暗々裏
*
大きな池があった。胎動するようにうごめくそれに意思はない。こぽこぽと泡が生まれては弾ける水面は闇より黒く、その奥底は覗き込めなかった。だからその大きな池の中に何かが潜んでいても気づかれないだろうし、そもそも底などあるかも疑わしい。ましてや――――池も含めてひとつのイキモノだなんて、誰も思いもしないだろう。
この地を満たすのは池が発する音だけで、それ以外のものの気配はない。池の真ん中には高い塔が建っていた。否、建っている、と言うと語弊がある。正確には、高い塔が突き刺さっていた。やや傾きの見られる塔は、まるで天から落ちてきたようにも見える。事実、塔は落ちてきたのだ。池を貫く楔となるために。天から放たれた巨大な塔は地上どころか地下まで穿ち、地下よりもっと奥深い場所……谷底のようなこの地でうごめく池にまで達した。
楔という新たな役目を与えられたその時から、塔は天高くそびえる“塔”ではなくなった。それでも塔の本来の機能と役目は失われていないから、もはや体を表さない名だけが残る。うごめく黒い池に侵蝕されながら、それでも塔は何千年もそこに在った。そう在るように定められていたからだ。
塔の質量のほとんどは、概念上のものでしかない。神の領域に達していた階はすべて実存のものではなく、神の空間という認識が生むものだ。そして塔が“塔”でなくなったせいか、その性質も入れ替わっていた。上階が実存に、下階が概念に。地上から天へとそびえていたころも、天から地下へ貫く今も、その階数の多くはまぼろしだった。だから、頂上の見えない塔も実際に昇ってみれば―塔に挑む資格さえあるのなら―そこまで苦もなく目的の階へと辿り着ける。地中を穿つにあたって消えた塔のことは人々から忘れられ、今となっては地中まで来る挑戦者などほとんど途絶えているが。
水面のやや上にある大きな窓。それは、本来はまだ地上に近い階……概念ではなく、実在している世界にあるしるしとして、特別につけられていた窓の最後の一つだった。他の窓はすべて池の中に沈んでいる。この窓がある階から上は、本当なら神の世界の領域だ。ただの人間の身であっても踏み入れられる、唯一の場所。けれど塔が地下深くに沈み、上階が逆に人の世界の領域に出現した。そこで、今では最上階だった場所に新たな入り口が造られている。塔の入り口が失われては、この塔の本来の役目が果たせなくなるからだ。
神と人の世界、それを隔てる境界だった窓は、今や池と塔を繋ぐ唯一の出入り口となっている。これより下の階の窓を開ければ、黒い水が塔の内部になだれ込んでくることだろう。池の水は塔の中で水位を増し、やがては地上まであふれ出る。
階を一つ間違えれば、未曽有の大惨事につながる窓。正しい階の窓を開けたところで、それもまた惨劇しか生み出さない。幸か不幸か、塔が池を貫いて以来はどの窓も開けられたことはなかった。なかった、と世界が刻む歴史には記録されている。けれど神さえ従える機構は、常に真実のみを記していた。だから、理だけは知っている――――いついかなる時も、窓を開け放って世界に災厄を呼び込もうとしていたものがいることを。
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紫煙をくゆらせながら笑う。近侍から差し出されたワインボトルは、以前から待ち望んでいたものだった。
つけられた荷札には、ディアス自治領産の二十年もののワインだと記されている。銘柄は“プリエール・ド・ラ・リアマーベ”。神々の華燭の典では恋の女神リアマーベがワインを注ぐ、という逸話から名付けられたワインだ。その荷札に記されているのはすべてが偽りだということなど、注文者からすればわかりきったことだったが。
「よくやった。これさえあれば、私の目的は果たせるだろう」
ボトルを手に取り、愛おしげに撫でる。特別に作らせたワインは、グラスに注がれるのを今か今かと待ち望んでいるようだった。
「商人との取引に使った男は、すでに口封じをしております。商人も、よもや裏に貴方がいるとは思いますまい」
「では、あとは優柔不断な父上を急き立てて……目障りな弟に、退場を願うばかりということか」
