第20話 夫婦は手をつなぐものらしい
朝から空はよく晴れていた。
昨日まで降り続いた雨が嘘のように青く澄み、屋敷の庭では小鳥が忙しそうに飛び回っている。
私は鏡の前で少しだけ困っていた。
「ミア。」
「はい、奥様。」
「街へ行く服というのは、どの程度まで街らしくするのでしょう。」
ミアは思わず吹き出しそうになりながら咳払いをした。
「街らしく……ですか。」
「はい。」
「難しいご質問ですね。」
「公爵家らしくし過ぎると目立ちますし、男爵家らしくだと公爵家に失礼でしょうか。」
「その心配はなさらなくても大丈夫です。」
ミアは用意していた淡い水色のドレスを取り出した。
豪華すぎず、それでいて上質。
胸元には小さな刺繍が施され、腰には細い白いリボンが結ばれている。
「今日はこれがよろしいかと。」
「動きやすそうですね。」
「ええ。」
「猫さんも追いかけられます。」
「今日は猫を追いかけないでください。」
「努力します。」
「信用できません。」
最近、この言葉をよく聞くようになった。
どうやら私は、あまり信用されていないらしい。
研究課題である。
◇
玄関へ降りると、アルベルト様がすでに待っていた。
黒ではなく、濃紺の上着。
普段より少し柔らかい印象だ。
「お待たせしました。」
「ああ。」
アルベルト様は私を見る。
一瞬だけ言葉が止まる。
「……似合っている。」
私は少し驚いた。
「服がですか。」
「ああ。」
「ありがとうございます。」
素直に礼を言う。
アルベルト様は少し照れたように視線を逸らした。
私は思わずノートへ手を伸ばく。
「今日は置いていけ。」
「なぜですか。」
「街を歩きながら書くつもりだろう。」
「……。」
否定できない。
「今日は観察より楽しめ。」
その言葉に、私は少しだけ考えた。
「分かりました。」
ノートをミアへ預ける。
「帰ってからまとめます。」
「それならいい。」
ミアが小さく笑っている。
何がそんなに面白いのだろう。
◇
王都の中心街は、休日ということもあり、多くの人で賑わっていた。
パン屋からは焼きたての香り。
花屋の前には色鮮やかな花束。
子どもたちが広場を走り回り、露店では果物や焼き菓子が並んでいる。
「賑やかですね。」
「ああ。」
「領地とは少し違います。」
「王都だからな。」
私たちはゆっくり歩いた。
今日は護衛も最低限。
アルベルト様も、公爵ではなく一人の男として歩いているように見えた。
「見てください。」
私はパン屋を指差す。
「猫の形です。」
窓に並んでいる小さな焼き菓子。
猫の顔をかたどったクッキーだった。
「……本当だな。」
「可愛いです。」
店の前まで行く。
店主が笑顔で迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。」
「こちらは猫ですか。」
「はい。人気なんですよ。」
私は一つ手に取る。
「アルベルト様。」
「何だ。」
「猫です。」
「見れば分かる。」
「食べますか。」
「君が食べたいなら買おう。」
「半分ずつにしませんか。」
アルベルト様は少し驚いたような顔をした。
「半分?」
「一つで十分です。」
「……ああ。」
店主が微笑む。
「仲がよろしいですね。」
私は首を傾げた。
「そうでしょうか。」
「ええ。」
店主は当然のように言う。
「ご夫婦でしょう?」
私はアルベルト様を見る。
アルベルト様もこちらを見る。
「はい。」
同時に答えた。
店主は嬉しそうに笑う。
「とてもお似合いですよ。」
私は礼を言った。
けれど、歩き始めてから少しだけ考える。
「お似合い。」
初めて言われた気がする。
◇
広場では楽団が演奏を始めていた。
人が集まり、通りは先ほどより混雑している。
「すごい人ですね。」
「離れるな。」
「はい。」
私は周囲を見回す。
珍しい楽器。
大道芸人。
小さな子ども。
見るものが多すぎる。
「あ。」
猫だ。
灰色の猫が露店の下を歩いている。
私は思わず一歩踏み出した。
その瞬間。
周囲の人波が大きく動く。
身体が人に押され、少しよろめいた。
転ぶ。
そう思った瞬間だった。
右手を誰かがしっかり掴む。
