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「なんだ、結婚式の招待状でも持ってきてくれたのかと思ったよ」
夕食のテーブルに着いた松尾さんが頓狂な声を上げる。後退しかけた髪の生え際が汗で光っていた。僕の事情を、母は松尾さんに伝えてなかったらしい。
「僕の稼ぎじゃ、嫁さんをもらうなんてずっと先ですよ」
どの三次元宇宙の僕にせよ、幸以外の女性を生涯の伴侶に選ぶつもりはない。
「金のことならわたしに任せてくれればいいじゃないか」
ほろ酔い気分が松尾さんの気を大きくさせていた。
「そんなこと言って――。ここのローンだってまだ十二年も残ってるのよ」
母に窘められた松尾さんは逆にエスカレートする。
「長男の嫁取りなんだぞ。菓子まきだって盛大にやってだな――」
この地方では、嫁を出す家ともらう側が大量の菓子を見物人に撒くという古くからの習わしがある。地味婚が主流の昨今、その数もとんと減ったようだが、酔った松尾さんの価値観は対消滅なしで時代を遡っており、僕が松尾姓でないことも忘れていた。
「酷いな……。なんでこんなことするんだろう」
ロンドンで起きた同時爆発テロの様子がテレビに映し出されていた。結婚話を引きずりたくなかった僕は話題の転換を試みる。
「イラク人は粗暴だな」
現地事情をよく知らない保守派議員のような一言で切り捨てる。松尾さんは局長に就任されたと同時に組合活動も辞められていた。
「犯行声明はアルカイダから出てるみたいですよ。イラクは関係ないと思います」
「イスラム教信者に違いはなんだろう?」
大いに違う。薀蓄を語らせてもらえば〝イスラム〟という言葉は神への帰依、つまり宗教そのものをあらわしており〝イスラム教徒〟ではなく〝ムスリム〟と呼ぶのが正しい。そして当時アル=カイーダを率いていたウサーマ・ビン=ラーディンはサウジアラビア国籍だ。
「そうでしょうか」
「そうに決まってるじゃないか。イラクはアメリカに従って石油だけ輸出していればいいんだよ」
「僕もネットで配信されたのを見ただけですが、占領国であるアメリカ軍のやっていることは殺人あり略奪ありでめちゃくちゃですよ。米軍基地のある沖縄でも兵士による犯罪があれば大騒ぎするじゃないですか。あんなことが日常茶飯事のように起きていればイラク国民だって怒って当然だと思います」
「沖縄のアレは地方交付金目当てだよ。巧巳君にはまだわからないかもしれないが、騒いでる連中なんかほんの一握りだ。つい先だっても北朝鮮がミサイル実験をしただろう。米軍がいなくなったら日本はどうやって危機に備えるんだね」
悔しいことにその答えを僕は持ってない。しかし――
「経済制裁がいけなかったんじゃないですか? 第一次湾岸戦争時のイラク然り、第二次世界大戦前の日本然りです。あれが機能した歴史などあったためしがない。やってることはイジメと同じだと思います。イラクの経済制裁を解いていればクェート侵攻はなかったかもしれない。北朝鮮だって国民の不満を対外問題にすり替えるしかないからあんなことになるんじゃないでしょうか」
なんでこうまで斥力が増えてしまったかを僕に説明するため、リチャード翁は僕に世界情勢を学ばせた時、こう言った。
――地球上、ほぼすべての宗教に『自らが為されて苦しむことを他社に為すべきではない』という教えが存在する。なのになぜ、彼らは争うのだろうな。いつかわたしがあそこに戻ることがあっても二度と原子爆弾の開発には関わらない。欲望が生み出す悪意は、享楽に耽溺する意図的な無関心がその成長を支えたと言っても過言ではない。三次元宇宙がビッグリップを迎えるとすれば〝見て見ぬふり〟も悪意の執行者と同罪だ。
「いずれ巧巳君にも世の中の仕組みがわかる時がくるさ」
その程度の世界観しか持たない者が、なにを偉そうに――僕が口を開こうとした時、ハラハラした顔で僕と松尾さんを見ている母に気づいた。
――正しい答えを導き出す方法がわかんねえ時は思いつく最善を選んでおけ。答えが2を求める式は1+1だけじゃなく100―98も1×2だってある。後でもっといい方法を思いついた時に訂正すりゃいい――父はよくこう言っていた。
「そうですね、僕たちが言い争ったところでなんの解決にもなりません」
テレビはボストンタイプのメガネをかけたアメリカの副大統領と喜色満面で握手を交わす時代の総理大臣を映し出している。僕には、その顔が餌をもらう犬とダブって見えた。
「悪かったわね」
車に乗り込んだ僕に、母が言った。
「母さんが謝ることじゃないよ」
「そうだけど……、なんとなくね」
「松尾さんがいいひとだってことはわかってるよ。血の繋がってない僕の結婚資金まで出してくれようとしたんだしね」
「そう言ってくれると助かる。いいひとよ、ちょっと退屈ではあるけどね」
この世界で生を終える時、いい人生だったと振り返るための手段もひとつではない。父は波乱万丈に身を置きたがり、母は退屈でも平穏を選択したというだけのことだ。
「じゃあ行くよ」
「気をつけて」
済ますべきことを済ませバルクに戻らなければ――。逸る気持ちを抑え、僕はじんわりアクセルを踏み込んだ。




