第21話 最後の依頼
春も終わりに近づいたある朝、公爵家の応接室には、これまでにない重苦しい空気が漂っていた。
私は紅茶のカップを静かに置き、向かいに座る老紳士を見つめた。
年の頃は六十を過ぎているだろうか。
背筋は伸びているものの、その肩には深い疲労が刻まれている。
名は、エドワード・ランカスター伯爵。
王国でも古い家柄を持つ名門の当主だった。
「本日は、どのようなご相談でしょうか。」
私が穏やかに尋ねると、伯爵は一度だけ目を閉じた。
「……嘘を、暴いていただきたいのです。」
その一言で、部屋の空気がさらに重くなる。
隣に座るアルベルトも、静かに伯爵を見据えていた。
「相手は?」
アルベルトが短く問う。
「……私の息子です。」
その答えに、私は思わず瞬きをした。
◇
事情は複雑だった。
伯爵家の嫡男レオンは、半年後に侯爵令嬢との結婚を控えている。
誰もが祝福する縁談。
だが伯爵だけは、その婚約を止めたいと言う。
「理由を伺っても?」
私が尋ねると、伯爵は苦しそうに唇を噛んだ。
「息子は……恋をしております。」
「婚約者ではない方に。」
「はい。」
応接室が静まり返る。
「それなら婚約を破棄すればよいのではありませんか。」
私の率直な言葉に、伯爵はゆっくりと首を振った。
「それができぬのです。」
「なぜでしょう。」
「相手の女性が……亡くなっているからです。」
私は息を呑んだ。
アルベルトも僅かに眉を寄せる。
「二年前、流行病で命を落としました。」
伯爵は震える声で続けた。
「それ以来、息子は何も語らなくなったのです。」
「では、今の婚約は。」
「本人が望んだものではありません。」
「……。」
「家を守るために、自ら受け入れた縁談です。」
私はノートを閉じた。
今日は、観察を書く気にはなれなかった。
「では、嘘とは。」
伯爵は苦しそうに答えた。
「息子は、幸せだと嘘をついております。」
◇
伯爵が帰ったあとも、私は長い間黙っていた。
「どう思う。」
アルベルトが尋ねる。
私は窓の外を見る。
庭では白い猫が昼寝をしている。
穏やかな景色だった。
「幸せではないのでしょう。」
「たぶんな。」
「でも。」
私はゆっくりと言葉を選ぶ。
「本当に嘘でしょうか。」
アルベルトが私を見る。
「家を守るために結婚する。」
「その覚悟も、本心かもしれません。」
アルベルトは腕を組んだ。
「真実が一つとは限らない、か。」
「はい。」
私は頷く。
「だから難しいです。」
しばらく沈黙が続いた。
やがてアルベルトが静かに立ち上がる。
「会いに行こう。」
「レオン様へ。」
「ああ。」
「君一人では答えを出せない。」
「私も同じだ。」
その言葉に、私は小さく笑った。
「では。」
「一緒に観察しましょう。」
「……事件を解決するんだ。」
「同じ意味です。」
アルベルトは諦めたように肩を竦めた。
◇
翌日。
私たちはランカスター伯爵家を訪れた。
庭には手入れの行き届いた白薔薇が咲いている。
案内された書斎で待っていると、一人の青年が入ってきた。
整った顔立ち。
穏やかな物腰。
誰が見ても理想的な貴公子だった。
「初めまして。」
彼は微笑む。
その笑顔は、とても自然だった。
けれど。
私は違和感を覚えた。
「リリアーナ。」
アルベルトが小さく囁く。
「気付いたか。」
「はい。」
私は頷く。
「笑っているのに。」
「目が笑っていません。」
青年は静かに席へ着いた。
「父から事情は聞いております。」
「お恥ずかしい話ですね。」
「いいえ。」
私は首を振る。
「家族を想うことは恥ではありません。」
青年は一瞬だけ表情を崩した。
ほんの一瞬。
それだけだった。
「皆さん、同じことを言います。」
「私は幸せです。」
「婚約者も立派な方です。」
「家も守れます。」
「何も問題はありません。」
完璧な答え。
だからこそ、不自然だった。
私はゆっくり尋ねる。
「レオン様。」
「はい。」
「あなたは今、笑っています。」
「ええ。」
「では。」
私は静かに続けた。
「最後に、心から笑ったのは、いつですか。」
その瞬間だった。
青年の笑顔が止まる。
部屋に沈黙が落ちた。
時計の針だけが、小さく時を刻む。
レオンは答えない。
答えられない。
やがて彼は窓の外へ視線を向け、小さく呟いた。
「……覚えていません。」
私はノートを閉じる。
そして確信した。
この事件で暴くべき嘘は、誰かを騙すための嘘ではない。
自分自身を守るためにつき続けた、優しい嘘なのだ。
その嘘を暴いた先に、救いがあるのか。
それとも、新たな痛みが待っているのか。
まだ、私には分からなかった。
◇
公爵家への帰り道。
馬車の中で、私は珍しく黙っていた。
「難しい顔をしているな。」
アルベルトが穏やかに言う。
「はい。」
「今回は、嘘を暴くことが正しいのか分かりません。」
「……。」
「もし真実を明かしたことで、誰かがもっと苦しむなら。」
私は視線を落とした。
「私は、その仕事をしてもいいのでしょうか。」
馬車がゆっくり揺れる。
しばらくの沈黙のあと、アルベルトが口を開いた。
「だからこそ。」
「君が選ばれた。」
「え……?」
私は顔を上げる。
アルベルトは窓の外を見たまま続ける。
「君は、嘘を暴くことよりも。」
「その先で誰が泣き、誰が笑うかを考えられる。」
「それができる者は多くない。」
私は何も答えられなかった。
その言葉は、今まで誰からも言われたことがなかったからだ。
馬車の外では、夕日が王都の屋根を赤く染めている。
その光は柔らかく、どこか明日への希望を感じさせた。
けれど私の胸には、一つの問いだけが残っていた。
**真実は、人を幸せにするためにあるのだろうか。**
その答えを見つけることが、この最後の依頼なのだと、私は静かに悟っていた。




