回る回る
* * *
「ん……」
リディーラが目覚めたのは、三時を少し回った時のことだった。いつもならこんな時間に起きることなどないのだが、今日はなんだか眠りが浅く、先ほどから何度か起きてしまっている。これが四時や五時ぐらいなら諦めて起きてしまうのだが、まだ眠っていたほうがいいだろう。この時間なら眠ってしまっても朝には起きられるはずだ。
しかし一度去った眠気はなかなか戻ってこない。仕方ない、一度気晴らしに食堂でホットチョコレートでも飲んでこよう。そう思って、そろそろと寝台から抜け出した。
寮内は薄暗い。一応廊下の壁には照明がついているが、夜間ということもあって光の精霊の働きは控えめだ。とはいえ、歩けないほどの暗さではないので構わず進む。昔はこんな暗がりも怖くてヴェルガの後ろに隠れていたっけ、なんて思い出して小さく笑ってしまった。
ヴェルガから婚約の解消を打診されたとき、リディーラの世界は色を失った。結局あれはただの勘違いが原因で、婚約解消なんてなかったことになったが、もしあれが現実になってしまったらと思うとぞっとする。だってリディーラは、ヴェルガのことが恋愛的な意味で好きだったからだ。
きっかけはもう覚えていない。だが、子供の時から婚約者として一緒にいる、優しくて格好いい少年を好きになるなというほうが無理ではないだろうか。
己の才能や頭のよさを鼻にかけるでもなく、きちんとリディーラと同じ目線に立ってくれるし、そもそも彼の自信は実力に裏打ちされたものだ。むしろ法術の才能だけでなく、もっと色々なところに自信を持ってくれてもいいだろう。妙なところで卑屈で、弱気で。でも、そんなところも含めてリディーラはヴェルガを受け入れていた。
ヴェルガが同じ気持ちだったら嬉しい、と思う。変なところで責任感が強い彼のことだ、婚約者という肩書きだけを重く受け止めてリディーラの傍にいる可能性はなきにしもあらずだが、そこにちゃんと彼の意思という感情があることは疑っていない。
それが恋情である確証があるわけではないが、少なくともヴェルガに嫌われてはいないだろう。あとは本当に両想いであるかどうかだ。……さすがに、疑う余地はないとは思うが。
「……あら?」
食堂の扉を開けると明かりが漏れた。誰かいるのだろうか。静かに開けると、厨房のほうに人影があることに気づいた。
「夜の神に見守られたこの時が、よき安らぎの時間でありますように。何をしてらっしゃるの?」
驚かせないように声をかけて近づく。けれどあまり意味はなかったようで、人影は焦ったようにこちらを振り向いた。ヴェルガの異母妹、第二王女エレナだ。
「……ああ、レヴィア様。夜の神に見守られたこの時が、よき安らぎの時間でありますように」
エレナは背後に何かを隠した。不思議に思うが、それを覗き込むほど親しい間柄なわけでもない。むしろあまり会いたくない少女だ。リディーラの問いにも答えないことをいいことに、リディーラは愛想笑いを浮かべて、ホットチョコレートを用意しようとした。
「おかしいわね……確か、このあたりに……」
寮内の食器は基本的に備え付けのものだが、私物を持ち込んで使うことも可能で、カトラリーやカップの類を持参している寮生は多い。特に私物のカップは厨房に別で棚が用意されていて、そこにリディーラのティーカップも置いていた。
だが、そのティーカップが何故か見当たらない。きちんと寮生ごとに仕分けがされているし、数年前の誕生日に父から贈られた一点もののティーカップなのだから、他の寮生が間違えるはずもないだろう。それなのに、どうして。
「アルフェンリューク様、わたしの――」
息を飲んだ。ティーカップの棚に近づいたことでエレナとの位置関係が変わり、彼女の背後に何があるのか見えてしまったからだ。
よくわからない液体が入った小瓶と刷毛、そしてリディーラのティーカップ。リディーラの視線の先に気づいたのかエレナは慌てて身体をずらしたが、見てしまったものはもう忘れられない。
「……もう一度尋ねるけれど、何をなさっていたの?」
刷毛は小瓶の液体をティーカップに塗るためのものだろう。液体の正体がなんであれ、エレナはよからぬことを企んでいたに違いない。
