夜咄
何か明確な異変があるまでリートと話していることで暇を潰す。さりげなくリートの素性に探りを入れてみるなどしてみたが、わかったのは彼が数百年は前の時代を生きていたということだけだ。これでは彼がいかにして精霊に転身したのかわからない。
「……少し昔話をしてあげよう。これは、かつて闇の導きの書に選ばれて……そして、君よりそれを使いこなせた男の話だ」
ヴェルガの不満を感じたのか、不意にリートは小さく笑った。軽く目を細め、リートは夜空を見上げる。
「昔々あるところに、笑顔を絶やさない王がいた。王はいつでも笑っていた。たとえ重税で民が飢えていようとも、たとえ戦争で他国を蹂躙しようとも、たとえ目の前で人が死のうとも、王の笑みが消えることはなかった。王は、それらすべてを楽しんでいたし……彼には笑うことしかできなかったからね」
「……」
「そんな王に仕える忠実な騎士がいた。騎士は、王の笑みが空虚なものであると見抜いていた。それでも騎士は、王が笑うことを是としていた。一切の感情もこもらないような、上っ面の笑顔を」
「王は何故笑う? 感情に欠陥でもあったのか?」
「欠陥、と言えばそうかもしれない。何か大事な感情が欠けてたんだろうね。感情を失うために笑ったのか、笑うために感情を失ったのかはわからないけれど」
遠い目をしたままリートは語る。失ったのは喜怒哀楽の怒と哀だ。喜と楽は欠けることなく残っていた、と。
逆に言えば、その王には喜と楽しかなかったということになる。それはきっと、見ようによってはとても歪な人の姿になるだろう。
「……その王はね、誰かにとっての手のかからない人間であろうとしたんだ。癇癪を起こすことも嘆くことも、王はしてはいけなかった。だから王は笑った。王には笑うことしか許されていなかった。笑う以外にできることはなかった。城には彼の怒りや悲しみを受け止めてくれる人はいなかったし、だから彼はそれらを飲み込み、受け入れた。……怒ることも泣くこともできないなら、笑うしかないだろう?」
その王はそれでも満たされていた、とリートは言う。お前はおかしいと周囲から説かれても、王は変わることをしなかった。これが自分だと開き直り、笑い続けていたのだと。
目の前で何があろうと、王はそれを受け入れた。愛し、楽しみ、慈しんだ。怒りも哀しみも持たない王は、それができるだけの博愛性……否、心の歪みがあった。
「……だけど、王はあるとき、心の底から笑ってしまったんだ。それはいつものように残虐な行いが繰り広げられた時でも、死に瀕した者が泣きながら命乞いをしていた時でもない。城下町で、幼い子供達が笑いあっている時だった」
それはありふれた日常の景色。よく晴れた日の昼下がり、子供達がわぁわぁとはしゃぐ声を上げながら駆け回っていた。
王を含めた権力者達の横暴によって荒廃した国の中で、それでも子供達は楽しげに笑っていた。次代を担う彼らの笑顔は、周囲の者達にとっても希望の光になるだろう。それに目を止めた王は、果たして何を思ったのか。何事にも平等に無関心な博愛の王、そのありように何らかの変化がもたらされたのか。淡々と話すリートの顔からそれは窺えない。
「それを偶然騎士が目にした。騎士は聡い。たとえそれがほんのわずかに口角が持ち上がっただけであっても、王の笑みが普段のそれとはまったく違うものだと即座に見抜いた。そしてその日を境に、王は少しずつ感情というものを取り戻すようになった。“あの王が、人の心というものを見せた”……さて、こう考えた騎士はどうしたと思う?」
「喜んだんじゃないのか? 主君が人間らしくなったんだ、改心したというと少し違うかもしれないが……臣下としては安心するだろう」
「ははっ、それもきっと悪くない可能性だっただろう。だけど現実はそうじゃない。……騎士は嘆き、怒り、失望した。王が“王”でなくなったから。騎士が心酔した、“王”がいなくなってしまったから。そう、この騎士はね、初めから王に人情なんてものは求めていなかったんだ。感情に欠落のある空っぽの“王”こそ、騎士が望んでいた王の姿だった」
「なっ……」
