第2話 冷徹公爵と庭園の侵入者
「待ってください、公爵様。」
「来る必要はない。」
「観察対象が移動した場合、観察者も移動する必要があります。」
「その理屈はおかしい。」
「そうでしょうか。」
「そうだ。」
私はアルベルト様の後ろを歩きながらメモを取った。
――観察記録追加。
・移動中の歩幅が大きい。
・観察者を撒こうとしている節がある。
・しかし速度は落としている。
考察。
完全に拒絶しているわけではない。
アルベルト様がこちらをちらりと見る。
「今、何を書いた。」
「機密事項です。」
「私の情報なのだが。」
「観察対象に観察記録を開示する研究者はいません。」
「研究者なのか。」
「本日より。」
「今日決めたのか……。」
小さなため息。
本日二回目である。
ため息の頻度は高めかもしれない。
今後の観察が必要だ。
庭へ出ると、問題の侵入者は花壇の上に座っていた。
白と茶色の毛並み。
丸い顔。
立派な尻尾。
そしてこちらを見つめる堂々とした態度。
侵入者というより、もはや住人である。
猫はアルベルト様を見ると、
「みゃあ。」
と鳴いた。
すると。
「……また来たのか。」
アルベルト様の声が明らかに柔らかくなった。
私は即座にメモを取る。
・猫に対する声色が通常時と異なる。
・推定で二割ほど優しい。
「書くな。」
「もう書きました。」
「消せ。」
「記録の改竄は研究倫理に反します。」
「研究ではない。」
アルベルト様は猫の前でしゃがみ込んだ。
猫が近付いていく。
逃げない。
それどころか。
猫は当然のようにアルベルト様の足元に座った。
私は目を細める。
「懐いていますね。」
「……そうでもない。」
「既に三回来ているそうですが。」
「たまたまだ。」
「三回とも公爵様のところへ?」
「偶然だ。」
「なるほど。」
「その『なるほど』は信用できない。」
「今のところ、猫側からの好感度はかなり高いと推測しています。」
「……。」
アルベルト様は黙った。
図星の時の反応である。
すると。
アルベルト様が懐から小さな包みを取り出した。
私は固まる。
猫も反応する。
アルベルト様も固まる。
沈黙。
「公爵様。」
「違う。」
「まだ何も言っていません。」
「違う。」
否定が早い。
過去最速である。
「それは何でしょうか。」
「……おやつだ。」
「誰のですか?」
「私のだ。」
「魚の干物ですね。」
「……。」
「公爵様のおやつにしては渋いですね。」
「……。」
猫が期待に満ちた目で見上げている。
アルベルト様は観念したように小さく息を吐いた。
そして魚を差し出す。
猫は嬉しそうに食べ始めた。
私は静かにメモを取った。
――観察記録追加。
・餌付けをしている。
・おそらく常習犯。
・否定はしたが、反省の色は見られない。
考察。
重度の猫好きと思われる。
「だから書くなと言っている。」
「これは歴史的資料になります。」
「ならない。」
「数百年後の歴史学者が困ります。」
「困らない。」
「『冷徹公爵は猫にだけ優しかった』という重要な発見になります。」
「発見にするな。」
猫が食べ終わる。
するとアルベルト様は、ためらいながらもその頭を撫でた。
驚くほど優しい手つきだった。
私は思わず見入る。
普段の冷たい表情が、少しだけ柔らかく見える。
「……何だ。」
「いえ。」
「何だ。」
「優しい顔をするんだなと思いまして。」
アルベルト様の手が止まった。
猫が不満そうに鳴く。
「別に優しくなどない。」
「猫さんはそう思っていないみたいですよ。」
猫が再び擦り寄る。
アルベルト様は観念したように頭を撫で始めた。
私は静かに記録する。
・観察対象は猫に甘い。
・猫もそれを理解している。
・立場が逆転している可能性がある。
「それも書いたのか。」
「もちろんです。」
「……そのノートは燃やした方がいい。」
「困ります。」
「なぜだ。」
「今後、公爵様の生態を解明するために必要です。」
「私は珍獣ではない。」
「今のところ大型猫説が有力です。」
「却下する。」
「耳も少し似ていますし。」
「似ていない。」
「警戒心も強いです。」
「違う。」
「懐くと甘えますか?」
「違う。」
「なるほど。」
「今の『なるほど』は何だ。」
「否定が多い時は図星の可能性が高いです。」
アルベルト様は額を押さえた。
どうやら頭痛がするらしい。
結婚式で疲れているのだろう。
私は少し申し訳なくなった。
「すみません。」
「……急にどうした。」
「観察対象を疲れさせるのは本意ではありません。」
「観察対象と言うな。」
「では公爵様。」
「それでいい。」
私は少し考えた。
「アルベルト様。」
公爵様がこちらを見る。
今度は目を逸らさなかった。
「何だ。」
「名前で呼んでもよろしいのでしょうか。」
「夫婦だからな。」
たったそれだけ。
それだけなのに。
なぜだろう。
少しだけ嬉しかった。
私はノートを閉じる。
そして新しく書き加えた。
――観察記録追加。
・夫婦という言葉を自然に使う。
・名前呼びを許可。
考察。
観察対象は思ったより優しい生き物かもしれない。
「……また書いたのか。」
「はい。」
「今度は何だ。」
私は少し考える。
そして正直に答えた。
「秘密です。」
アルベルト様は少しだけ困ったような顔をした。
そして。
本当に少しだけ。
笑った。
今度は見間違いではない。
私は慌ててノートを開く。
「待て。」
「これは重要事項です。」
「書くな。」
「観察対象が笑顔を確認。」
「書くな。」
「極めて希少な現象。」
「書くな。」
「発生条件は追加調査を――」
「書くなと言っている。」
猫が呆れたように鳴いた。
その日。
冷徹公爵の屋敷に。
少しだけ賑やかな声が増えた。
たぶん。
きっと。
悪くない変化だった。