だって、あれはリディーラが日常的に使っているティーカップだ。見間違えるはずがない。こんな深夜に人のティーカップに何かしようとするなんて、悪意しか感じられなかった。
「あ……貴方が悪いのよ! ヴェルガの婚約者のくせに、カイル様に色目を使うんですもの!」
「え?」
そんなことをした覚えはない、と反論しようとして、気づいた。きっとエレナが言っているのはツィーカのことだ。
まさかカイルが、エレナにツィーカの説明をしていないとは。おかげでただでさえよくない仲がさらにこじれてしまったようだ、とリディーラは小さくため息をついた。
「ディンヴァード様から聞いていらっしゃらないの? あれは――」
言葉は、また最後まで紡げなかった。
鬼気迫った表情のエレナの顔がすぐそこまで迫っていて、彼女の目は血走っていて、それはきっとこの現場をリディーラ本人に見られたからだとか、リディーラの言葉を中途半端に聞いてしまって神経を逆なでされたからとか、色々な理由があって。
だけど、それでも。
咄嗟に掴んだ包丁が、リディーラを刺していい理由になりはしない。
「ぇ……? 嘘、なんで……?」
「あ……ち、ちが……!」
我に返ったエレナはリディーラから離れる。それと同時に包丁が抜け、リディーラの腹部を染める赤いしみがどんどん広がっていった。立っていられず、リディーラはそのまま崩れ落ちてしまう。
(寒い、な)
頭上でどたばたと音がする。きっとエレナが慌てて自分のいた痕跡を消しているのだろう。このまま寮監でも呼んでくれればいいのだが。
ぼうっとする頭は、あれほど学んだ治癒の法術を忘却の彼方に追いやってしまった。守護の法術だってとっさには出てこない。だってリディーラはあくまでも公爵令嬢だ。本職の戦士でも、法術師でもない。
戦う力と身を守る力を持っていたとしても、それは魔物と戦うことを想定したものだ。これから魔物と戦うのだと気負っていけばどうとでもなるが、こんな風に奇襲をかけられてはひるんでしまう。そもそも対人なんて、魔物が相手の時とは勝手が違うだろう。
けれどそれを言ったらエレナだって王女で、まさか彼女がこうして自分で手を汚すなんて。他人は信じられないと、自分でやろうとしたのだろうか。こんなに簡単に、人を刺すなんて思わなかった。
(ヴェルガ……)
あれほど待ち望んだ眠りは今になってようやく訪れる。もう音は聞こえなくなっていた。
この眠気に飲まれるわけにはいかない。そう足掻くが、まぶたは重く閉じていくばかりで。
――――沈む意識の中で最期に視たのは、照れたように笑う最愛の婚約者の姿だった。
* * *
薄く開いた目には、窓から差し込む弱い光も眩しく感じる。ヴェルガはぼんやり目をこすりながらゆっくり起き上がった。いつの間にか眠っていたようだ。
頭が訴えるわずかな痛みを、顔を洗ってごまかす。夢見がいいとは言えなかった。内容などもう覚えてもいないが、何とも言えない苦さだけが消えずに残っている。体勢でも悪かったのか、首まで痛めてしまったようだ。やけに眠りが浅かったのは、カーテンの隙間を縫った朝日のせいだけではないだろう。
四時。起床には早すぎて、けれど二度寝するには遅すぎる時間だ。さっさと身支度を整えて、意識を覚醒させたほうがいいだろう。その後は今日の講義の予習でもしていれば、すぐに朝食の時間になる。身なりを整えて、さて教本を――――と伸ばした手は来客を告げるベルの音で動きを止めた。
はて、こんな時間に誰だろう。そう考えている間にもベルの音は鳴り止まない。来客はかなり焦っているようだ。とはいえ、こんな早朝にいきなり来られても困る。もしまだヴェルガが寝ていたらどうするつもりだったのだろう。ため息をつきつつ、「待っていてくれ」と声をかけて立ち上がった。
ドアの前に立っていたのは、ライドワイズ男子寮の寮監エストラだ。その顔は蒼白で息も荒い。服装も少し乱れていて、まるで今寝巻から着替えたばかりのようだ。几帳面な彼らしくないその姿に少し眉をひそめる。何かあったのだろうか。
「エスト、」
「アルフェンアイゼ! 詳しい話はあとだ、一緒に来てくれ!」