「危ない。」
低い声。
アルベルト様だった。
私はそのまま引き寄せられる。
人波が過ぎ去るまで、私たちは動かなかった。
「大丈夫か。」
「はい。」
私は自分の右手を見る。
アルベルト様の手が、まだ私の手を包んでいる。
温かい。
思っていたよりずっと。
「……。」
アルベルト様も気付いたらしい。
少しだけ動きを止める。
「すまない。」
手を離そうとした。
私は思わず言った。
「そのままで。」
アルベルト様が私を見る。
「また人が多いですから。」
私は真面目に説明する。
「安全です。」
「……。」
アルベルト様は少しだけ笑った。
「そうだな。」
それから。
私たちは自然に歩き始めた。
手をつないだままで。
◇
広場を抜けると、人通りは少なくなった。
小さな公園があり、ベンチには老夫婦が並んで座っている。
私たちはそこで一度休憩することにした。
「猫さんパンです。」
私は半分に割ったクッキーを差し出した。
「君が先だ。」
「では。」
一口食べる。
甘さは控えめで、ほんのりとバターの香りが広がった。
「美味しいです。」
「そうか。」
アルベルト様も食べる。
「悪くない。」
「二人で食べると、ちょうどいいですね。」
「そうだな。」
私は何気なく右手を見る。
まだ手をつないだままだった。
「あ。」
声が漏れる。
「どうした。」
「手。」
アルベルト様も見る。
「ああ……。」
二人とも少しだけ黙る。
「いつまでつないでいたのでしょう。」
「分からない。」
私は考える。
安全のためだった。
その目的は、もう終わっている。
でも。
嫌ではなかった。
アルベルト様も、すぐには離さない。
「アルベルト様。」
「何だ。」
「夫婦は。」
私は首を傾げる。
「手をつなぐものなのでしょうか。」
アルベルト様は苦笑した。
「たぶんな。」
「では。」
私は小さく頷く。
「今日は正解だったんですね。」
「……そういうことにしておこう。」
ゆっくりと手が離れる。
少しだけ名残惜しいような気がした。
理由は分からない。
◇
帰りの馬車。
私は窓の外を眺めていた。
街は少しずつ遠ざかる。
「今日は楽しかったか。」
アルベルト様が尋ねる。
「はい。」
私は笑った。
「初めて知ることがたくさんありました。」
「例えば。」
「夫婦は。」
私は少し考える。
「同じ部屋にいることも。」
「はい。」
「同じ物を半分こすることも。」
「そうだな。」
「手をつなぐこともあるそうです。」
アルベルト様は静かに笑う。
「今日は勉強になったか。」
「とても。」
私は頷く。
「追加観察事項が増えました。」
「結局そこへ戻るのか。」
「もちろんです。」
二人で笑う。
その笑い声は、以前よりずっと自然だった。
◇
その夜。
私はノートを開いた。
久しぶりに、一日分を書ききれないほど出来事があった。
ページをめくり、新しい紙へゆっくりと書き始める。
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**観察記録**
・街へ出掛けた。
・観察対象は服を褒めた。
・猫型のクッキーを半分ずつ食べた。
・人混みで手をつないだ。
・目的が終わったあともしばらく手をつないでいた。
**考察**
夫婦は、思っていたより自然に手をつなぐらしい。
なお。
観察者は嫌ではなかった。
理由は現在調査中。
追加観察を要する。
非常に要する。
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ノートを閉じる。
革のしおりを挟み、灯りを消した。
その頃、執務室ではアルベルトが一人、今日の出来事を思い返していた。
人混みで咄嗟に掴んだ手。
離そうとした時、
『そのままで。』
そう言った彼女の声。
それは照れ隠しでも、義務でもなかった。
ただ自然に出た言葉だった。
アルベルトは自分の右手を見つめる。
温もりはもう残っていない。
それなのに、思い出すたびに胸の奥が少しだけ温かくなる。
「……次は。」
静かな部屋で、小さく呟く。
「もう少し、遠くまで歩いてみるか。」
それは誰に聞かせるでもない、小さな約束だった。




