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冷徹公爵の観察日記をつけていたら、いつの間にか溺愛されていました  作者: 冬眠前


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16/17

第16話 贈り物には理由があるらしい


男爵家から戻って三日が経った。


公爵家の屋敷は、以前と変わらない静けさを取り戻している。


朝になれば使用人たちが規則正しく動き始め、食堂には焼きたてのパンの香りが漂う。窓の外では、例の白と茶色の猫が花壇の縁を歩き、当然のようにこちらの様子を窺っていた。


変わったことがあるとすれば、食堂の棚に母の焼いた菓子が並んでいることだろう。


丸い焼き菓子が、籠の中にいくつも重ねられている。


母は帰り際、私に大きな包みを持たせた。


『あちらの皆さんで召し上がって』


そう言っていたけれど、実際には公爵家の使用人全員が食べても、まだ余るくらいの量だった。


母は昔から、心配を料理の量で表現する傾向がある。


私が風邪を引いた時には、三日分のスープを一度に作った。


少し元気がない時には、焼き菓子が山になった。


今回も、おそらく同じである。


娘が公爵家で無事に暮らしているかどうか、まだ完全には安心できていないのだろう。


私は朝食の席で焼き菓子を一つ皿に取り、向かい側へ差し出した。


「アルベルト様」


公爵様、と呼びかけそうになって、少しだけ迷った。


実家を訪れてから、名前で呼ぶ機会が増えている。


以前から許可はもらっていたけれど、実際に口にすると、まだわずかに落ち着かない。


アルベルト様は読んでいた書類から顔を上げた。


「何だ」


「母の焼いたお菓子です」


「昨日も食べた」


「今日は昨日とは違う種類です」


「そうなのか」


アルベルト様は菓子を見る。


薄い狐色の生地に、砕いた木の実が練り込まれている。甘さは控えめで、香ばしい香りがする。


母が父のためによく焼くものだ。


「こちらは甘さが少ないので、朝でも食べやすいと思います」


「詳しいな」


「幼い頃から食べていますので」


私が皿をさらに差し出すと、アルベルト様は少しだけ迷ったあと、一つ手に取った。


一口食べる。


表情はほとんど変わらない。


しかし、噛む速度が少しだけゆっくりになった。


そして、二口目へ移るまでの間が短い。


私は静かに観察した。


「何だ」


「いえ」


「その顔は何か書こうとしている顔だ」


「まだノートは開いていません」


「開くつもりはあるのか」


「もちろんです」


私は膝の上に置いていたノートを取り出した。


アルベルト様が小さく息を吐く。


最近は、止めても無駄だと理解し始めたらしい。


観察対象の学習能力は順調に向上している。


私はペンを取り、短く書き込んだ。


---


観察記録。


・母の焼き菓子を二日続けて食べた。


・本日は昨日より食べる速度が速い。


・二つ目へ視線を向けている。


考察。


甘さ控えめの焼き菓子を好む可能性が高い。


---


「視線まで記録するな」


「重要な情報です」


「二つ目を食べるとは言っていない」


「そうですか」


私は籠を自分の方へ戻そうとした。


その瞬間。


アルベルト様の手が伸び、二つ目の菓子を取った。


私は無言でノートに一行追加する。


「書くな」


「事実です」


「……母上には礼を伝えてくれ」


「母です」


「そうだったな」


アルベルト様は一瞬だけ気まずそうな顔をした。


公爵家の母親と、私の母親。


どちらも会話の中では「母」と呼ばれる。


まだ慣れていないのだろう。


私も同じだった。


結婚したことで、家族と呼ぶ相手が増えた。


けれど、その実感がどこにあるのかは、まだよく分からない。


「では、手紙を書きます」


「ああ」


「アルベルト様が二つ召し上がったと伝えます」


「そこまで細かく書かなくていい」


「母は喜びます」


「……なら、好きにしろ」


否定が弱い。


おそらく、本当に嫌ではないのだ。


私はさらに記録しようとして、ふと手を止めた。


昨日、父と話していた時のアルベルト様を思い出したからだ。


父は、娘をよろしくお願いしますと言ったのだろう。


何を話したのかは教えてもらえなかった。


でも、帰りの馬車の中で、アルベルト様はいつもより少しだけ静かだった。


そして、私の両親を「良い人だ」と言った。


家族認定には慎重だと思っていたけれど、実際にはもう、少しずつ自分の中へ取り込んでいるのかもしれない。


大型猫は、警戒しながらも新しい縄張りを受け入れつつある。


非常に興味深い変化だった。


「また大型猫のことを考えているな」


「なぜ分かるのですか」


「顔に出ている」


