もないのが恨めしい。あったところで登城を拒むことなどできないが。
なんとか講義を終え、改めて二人に礼を言って足早に教室を去る。次の六限の時間、ヴェルガにはなんの講義も入っていなかった。本来なら呪詛史の時間なのだが、ここ一週間担当の教師が隣国の学会に出席するらしく、休講になると前々から伝えられていたからだ。
光ノ日の放課後はもともと予定がない。このまままっすぐ寮に戻ってもいいが、一つ調べなければならないことがあった。本当は何もやる気が起きないのだが、今日を逃せば図書室に行っている時間はない。さすがに炎ノ日の委員会中に持ち場を離れて調べものをするのは歓迎されないだろう。
時間が時間ということもあって、図書室には誰もいない。司書室の明かりはついているので、メイフェルはいるのだろう。必要になるだろう本を見繕いつつ、本棚の間を縫うようにして二階へ向かう。
学院の図書室は二階立てで、一階が閲覧室を兼ねているのに対して二階はキャレルがいくつかあるだけの書庫になっている。人気がなく薄暗い二階にあるのは重くてぶ厚く、難解な書物ばかりだ。本命となる本はそこにあるだろうし、なにより一人で黙々と作業するのに向いている。
早速階段を上がった。二階への階段と廊下は、手すりから一階を見下ろせる造りになっている。ふと階下を見た時に目に入ったのは、キャレルに向って歩く男子生徒だ。同じ委員会の後輩であるシエル=エイカーに似た顔をしていたような気がしたが、見間違いか何かだろう。普通の生徒は講義を受けているはずの時間帯なのだから。
(まずは、わかっている情報の整理からだ)
昨夜のうちに用意していたノートを開く。昨日はリートがヴェルガの代わりに登校してくれたため、リディーラの様子を見てから帰ってもまだまとめるだけの時間はあった。
記されているのは、雷の導きの書と共にある少女ツィーカと、闇の導きの書と共にある少年リートに関する情報だ。ツィーカの素性を特定する、それがヴェルガの目的だった。
リートの名は、亡国の暴君“千日王”エイルス=ディアスとして歴史書に刻まれている。彼は王子の時分に導きの書を手に入れ、死後は精霊を自称するモノとしてヴェルガの前に現れた。ならば同様に精霊となったツィーカも、歴史上の人物なのではないだろうか。
(リートは俺より導きの書を使いこなすことができた。あいつは、神格を得たはずだ。……何が神の御使いだ。まさか神そのものだったとは)
ひとくちに神と言っても、その数は膨大だ。リート、あるいはエイルスとして伝わる神の名に心当たりはない。だが、人に記され、語られるばかりが神ではないだろう。歴史の裏でひっそりと誕生した神が存在しても不思議はない。
そもそもエイルス王は、邪神ケルハイオスの化身と語られている男だ。ケルハイオスの一つの側面、“ケルハイオスの化身”という形での神格が与えられた可能性だってある。考えられる可能性がある以上、人が神になるとは馬鹿げたことを、などと一笑にふす気はない。たとえそうだとしてもヴェルガはそれに意味を見出さない、ただそれだけの話だ。
そんなヴェルガだったからこそ、リートはそれ以上神格を得る方法について語らなかったのだろう。邪神の化身として生き、享楽の限りを尽くした果てに処刑されたエイルス王。きっとそのありようは、闇の神の名のもとに神格を得ようとした者の宿命だ。そこまでの業を背負う勇気はヴェルガにはなかったし、リートの口ぶりからして同じものをヴェルガに課すつもりもなさそうだった。
では、ツィーカのほうはどうか。彼女もまた、雷と勝利の神サウィンダーにまつわる神性を有しているはずだ。サウィンダーと縁の深い、ツィーカと名のつく女傑に心当たりはなかった。そもそも、“ツィーカ”として伝わっている保証もない。しかし彼女を探し出す手掛かりはある。それがリートの存在と、ツィーカの髪と目の色だ。
亜麻色の髪とはしばみ色の目。リディーラとまったく同じ茶系統のその色彩は、トーガ民族と呼ばれる人々の特徴だった。大陸で暮らす五つの民族のうち、ディアス民族に次いで純血が少ないと言われる者達だ。レヴィア家の始祖はトーガ民族なので、リディーラにもその色が遺伝したようだ。しかしツィーカの場合、正真正銘純血のトーガ人なのだろう。それもリディーラの前身とも呼べる存在だ。リディーラの顔かたちは、ツィーカと同じになるように神が造ったのだから。