「えっ、ちょっ!?」
用件を尋ねる間もなくエストラは行ってしまった。ヴェルガの顔を見るなり弾かれたように走り出したのだ。寮内の廊下を走る寮生を見つけたら即座に捕まえて説教を始めるエストラが。さすがにただごとではないと、慌てて彼を追いかけた。
「なんなんですか、一体ッ……!」
もともとヴェルガは体力にあまり自信があるほうではない。しかしそれはエストラも同じで、追いつくこと自体はあまり難しくはなかった。ぜぇぜぇと息を切らしたエストラは、一瞬だけ憐れむような眼差しをヴェルガに向けた。
「自分の目で確かめたほうが早い。私の口から言ったところで、きっと君は信じないだろう」
「はぁ……。……って、ここ、女子寮区画ですよね? 入っていいんですか?」
あちこちに見慣れたエンブレムを掲げた、けれど男子寮とは異なる意匠の建物がある。女子寮だ。しかしエストラはためらう素振りも見せずにフィランピュアの女子寮へと入っていった。仕方なくついていく。あそこまで言われてはさすがに引き返せない。
「……いずれは君の耳にも入ることだ。なら、まずは君に知らせるのが道理というものだろう」
ある扉の前でエストラは足を止める。彼は悲しそうな声音でそう告げ、おもむろに扉を開けた。食堂のようだ。フィランピュア女子寮の寮監やフィランピュアの教師陣が散見される。見慣れない大人はここの使用人だろう。しかし誰もヴェルガを咎めず、ただ痛ましげに目をそらしていた。
「第一発見者は、朝食の仕込みをするために来た厨房の料理人だった」
食堂の奥の厨房に、特に人が集まっているようだ。女性の泣き声が聞こえる。気づけば誘われるようにふらふらとそちらに向けて歩き出していた。
「彼らはすぐにミクーシェ女史を呼んで、治癒の法術をかけたというが……手遅れだったそうだ。血を流しすぎていたらしい。恐らく彼女は深夜のうちに……」
エストラの声なんてもう聞こえなかった。世界が徐々に色あせていく。他のものは何も目に入らなかった。
「……気を落とすな、なんて無責任なことは言わない。ただ、目はそらすな。現実を見ろ。事実を飲み込め。そして感情を吐き出せ。誰も君を咎めはしない」
ヴェルガに気づいた大人達がその場から少し離れる。赤黒い床だった。その上で少女が寝ていた。
「リディー……ラ……?」
その名を舌先で転がす。繰り返す。リディーラ、リディーラ。返事はなかった。
その傍に座り込む。握った手は冷え切っていて。抱き寄せた身体は固かった。血の臭いが鼻をつく。いつもの甘い香りはしなかった。
「嘘だ……こんな、だって……ありえない……」
ここは王の名のもとに創られた学院だ。通う生徒は次代の国を担う貴族の子女が中心で。決して安全な場所とは言えないが、それはあくまでも講義の上での話だった。事故が起きる可能性はある、けれど事件が起きる可能性なんて限りなく低い。低いはずだ。低くなければいけない。そうでなければ、王侯貴族の子供達を預かれない。
この凶行に及んだ者は、外部からの侵入者ではない。いくらなんでも入れるわけがない。守衛の目はそこまで節穴ではないし、不当な侵入を許せばそれこそ学院の名折れだ。これはフィランピュア女子寮生の仕業であるに違いない。慈愛の女神フィランピュア、その名に祝福された少女達にこんな残酷なことができるなんて思いたくはないが――――神の祝福は、決して本人の性質にそぐうばかりのものではない。
「ごめん……肝心な時に、俺は……何も……」
リディーラ、リディーラ、イヴ、レヴィア。どう呼んでも、はしばみ色の目は開かない。亜麻色の髪を指で梳かす。髪は途中で絡まっていて、無理に梳こうとすればぶちぶち抜けた。それでも彼女は文句ひとつ言わない。ヴェルガの指から細く長い亜麻色の毛がはらはら落ちた。
「苦しかったよな……痛かった、よな……」
生気のない頬にそっと手を添える。弾力を失った肌はまるで人形のそれだ。伏せられた長いまつげはかげりを落とす。眠っているようだ、なんて穏やかさはなかった。
「俺は……俺は……!」