「最近、読解力が上がりましたね」


「君が分かりやすいだけだ」


それは少し意外だった。


私は自分では、表情に出にくい方だと思っている。


結婚初日にもそう伝えたはずだ。


「私は分かりにくい人間では?」


「最初はそう思った」


「今は違うのですか」


アルベルト様は答えず、コーヒーを口にした。


視線が少しだけ窓の方へ逸れる。


これは、答えたくない時の反応に近い。


私はノートへ書こうとした。


「それは書くな」


「まだ何も」


「今の質問に関することは書くな」


「機密事項ですか」


「そういうことにしておけ」


なるほど。


新しい分類が必要かもしれない。


観察可能だが記録を拒否される事項。


私は頭の中だけで覚えておくことにした。


以前、アルベルト様は「たまには、そのまま覚えていてくれ」と言った。


ノートに書かなくても、観察はできる。


まだ少し不思議な感覚だった。


けれど、悪くはない。



朝食を終えたあと、私は部屋で母への手紙を書いた。


焼き菓子は皆で食べていること。


使用人たちにも好評だったこと。


アルベルト様が二日続けて食べたこと。


二つ目を取る前に少し迷ったこと。


そこまで書いてから、これは報告として細かすぎるだろうかと考えた。


しかし、母はきっと喜ぶ。


消さずに残した。


『こちらでは元気に暮らしています』


最後にそう書き、私は一度ペンを止めた。


元気に暮らしている。


それは事実だった。


公爵家へ来たばかりの頃は、この屋敷が自分の居場所になるとは思っていなかった。


大きすぎる部屋。


静かすぎる廊下。


必要以上に丁寧な使用人たち。


そして、結婚初日に「君を愛することはない」と言った夫。


けれど今では、朝食の席にアルベルト様がいないと静かに感じる。


窓の外に猫がいないと、何かあったのかと気になる。


執務室の前を通れば、灯りがついているか確かめる。


いつの間にか、屋敷の中に「いつもの風景」が増えていた。


私は手紙の最後に一文を加えた。


『公爵様は、思っていたよりずっと優しい方です』


書いたあと、少し考える。


公爵様。


最近は、アルベルト様と呼ぶことが増えた。


けれど、母へ向けた手紙では、公爵様と書いた方が分かりやすい。


そういう理由である。


それ以上の意味はない。


おそらく。


私は手紙を封筒へ入れ、封をした。


その時、扉が叩かれた。


「奥様、失礼いたします」


ミアが顔を覗かせる。


「どうしました?」


「旦那様がお呼びです」


私は一瞬、反応が遅れた。


旦那様。


ミアたち使用人にとって、アルベルト様は私の旦那様である。


当たり前の呼び方だ。


けれど、自分がそう呼んだことはまだない。


「奥様?」


「いえ。どちらに?」


「執務室でございます」


「分かりました」


私は立ち上がる。


今の一瞬の停止は、観察対象外である。


自分自身の反応は記録していない。


今のところは。



執務室の前に立ち、扉を叩く。


「入れ」


聞き慣れた声が返ってくる。


中へ入ると、アルベルト様は机の前に座っていた。


左右には書類の山。


その中央だけが不自然に空いている。


何かを置くために場所を作ったようにも見えた。


「お呼びですか?」


「ああ」


「何かございましたか」


「大したことではない」


アルベルト様はそう言ったものの、すぐには次の言葉を続けなかった。


視線が机の引き出しへ向かう。


それから私へ戻る。


普段ならもっと迷いなく話す人だ。


仕事の指示を出す時に、言葉へ詰まることはほとんどない。


これは珍しい。


非常に珍しい。


私はノートへ手を伸ばしかけた。


「今日は書くな」


「まだ何も言っていません」


「言う前から分かる」


「観察対象の予測能力が向上しています」


「その言葉も書くな」


記録を禁じられる事項が増えている。


研究者としては困る。


しかし、今日はアルベルト様の方が明らかに落ち着かない。


私はノートから手を離し、待つことにした。


しばらくして、アルベルト様が引き出しを開けた。


中から取り出したのは、小さな包みだった。


深い青色の布で丁寧に包まれ、細い銀糸で結ばれている。


「これを」


差し出された包みを見て、私はすぐには手を伸ばせなかった。


「私にですか?」


「他に誰がいる」


「セバスチャンさんかもしれません」


「なぜセバスチャンにこれを渡す」


「中身が分かりませんので」


「……君は本当に」


アルベルト様は言葉を途中で止め、少しだけ額を押さえた。


いつもの仕草だ。


「開ければ分かる」


私は包みを受け取った。


思っていたより軽い。


指先で銀糸を解き、布を開く。


中に入っていたのは、一枚の革製のしおりだった。