「だから騎士は、王を元に戻そうとした。あんな風に人間らしく笑うなんて貴方らしくない、とね。……けれど、王はそれを聞き入れなかった。王は泣きたいときに泣いて、怒りたいときに怒るようになった。その起伏は他者のそれよりずっと少ないものだったけど、これは目に見えてわかる劇的な変化だ。……ただね、変わるのが少し遅かった。いや、たとえ感情が戻ったところで無意味だったと言ったほうが正しいか。感情があったとしても、王には行いを改める気なんてなかったんだから」
減税を訴える民は微苦笑を浮かべて捕らえさせる。王を討たんとする義勇に満ちた暗殺者は嘆きながら殺す。口答えをする正義の臣下は腹立たしいと手打ちにする。従わない属国は苛立ちとともに滅ぼす。いつも変わらない、能面のような笑みに怒と哀が加わっただけ。義憤に駆られることも、後悔に打ち震えることもなく。王は以前と変わらないまま、ただひたすらに悪行を重ね続けた。
それはそれで、きっと騎士とやらが求めた王の姿に相違はなかったのだろう。だが、たとえ行いが変わらずとも、王の心に変化があったのは事実だ。空っぽだった王の心に感情が芽生えてしまったこと、それが騎士には何より許せなかった。
「そこから先は簡単さ。怒れる民衆を騎士が焚きつけて、あっという間に反乱が起きる。王はあっさり捕らえられて死刑に処された。暴君を失った国には、束の間の平和が訪れて……騎士の奮起の真実を知らない人々は、こぞって彼を英雄と讃えた。めでたしめでたしだ」
「……それが、闇の導きの書が見たとある代の所有者の顛末か」
「そうだよ。これは、僕の知っている男の話だ」
「闇の導きの書を持っていたのは、どっちだったんだ?」
「王のほうさ。彼は王子の時分に導きの書に見出だされた。すべては闇の神の御導きのままに。彼は、疑うことなく導きの書を手にして……そして、それに秘められたすべての権能を引き出す資格を得た。そのうえで、王位を求めたんだ」
「……」
闇と混沌の神ケルハイオス。彼の神に祈りを捧げてはならない。そしてそれは、ケルハイオスの寵愛を受けた者にも当てはまる。
決して信仰してはいけない神の加護。それは、受けた者をも地位や名声といったものからも遠ざける祝福だ。彼らは、同じく闇に属する神々の加護を受けた者達の中でしか生きられない。
闇の名に連なるすべての神からの祝福を受けた王、それはすなわち民から決して敬われてはいけない王だ。国の平和を守るには、間違っても民の支持を得ないように邪神の名に恥じない暴君として振る舞うことを余儀なくされる。邪神に愛されて生を受けた者が心優しき賢君なら、この世の悪を司る邪神の虚像が揺らいでしまうから。
だからヴェルガは継承権を奪われた。国を乱すことのないよう、すべての功績が公爵家の手柄となるよう、大人達が手を回した。法術の才があろうが学年で首席を取ろうが関係ない。きっと卒業後は元王族としてそれなりの地位は用意されるだろうが、大衆がヴェルガの働きに正当な評価を下してくれるなんて期待はしていない。ごく少数の、理解者達がいてくれれば十分だった。
けれどリートの話に出てきた“王”は違う。いかなる経緯か、彼は王位についた。ならば彼に求められることは一つだーーーー決して民の尊敬を集めない、最低の暴君になる。
これはきっとリート自身の話だ。ヴェルガの問いに、リートは正しく返さなかった。「見た」ではなく「知る」、その違いこそ答えだろう。彼が“王“なら、色々とつじつまが合う。ケルハイオスに強く愛された、銀髪碧眼の暴君。千年ほど昔に生きた人物だが、思い当たる名は一つだけあった。
「……もう、笑わなくていいんだぞ?」
「ははっ。悪くない言葉だけど、僕のこれはもう癖みたいなものだからね。別に無理はしていないから、心配はいらないよ。この王だって、革命が起きる頃にはすべての感情を取り戻していて……それでも最期は、自分の意思で笑ったんだ」
そう語るリートの顔は、どこか得意げだ。
王とやらが最期に何を思ってどこに達したのかなんて、ヴェルガにはわからない。王は今もまだ歪んだままなのかもしれない。それでも本人がこれだけ満足そうに笑うなら、放っておいてやってもいいだろう。もう彼の笑顔を以前のように羨望の目で見ることはないだろうが、それは別に負の意味からではなかった。
「そう言う君は、もっと笑ったほうがいい。僕らを足して二で割ればちょうどいいかもしれないね」
