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――はい?
インターフォンから流れる訪問者を誰何する声は母のものだった。
「あ……、巧巳だけど」
――えっ! 巧巳? ちょっ、ちょっと待ってなさい。
数秒で玄関のドアが開き、母が顔を出した。再婚を期に松尾さんが購入したこの一戸建ては閑静な住宅街にある。新築だった当時なら五千万円はくだらなかったのではないだろうか。松尾さんは『ローンだからね』と謙遜された。学生だった僕に〝自己資金がどれだけで借入はどのくらい〟とまでの計算は働かなかったが、地方上級公務員の社会的信用度については感心させられたものだ
「帰ってくるなら電話の一本くらい入れなさいよ。なんの準備もできないじゃない」
「息子が立ち寄るだけに準備なんか要らないって。それに僕はすぐに帰る。父さ……、えっと、あのひとに顔を見せてこいと言われて寄っただけだから」
ニュースを見た母が心配していたことは父から聞かされている。自殺などしない人間であることをわかってもらう必要があった。結果的に死んじゃってはいるのだが――。
「すぐにうちのひとも戻るから夕飯くらい食べていきなさい。さもなきゃ帰してあげないわよ」
ワーカホリックの傾向でもあるのか、ここのところ飛ばし屋の仕事をしていない僕は落ち着かなかった。でも松尾さんに挨拶もせぬまま立ち去るのも失礼かと思い、母の言いつけに従うことにする。
「それで、あんた……どうなの?」
リビングは模様替えされていた。ファブリック地のソファに掛けた僕の前に冷たい烏龍茶を置いて母が言った。――あの女性とはどんなお付き合いだったの? 結婚するつもりだったの? もう立ち直れた?
母が知りたいのはそんなところだろう。曖昧な訊ね方にすることで僕に話す気があるかどうかを推し測ろうとしたのだと思う。
「どうって? 元気にしてるよ」
「そっか、それならいい」まだ詳しく語る気にはなれない僕を察して母は言った。「困ったことがあったらなんでも言ってくるのよ」
僕のように飛ばし屋などやってなくたって、成長は家族にも語れない事実を増やしていく。それを父も母もはわかってくれていた。
「うん、ありがとう」
「あの、どうしようもないのも元気だったのね」
それが誰のことかは言わずもがなだ。
「へえ、少しは気になるのかい?」
「捨てた男が野垂れ死にすれば寝覚めは良くないわよ」
母が少しむきになったように思え、僕は言葉を選んで告げる。
「相変わらず、人生を謳歌することに一生懸命で人騒がせなところも昔のままだったね」
「そう」
母が安堵とも落胆とも取れぬ顔を浮かべた時、柱時計が七時を知らせる。
「そろそろ松尾が帰ってくるわ。巧巳、手伝ってくれない?」
「任せといて、ひとり暮らしで料理の腕は上がっているんだ」
「料理はもうできてる。テーブルに並べてくれればいいの」
「わかった」
僕がここに住んでいた頃から、市役所の住宅都市局に勤める松尾さんは、いつも七時半前には帰宅していた。一本のビールを旨そうに呑み、母の手料理に舌鼓を打つ。独身生活が長かったようで身の回りのことは一通りこなされる。仕事の愚痴をこぼすこともなく、母に向かって声を荒げる場面も見たことがない。まるで家庭人の見本のようなひとだった。
養子縁組は、僕たち兄弟の希望で行われなかったが、松尾さんは『すぐに新しい所帯を持つことになるだろうから』と理解を示してくれた。お蔭で僕は、血の繋がりのない彼を〝お父さん〟と呼ぶ不条理さから逃れられていた。
「この前の健康診断で高脂血症のマーカーが出てるって言われたらしいの」
母は野菜中心のおかずに言い訳のエッセンスをふりかける。〝超〟がつく偏食の父なら『俺はうさぎさんか!』と文句のひとつも出たろうが、三次元立体として不完全な僕はβ―エンドルフィンの分泌が行われない。「いいんじゃない? ヘルシーで」食べた物は体内を通過するだけ。エネルギーに変換する必要もなければ排泄の必要もなかった。
「恵は仕事なの?」
「ううん、有給とって友達を遊びに行ってる」
「あっ、また埋立地か。よく飽きもず何回も行けるもんだな」
「その言い方――」母は含み笑いを洩らす。「あんたの父さんにそっくりだわ」