深い茶色の革に、銀の糸で小さな猫が刺繍されている。


猫は横を向き、長い尻尾を足元へ巻きつけていた。


目立ちすぎない。


けれど、よく見れば細かな部分まで丁寧に作られている。


「可愛い……」


自然に声が出た。


しおりを指先で持ち上げ、光にかざす。


銀糸が窓から差し込む光を受け、わずかに輝いた。


猫の目には、青い小さな石が埋め込まれている。


アルベルト様の目と似た色だった。


「北方の職人が作ったものだ」


「北方の」


「ああ。革細工で有名な町がある」


「もしかして、以前のお仕事の時に?」


アルベルト様は一瞬だけ黙った。


「そうだ」


「私のために選んでくださったのですか?」


「……たまたま目に入った」


たまたま。


よく使う言葉である。


しかも今回は、返答までに少し間があった。


私はしおりとアルベルト様を交互に見た。


「猫だったからですか?」


「違う」


「否定が早いですね」


「店に猫の意匠しかなかった」


「そうなのですか」


「……鳥もあった」


「では、猫を選んだのですね」


「君が猫を気に入っているようだったからだ」


私は少しだけ驚いた。


アルベルト様は私が猫を気に入っていることを知っていた。


それ自体は不思議ではない。


いつも一緒に庭で見ているのだから。


けれど、それを覚えていて、遠い北方の町で私に合いそうなものを探してくれた。


「ありがとうございます」


私は改めて、しおりを両手で持った。


「大切に使います」


「ああ」


「観察ノートに挟みます」


アルベルト様の表情が止まった。


ほんの少しだけ。


「……そこなのか」


「はい?」


「いや。君が使うなら何でもいい」


「観察ノートは毎日使いますから、一番大切にできます」


そう説明すると、アルベルト様は少しだけ考えたあと、頷いた。


「なら、いい」


けれど、どこか完全には納得していないようにも見える。


私はしおりをノートの中へ挟んだ。


ちょうど、昨日の観察記録を書いたページだった。


革の色が紙によく馴染む。


「ぴったりです」


「ああ」


「猫さんの色も似ていますね」


「そうか」


「目の色はアルベルト様に似ています」


「……そうか」


今度は返事が少し遅かった。


耳がわずかに赤い。


私はノートを開こうとした。


「待て」


「重要事項です」


「今は書くな」


「なぜですか?」


アルベルト様は少しだけ眉を寄せた。


怒っているのではない。


困っている時の表情だ。


「贈り物を渡した直後に、その反応まで記録されるのは落ち着かない」


「そういうものですか?」


「そういうものだ」


私は考える。


観察対象へ贈り物をもらう。


受け取る。


喜ぶ。


そして、その反応を記録する。


私の中では自然な流れだった。


けれど、アルベルト様にとっては違うらしい。


「では、何をすればいいのでしょう」


「何もしなくていい」


「記録も?」


「ああ」


「観察も?」


「それは……」


アルベルト様が言葉に詰まった。


少しだけ間が空く。


「今だけは、受け取るだけでいい」


私はしおりを見る。


受け取るだけ。


それは少し難しい。


物を受け取るだけなら簡単だ。


けれど、おそらくアルベルト様が言っているのは、そういう意味ではない。


「贈り物には、何か意味があるのですか?」


私が尋ねると、アルベルト様は驚いたように私を見た。


「意味?」


「はい。物を渡すだけなら、使用人に頼めます」


「……そうだな」


「でも、アルベルト様は私を呼びました」


「それは」


「自分で渡したかったからですか?」


また沈黙が訪れた。


私は待った。


以前なら、すぐにノートを開いていただろう。


けれど今日は、なぜか書かずに待ちたいと思った。


アルベルト様は机の上へ視線を落とし、それから静かに答えた。


「君が喜ぶか、直接見たかった」


短い言葉だった。


けれど、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。


母の焼き菓子を食べてもらった時と似ている。


自分が好きなものを相手も気に入ってくれると、嬉しい。


アルベルト様も同じだったのだろうか。


私が喜ぶところを見たかった。


そのために、遠い北方でしおりを選び、自分で持ち帰り、机の引き出しへしまい、今日まで渡す時を考えていた。


そう考えると、しおりが急に重くなったような気がした。


実際の重さは変わっていない。


でも、含まれているものが増えた。


「嬉しいです」


私はもう一度言った。


今度は、先ほどよりゆっくりと。


「とても」


アルベルト様が顔を上げる。


目が合う。


以前なら、すぐにどちらかが逸らしていた。


今日は少し長く合っていた。