「よ、余計なお世話だ。……すべての権能を引き出せるようになれば、お前のように精霊になるのか?」
「そう思ってくれて構わないよ。これは他の導きの書の所有者にも当てはまることだ。……闇の導きの書を持ち、ケルハイオスの権能を意のままに振るおうとする者は決して王位についてはいけない。ああいう王になってしまうからね」
「……俺も、そうなるのか?」
一抹の不安に駆られて尋ねる。そんな焦燥を振り払うようにリートは優しく笑った。
「君はまだ大丈夫だよ。たとえ公爵位についたところで、領民に嫌われる必要はない。……ただし、神の権能を使いすぎるとその限りではないんだ。繰り返しケルハイオスの力を行使するなら、君は僕と同じになってしまう。君は神の力に興味がないと言ったが、権能を行使すればするほどその力を得るための道が拓けてしまうんだ」
ちょうどその時、リディーラの部屋に変化があった。リディーラが目覚めたのだ。今までとは違い、彼女は眠い目をこすりながら起き上がろうとする。
「リディーラ……!」
「……気をつけてね、ヴェルガ。過ぎた力は人生まで狂わせるんだ。このまま星の導きの書の所有者が権能を行使して時を巻き戻し続けるなら、君まで人の身から外れていくことになる。……僕は、君を僕の二の舞にしたくない」
「……安心しろ。時が巻き戻るのは今回だけだ。誰がやったことかは知らないが、リディーラの死が引き金だったなら、あいつを死なせなければいいだけの話だろう。もう誰だってリディーラに手出しはさせない」
はっきり告げると、リートは安心したように顔をほころばせた。それを横目で確認し、ヴェルガは改めてリディーラに呼びかける。精霊を通した声は、きっと彼女に伝わるだろう。
「ッ!? ……ヴェ、ヴェルガ? ヴェルガなの?」
「ああ。……驚かせて悪かった」
リディーラが風の精霊に気づいた。ヴェルガの声で話す精霊を不思議そうにまじまじと見つめ、リディーラは精霊に手を伸ばす。白く細い手は風の精霊の身体をそのまますり抜けた。
「こんな夜中に……何かあったの?」
「いや……その、夢見が悪くてな。そう、不吉な夢を見て……それで、いてもたってもいられなくなって、つい……」
「それだけで女子寮区画まで来たの? 精霊が声を届けられるんだし、近くにいるのよね?」
「仕方ないだろう。お前にとっては気分のよくない話だろうが、お前が不幸になる夢だったんだ」
リディーラはくすくすと笑う。少し唇を尖らせながらも居場所を告げると、リディーラは窓を大きく開けてベランダに立った。
ヴェルガが闇の精霊の召喚式を消すと、こちらに気づいたリディーラが手を振ってくれる。ヴェルガも立ち上がって軽く手を振り返した。リディーラはヴェルガを見下ろしながら、けれどすぐ側の風の精霊に聞こえるように語りかける。
「だからって深夜にここまで来るなんて、貴方も結構向こう見ずよね。……でも、嬉しいわ。わたしのこと、気にかけてくれてありがとう」
「リーー」
視界が、歪んだ。
「ヴェルガ?」
襲いかかるのは激しいめまいと頭痛だ。苦しみのあまり声を抑えきれず、膝から崩れ落ちてしまった。激しく脈動する心臓に他の部分がついていかない。身体中を駆け巡る血液はいつもの何倍も高い熱を帯びていて、その循環は痛みさえ伴っている。
「どうしたの!? 今そっちに行くから!」
「来るな! だめだ、頼む……頼むから、そこにいてくれ。俺は……大丈夫、だから」
鼻血と喀血のせいで赤く汚れた口元を拭い、息も絶え絶えにそれだけ告げる。痛みのあまり精霊との繋がりも切れてしまいそうだったが、なんとかリディーラの耳にもこの声は届いたようだ。
彼女の表情にわずかな迷いが生まれる。それを地上から精霊越しに見下ろして、それで。また意識は闇に飲まれてしまってーーーー
「これは一体どういうことだ!?」
零時を告げる時計の鐘が鳴り響く。ヴェルガがそれを聞いたのは、確かに後にしたはずの自室の寝台の中で。
跳ね起きるなりリートの姿を探す。虚空から現れたリートは、微苦笑を浮かべて肩をすくめていた。そんな彼を見て、ヴェルガはすべてを理解する。理解してしまう。再び昨日が始まろうとしていることを。