不要になった小切手帳を取り出し、念のためにぱらぱらとめくる。小切手の署名はどれも『エドリック=アルフェンレクト=エスティメス』――――近侍にそれを放る。受け取られた小切手帳は、小さな詠唱の声と同時に炎に包まれた。ゆっくりと燃えていくそれを眺めながらパイプをふかす。いつもと同じ、慣れ親しんだ海泡石のパイプだというのに格別の味がした。
「この国は貴方のものでございます、殿下。新たな王にふさわしいのは、貴方以外におりません」
小切手帳が原形をとどめず、もはや何の意味もなさない紙片になったころ、揺らめいていた炎は静かに消えた。それを見届け、近侍はうやうやしく紙片をしまい込んだ。
「知れたことを。これは、その当然の流れがわからない凡愚に対する制裁だ。手の届くことのない栄華を望んで足掻く馬鹿への牽制だ。つまらない番狂わせを望む父上を、夢から覚ますための現実だ」
本当は、こんなことなどしなくてもよかったのだが。しかし何もしなければ、くだらない横槍が入って王への道が阻まれる――――自分が手にするべき未来を、手にできたはずの座を、己より下の者に奪われるのは気に食わない。
「次なる王となるのはこの私、その事実をより強固にするための一手。それがこれだ。ルールもわからぬ輩に美しい盤面を崩されないようにするための、な」
このワインがグラスに注がれる日はそう遠くない。いずれ訪れるその日が、今は何より待ち遠しかった。
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仕込んだ種は思うように芽吹かなかった。だから何も変わらない。死すべき少女は死なず、狂うべき少年は狂わない。王女はその手を血に染めないし、侍女は英雄に余計な諫言をする。ああ、まったく腹立たしい。
“証明”は不発に終わった。受肉した身では、人の人生に波紋を起こせないということか。いいや、そんなことはない。できるはずだ。ずっと前はできていた。たとえ肉の器に押し込めようと、この力は変わらない。
だから、何かがあったに決まっている。行われた“証明”を、誰かがなかったことにさせた。“証明”が行われた事実さえ消した。それは望まざる結果だ。なにより最悪の、あってはならない事態だ。だってそんなことができる存在がいるなんて、計算外だったから。
「不発」と「失敗」は違う。もともとあの“証明”は失敗する予定だった。生贄の死は覆らないからだ。死人を蘇らせるなんてことは、たかが人間はおろかあの道化にもできない。だからこそ、あの逸話を“証明”に選んだのに。
神話は物語などではないと、神は実在するだと、人々に神の威を示すからこその“証明”。思い上がった邪神に身の程をわからせ、ちょうどいい悪役を作るための下準備。これで邪神の器は怒りに狂い、心優しい英雄は迷いを断てる――――はずだったのに。
王女は誘惑に乗らなかった。遠い昔にいたという馬鹿な姫君のように剣を取ることをせず、それどころか己の怒りが見当違いの嫉妬だったと理解してしまった。英雄が自分のことを周囲に打ち明けてしまったせいだ。
あの時、輪から少し外れたところで、侍女にしかなれないような地味な女が他の有象無象と違う顔をしていた。英雄も、あの女には一目置いているらしい。目障りなことをするとしたらあの小娘だろう。あの女が何か吹き込んだに違いない。たかが侍女風情が、生意気な。
おかげで邪魔者を減らそうにも減らせない。邪神の器も、それを守護する邪神も。悪役に定めた者が、悪役らしいことをしたことがないというのは誤算だった。人選を誤ったかもしれない。だが、あれ以外に適した者はいなかった。悪役でも周囲に疑われず、善神の器と自然に敵対してくれるには、邪神の器でないとだめなのだ。
やはり一番の問題は、英雄が思い通りに動かないことだろうか。まだ出会って間もないとはいえ、「様子見」などというひよった言葉で問題を先延ばしにしてくれた。彼は取り巻きとともに関係ないことばかり夢中にやって、一向に期待通りの働きをしてくれない。そのぐだぐだとした平和な毎日は、彼が願う限り続くのだろう。けれどそんなもの、自分は望んでなどいない。
せっかく英雄の役を与えてやったというのに、これでは役者不足もいいところだ。とりえといえば騙されやすいことぐらいしかないのに、腰が重いせいでそれすら無意味になっている。そのせいで、悪役も手をこまねいているのかもしれない。あれは性質上、後手に回らなければいけないから。……だからこそ、与えられた使命とは別に対立の理由を作る必要がある。