レヴィア家の先祖を調べるには、リディーラにも協力を仰いで家系図を見せてもらったほうが早い。とはいえリートの話を信じるのなら、血縁関係になくても同じ顔の人間は生まれるはずだ。ツィーカがリディーラの祖先だとみなすにはまだ早く、あくまでも遠い昔を生きた一人のトーガ人として考えるべきだろう。
サウィンダーの加護厚い、トーガ人の女性。これである程度範囲が狭まった。トーガ民族が暮らしていた国を中心に、ツィーカに該当するような女性がいないか文献を漁る。肖像画は期待しないほうがいいだろう。絵画や彫刻で語られるエイルス王の姿は作者によってまちまちで、リートとはちっとも似ていない。遠い昔を生きた者達は、わずかに残る文献と想像によって後世の芸術家が自由に形作っていく。手掛かりとして使えるのは、嘘か本当かわからない文章だけだ。
リートの例からして、ツィーカはサウィンダーのありようにのっとった生き方をしてきたのだろう。彼女もまた雷神の化身とまで呼ばれていそうだ。いや、それとも勝利の女神と讃えられているか。いずれにせよ、後世に残した名は栄誉に満ちているはずだ。
「あった……!」
果たして何時間経ったのか。地道な調査は実を結んだ。レテネイの英雄、戦乙女リリス=マグダリット。小さな村の娘でありながら、十八歳の誕生日にサウィンダーの啓示を受けて剣を取り、やがてはレテネイの救世主とまで呼ばれた少女だ。亜麻色の髪にはしばみ色の瞳を持つ、サウィンダーに愛された娘。彼女こそツィーカに違いない。
レテネイは、ランクルド民族というトーガ民族とはまた別の民族の国家で、国土は小さくなったとはいえ今もまだ存在している国家だ。リリス=マグダリット自身はトーガ人だが、そんな彼女がランクルド人の国の戦士として従軍した事情については諸説ある。従軍する以前の経歴は、小さな村で暮らす羊飼いの娘と記されている……否、便宜上そう語られているのみで、それ以上のことはわからないというおまけつきだ。
故郷の村の名も両親の名も、どこを調べても出てこない。そのややこしい経緯から彼女に至るまで少し時間がかかってしまった。そうだ、たとえトーガ人であってもトーガ人の国にとどまっていると決まったわけではないというのに。
サウィンダーに強く信仰を捧げた結果か、リリス=マグダリットは生涯未婚を貫いたという。その貞淑さから祈剣の処女とも呼ばれたらしい。そこまで身持ちが固いようには見えなかったが、歴史には多少の修飾もつきものということだろう。ツィーカがリディーラの先祖ではないとはっきりわかって、何故だか少しほっとした。
リリス=マグダリットも雷の導きの書を所持していたのだろう。サウィンダーの啓示とはそのことを指しているに違いない。彼女が善神の器だったのかはわからない。
けれど、彼女は雷の神の名のもとに神格を得た。そして今になってカイルのもとに姿を現し、ヴェルガにとってはあまり好ましくない存在として振る舞っている。たとえ相手が英雄と讃えられた少女でも、無条件に信じないほうがよさそうだ。いや、むしろツィーカの素性がわかったことで、より警戒心が強まった。
史実のリリス=マグダリットは、心優しく非の打ちどころのない理想的な聖女として伝えられている。生涯をサウィンダーとレテネイ王国に捧げ、常に剣とともにあり、すべての戦争で自軍に勝利をもたらし、誰より平和を愛して平和のために戦ったのだ、と。……だが、本当にそんな人間が実在するのだろうか。
ツィーカには、リディーラのふりをしてエレナをそそのかした疑惑が残っている。闇の神の加護を一つも受けていないエレナをリートが知っている可能性が低い以上、やはり疑わしいのはツィーカだ。リートがヴェルガの知らない間に外をうろついてエレナと出会っていると考えるより、ツィーカとエレナに面識があると考えたほうが自然だろう。
もし本当にツィーカの仕組んだことなら、歴史が伝えるたいそうな聖女様など存在しない。すでに今を生きる人間ではなくなった自分の振る舞いが、今を生きる人間達にどう影響するかも考えないような頭の足りない天然娘だという可能性なら、まだ残っているが。
いずれにせよ、そんな存在が善神の器の側にいる。少女の細腕ながらに武勇を誇り、本物の戦場を幾度も駆け抜けた女傑が。そのことだけは、頭に留めておいたほうがよさそうだ。