「そうか」


「はい」


「なら、よかった」


アルベルト様が小さく笑った。


大きな変化ではない。


唇の端がわずかに上がっただけ。


でも、私はもう見間違えない。


何度も観察してきたから分かる。


これは、安心した時の笑顔だ。


私はノートへ手を伸ばさなかった。


代わりに、しおりを指先でそっと撫でた。


今日は書かなくても覚えていられる。


そんな気がした。



部屋へ戻る途中、廊下でセバスチャンと出会った。


「奥様」


「はい」


セバスチャンの視線が、私の持つノートに挟まれたしおりへ向かう。


「あちらは」


「アルベルト様からいただきました」


「左様でございますか」


セバスチャンは穏やかに微笑んだ。


驚いてはいない。


むしろ知っていたように見える。


「ご存じだったのですか?」


「何のことでございましょう」


「しおりです」


「私は何も」


否定が少し遅い。


アルベルト様ほどではないけれど、セバスチャンも時々分かりやすい。


「北方から戻ったあと、アルベルト様が何か相談しましたか?」


「公爵様にも秘密はございます」


「なるほど」


「ただ」


セバスチャンは少しだけ声を落とした。


「公爵様がどなたかへの贈り物に、あれほどお時間をかけたのは初めてかと存じます」


「時間を?」


「私は何も申し上げておりません」


「今、かなり教えていただきました」


「気のせいでございます」


セバスチャンは一礼し、そのまま廊下を歩いていった。


私はしばらくその背中を見送った。


贈り物を選ぶのに時間をかける。


相手が喜ぶか考える。


直接渡し、反応を確かめる。


それは、私が思っていたよりずっと複雑な行為らしい。



夜。


私は机に向かい、観察ノートを開いた。


しおりを挟んだページが、すぐに開く。


銀糸の猫が、こちらを見上げている。


いつものようにペンを持つ。


けれど、何を書けばいいのか少し迷った。


観察対象、自ら贈り物を渡した。


北方の町で猫のしおりを選んだ。


贈り物を渡したあと、耳が赤くなった。


それだけなら簡単に書ける。


でも、今日一番大切だったのは、そこではない気がした。


『君が喜ぶか、直接見たかった』


その言葉を、観察記録として分解したくなかった。


理由は分からない。


書けば、いつでも読み返せる。


それなのに、今日は書かずに覚えていたい。


私はペン先を紙の上に置き、ゆっくりと一行だけ書いた。


---


観察記録。


・本日、贈り物を受け取った。


考察。


贈り物とは、物だけを受け取るものではないらしい。


---


そこまで書いて、私はペンを置いた。


追加観察を要する。


いつもなら最後にそう書く。


けれど今日は、書かなかった。


代わりにしおりをページへ挟み、ノートを閉じた。


手の中に残る革の感触が、なぜか心地よい。


私は寝台へ入ったあとも、何度かしおりのことを思い出した。


猫の意匠。


青い石。


少し不器用な渡し方。


そして、喜ぶところを直接見たかったという言葉。


胸の奥が、また少しだけ温かくなる。


これはおそらく、贈り物を受け取った時に起こる一般的な反応だろう。


少なくとも今は、そう結論づけておくことにした。



同じ頃。


執務室では、アルベルトが一人で書類を閉じていた。


机の引き出しを開く。


しおりを入れていた場所は空になっている。


それを見て、ようやく渡したのだと実感した。


北方の町で、最初に目へ入ったのは鳥の意匠だった。


次に狼。


馬。


そして猫。


猫を選んだ理由は、考えるまでもなかった。


彼女が喜ぶと思った。


ただそれだけだ。


けれど、店主に青い石を選ばせ、革の色を変えさせ、銀糸の模様を少し細く作り直させた。


気付けば、予定よりずっと時間がかかっていた。


帰りの馬車でも、本当に渡すべきか迷った。


重すぎないだろうか。


趣味に合わなかったらどうする。


観察ノート以外には使わないかもしれない。


実際、彼女は真っ先に観察ノートへ使うと言った。


少しだけ予想とは違った。


だが。


『嬉しいです。とても』


あの言葉を思い出す。


表情に出にくいと本人は言っていた。


だが今では、喜んでいる時くらい分かる。


目元が少し柔らかくなる。


声がほんの少し明るくなる。


大切なものを持つ時は、両手で包む。


いつの間にか。


観察しているのは、彼女だけではなくなっていた。


アルベルトは小さく息を吐く。


そして、誰もいない部屋でわずかに笑った。


「……喜んだなら、それでいい」


その声を聞いた者はいなかった。


ただ、窓の外で例の猫が一度だけ鳴いた。


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