伝う涙がリディーラの頬を濡らす。人前で声をあげて泣くなんていつ以来だろうか。しかしそれに顔をしかめる者はいない。ヴェルガの慟哭を、誰もがただじっとうつむいて聞いていた。
それから先のことはよく覚えていない。ヴェルガはいつの間にか自室に戻っていた。フィランピュアの女子寮は封鎖され、憲兵達が駆けつけて寮生達に対する事情聴取めいたものが始まったようだ。憲兵達は外部から侵入した不審者の可能性も追っているそうだが、彼らが一番怪しんでいるのは言うまでもなくフィランピュア女子寮の寮生だろう。
殺人事件が起きて教師陣もてんやわんやだ。理由は伏せられたまま休校になり、すべての生徒が外出を控えるよう言い含められた。しかしフィランピュア女子寮に詰めかける見慣れない憲兵達は空気を乱す。フィランピュア女子寮で何か事件があったことは明白で、それぞれ勝手な憶測を始めた。
憲兵達の事情聴取は他寮にも及ぶ。怪しい人物を見なかったか、レヴィア嬢に恨みを抱く者に心当たりはあるか。さすがにここまでくればフィランピア女子寮でリディーラの身に何か起きたのだと察する者も多く出始め、ライドワイズ男子寮では好奇心に満ちた多数の目が自室に籠もるヴェルガのもとに寄せられていた。そんな者達も、ロランの辛辣な皮肉やアルフェンアイゼ派の生徒の威圧を浴びせられた瞬間にそそくさと逃げ出していたが。
すべてが自分とは無関係な世界で起きたことのようだった。何も考えられない。空気がざわめいていることに気づいたらしく事情を問うリートに、あったことを淡々と話す。リートは驚いていたが、それ以上彼と話す気力は湧かなかった。それはリートも察したのか、いつの間にかいなくなっていた。
リディーラを殺した犯人を探し出して、それから。こんなところで何もせずに呆けている場合ではない。やることが山積みだ。わかっている。それなのに、身体は思うように動いてくれなかった。目を開けたまま寝台に横たわって布団を深く被る。頭が割れそうだった。
「……ッ!」
ぐにゃり。視界が歪む。本格的に気分が悪くなってきたようだ。突然のめまい、それと同時に頭痛が襲う。ひどい痛みにうめき声が漏れた。
耐えられずにもがく。息が苦しい。身体が熱い。咳込むと同時に血を吐いた。鼻からどろりと溢れるのは鼻血だろうか。とても籠もっていられない。覆いかぶさる布団を乱暴にはねのけた。そして。
「……ぁ?」
外が暗い。それは照明をつけていないからでも、カーテンが日光を遮っているからでもない――――いつの間にか、夜になっていた。
思ったより長く引きこもっていたのだろうか。けれどおかしい。身体がだるくて頭がぼうっとするが、あの強いめまいと頭痛は嘘のように引いていた。
血の跡はどこにもなく、着替えた覚えのない寝巻は真っ白だ。寝たまま時計を見る。午前零時ちょうど。しばらくそれを呆然と見つめていたヴェルガは、いきなり響いた笑い声にびくりと身体を震わせた。
「あはははははっ! これはこれは、つまらなくないね!」
「リー……ト?」
「すべては星と時の神の導きのままに。死の女神の鎌は確かに振り下ろされた。けれどおめでとうヴェルガ、君は勇敢なる提琴弾きになれるらしい!」
音楽神ナイアは森と平和の女神レスピスの眷属神だ。神話では、バイオリンの名手で、死んだ恋人を蘇らせるために冥府の神を満足させようとその優れたバイオリンの腕を披露した青年として登場する。
彼の演奏は冥府の神のみならず十二の主神の心すら動かし、恋人は無事彼のもとに還ることができたという。そしてナイアは死後音楽を司るものとして神の座に列された。ナイアの伝承を思い出しながら、ヴェルガは縋るようにリートを見上げた。
「……リディーラを、生き返らせることができるのか?」
「大体そんな感じかな。……ああ、砂時計の砂はもう落ち始めているらしい。早くしないと間に合わないかもしれないな。せっかくの幸運だ、無駄にするのはもったいないよ」
リートは笑う。それは無邪気で純粋で、けれどだからこそ狂った笑みだった。
「君はあくまでもこの奇跡に巻き込まれただけだ。深みにはまる前に目的を達成して、星の導きの書の所有者を見つけてようじゃないか――永遠の循環が生み出される前に、ね?」