(あの人と同じ顔なのに、まるであの人と違う。あの人なら、きっと迷うことなく邪神もその器も斬ってくれるのに)
善神の器が行動を起こさないから、邪神の器は役割を持て余している。邪神の器が行動を起こさないから、善神の器は役割を持て余している。どちらが先か、なんて議論をしている暇はない。どちらも動かないことにかわりはないのだから。
愚図でのろまな英雄役。悪役を仕立て上げるのは、あれのくだらない正義感と主人公願望に火をつけて思い通りに動かすためだった。しかしそれが難しい今、別の方法であれを焚きつけなければいけない。誰かに気づかれる前に、誰かに止められる前に――――思い描いた物語が壊れる前に。
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☆
どこからか悲鳴が聞こえた。いや、本当はその場所を知っている。ただ、これから赴く場所に惨状が広がっていると想像するのがいやで。その事実から逃げ出したくて。
けれどこれが自分の罪だと知っているから、そんなことはしない。単調に響くヒールの音は途絶えなかった。きっと周囲は、自分のことをさぞ冷血な女だと思っていることだろう。大体間違ってはいないので、今さら訂正のために奔走などはしないが。
「陛下、お耳にいれたいことがあります。少々よろしいですか?」
ノックの返事を待たずにドアを開ける。この城でそれが許されているのは彼女ただ一人だ。
どうしてこんなことをしたのか、なんて聞かない。理由なんてないことははじめからわかっている。つんと鼻をつく生臭い鉄の香りももう慣れた。眉一つ動かないのは、もう表情筋が麻痺してしまったからだろう。同様に、この惨劇を生み出した男ももう色々なものが麻痺して死んで狂っている。
「なんの用だ、宰相」
来訪者に気づき、青年はべっとりと血のついた手をハンカチで拭う。足元に転がっている物言わぬ骸のことなどは、もはや彼の眼中にないようだ。
「テイルラントとカレリアが手を組んだようです。いずれ両国は反乱軍に目をつけるでしょう。反乱軍への支援が始まるのも時間の問題です。両国の連合軍と我が国の反乱軍が結託してしまえば、貴方の治世も長くは持ちません。……終わりの時はそう遠くないかと」
「そうか。私にとっては悪くない報せだな」
他の者なら口にするのにためらうような真実も、女は臆することなく告げた。死体を避けるようにして歩み寄った女が差し出した報告書を、青年はつまらなさげにぺらぺらとめくる。けれどただ一枚、ある箇所に目を留めた彼は、ようやくその人形のような顔に感情を灯した。
「懐かしい名前だ。つまらなくない」
「……ええ。どうなさいますか?」
青年が何に興味を示すのか、女は初めからわかっていた。それは、かつて彼女が愛した男の名前だ。かつて彼が陥れた男の名前だ。反乱軍の指揮者として祭り上げられ、優秀な仲間の手引きのもとで異国と通じ、腐り切った国を立て直す英雄の名前だ。彼が自分達に終わりをもたらす断罪者となることに、女は運命の皮肉と必然性を感じていた。
「どうもしないさ。勝手にやらせておけばいい。……いいか、反乱軍も連合軍も気にするな。今までと変わらず、すべて焼き払え。老いも若きも男も女も全員殺せ。我が主ケルハイオスを邪神と呼んで貶める異国の獣どもに、真なる神とはなんたるかを教えるんだ」
そう言って青年は嗤う。その滑稽さを誰よりも自覚していながらもそう命じる。女は小さく了承の意を告げた。
「ああ、待て」
一礼して退室しようとした女を、青年は思い出したように呼び留める。試すような彼のその眼差しは、あまり心地いいものではない。窓から差し込む夕日を反射した銀の髪の眩しさに、女は思わず深海の目を背けた。
「ディンヴァードは結局誰も選ばなかったようだな。ナディカ、どうする? 今ならまだあいつの隣も空いているぞ」
「……相変わらず人が悪いですね、ヴェルガくんは。すべてはもう過去のことです。今さら貴方のもとを離れても、私に居場所なんてありませんよ」
苦々しげに吐き捨てて部屋を出る。そう、戻る場所なんてどこにもない。かつかつ、かつかつ。高いヒールが奏でる足音だけがいつまでもむなしく反響していた。
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