第16話 贈り物には理由があるらしい
男爵家から戻って三日が経った。
公爵家の屋敷は、以前と変わらない静けさを取り戻している。
朝になれば使用人たちが規則正しく動き始め、食堂には焼きたてのパンの香りが漂う。窓の外では、例の白と茶色の猫が花壇の縁を歩き、当然のようにこちらの様子を窺っていた。
変わったことがあるとすれば、食堂の棚に母の焼いた菓子が並んでいることだろう。
丸い焼き菓子が、籠の中にいくつも重ねられている。
母は帰り際、私に大きな包みを持たせた。
『あちらの皆さんで召し上がって』
そう言っていたけれど、実際には公爵家の使用人全員が食べても、まだ余るくらいの量だった。
母は昔から、心配を料理の量で表現する傾向がある。
私が風邪を引いた時には、三日分のスープを一度に作った。
少し元気がない時には、焼き菓子が山になった。
今回も、おそらく同じである。
娘が公爵家で無事に暮らしているかどうか、まだ完全には安心できていないのだろう。
私は朝食の席で焼き菓子を一つ皿に取り、向かい側へ差し出した。
「アルベルト様」
公爵様、と呼びかけそうになって、少しだけ迷った。
実家を訪れてから、名前で呼ぶ機会が増えている。
以前から許可はもらっていたけれど、実際に口にすると、まだわずかに落ち着かない。
アルベルト様は読んでいた書類から顔を上げた。
「何だ」
「母の焼いたお菓子です」
「昨日も食べた」
「今日は昨日とは違う種類です」
「そうなのか」
アルベルト様は菓子を見る。
薄い狐色の生地に、砕いた木の実が練り込まれている。甘さは控えめで、香ばしい香りがする。
母が父のためによく焼くものだ。
「こちらは甘さが少ないので、朝でも食べやすいと思います」
「詳しいな」
「幼い頃から食べていますので」
私が皿をさらに差し出すと、アルベルト様は少しだけ迷ったあと、一つ手に取った。
一口食べる。
表情はほとんど変わらない。
しかし、噛む速度が少しだけゆっくりになった。
そして、二口目へ移るまでの間が短い。
私は静かに観察した。
「何だ」
「いえ」
「その顔は何か書こうとしている顔だ」
「まだノートは開いていません」
「開くつもりはあるのか」
「もちろんです」
私は膝の上に置いていたノートを取り出した。
アルベルト様が小さく息を吐く。
最近は、止めても無駄だと理解し始めたらしい。
観察対象の学習能力は順調に向上している。
私はペンを取り、短く書き込んだ。
---
観察記録。
・母の焼き菓子を二日続けて食べた。
・本日は昨日より食べる速度が速い。
・二つ目へ視線を向けている。
考察。
甘さ控えめの焼き菓子を好む可能性が高い。
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「視線まで記録するな」
「重要な情報です」
「二つ目を食べるとは言っていない」
「そうですか」
私は籠を自分の方へ戻そうとした。
その瞬間。
アルベルト様の手が伸び、二つ目の菓子を取った。
私は無言でノートに一行追加する。
「書くな」
「事実です」
「……母上には礼を伝えてくれ」
「母です」
「そうだったな」
アルベルト様は一瞬だけ気まずそうな顔をした。
公爵家の母親と、私の母親。
どちらも会話の中では「母」と呼ばれる。
まだ慣れていないのだろう。
私も同じだった。
結婚したことで、家族と呼ぶ相手が増えた。
けれど、その実感がどこにあるのかは、まだよく分からない。
「では、手紙を書きます」
「ああ」
「アルベルト様が二つ召し上がったと伝えます」
「そこまで細かく書かなくていい」
「母は喜びます」
「……なら、好きにしろ」
否定が弱い。
おそらく、本当に嫌ではないのだ。
私はさらに記録しようとして、ふと手を止めた。
昨日、父と話していた時のアルベルト様を思い出したからだ。
父は、娘をよろしくお願いしますと言ったのだろう。
何を話したのかは教えてもらえなかった。
でも、帰りの馬車の中で、アルベルト様はいつもより少しだけ静かだった。
そして、私の両親を「良い人だ」と言った。
家族認定には慎重だと思っていたけれど、実際にはもう、少しずつ自分の中へ取り込んでいるのかもしれない。
大型猫は、警戒しながらも新しい縄張りを受け入れつつある。
非常に興味深い変化だった。
「また大型猫のことを考えているな」
「なぜ分かるのですか」
「顔に出ている」
「最近、読解力が上がりましたね」
「君が分かりやすいだけだ」
それは少し意外だった。
私は自分では、表情に出にくい方だと思っている。
結婚初日にもそう伝えたはずだ。
「私は分かりにくい人間では?」
「最初はそう思った」
「今は違うのですか」
アルベルト様は答えず、コーヒーを口にした。
視線が少しだけ窓の方へ逸れる。
これは、答えたくない時の反応に近い。
私はノートへ書こうとした。
「それは書くな」
「まだ何も」
「今の質問に関することは書くな」
「機密事項ですか」
「そういうことにしておけ」
なるほど。
新しい分類が必要かもしれない。
観察可能だが記録を拒否される事項。
私は頭の中だけで覚えておくことにした。
以前、アルベルト様は「たまには、そのまま覚えていてくれ」と言った。
ノートに書かなくても、観察はできる。
まだ少し不思議な感覚だった。
けれど、悪くはない。
◇
朝食を終えたあと、私は部屋で母への手紙を書いた。
焼き菓子は皆で食べていること。
使用人たちにも好評だったこと。
アルベルト様が二日続けて食べたこと。
二つ目を取る前に少し迷ったこと。
そこまで書いてから、これは報告として細かすぎるだろうかと考えた。
しかし、母はきっと喜ぶ。
消さずに残した。
『こちらでは元気に暮らしています』
最後にそう書き、私は一度ペンを止めた。
元気に暮らしている。
それは事実だった。
公爵家へ来たばかりの頃は、この屋敷が自分の居場所になるとは思っていなかった。
大きすぎる部屋。
静かすぎる廊下。
必要以上に丁寧な使用人たち。
そして、結婚初日に「君を愛することはない」と言った夫。
けれど今では、朝食の席にアルベルト様がいないと静かに感じる。
窓の外に猫がいないと、何かあったのかと気になる。
執務室の前を通れば、灯りがついているか確かめる。
いつの間にか、屋敷の中に「いつもの風景」が増えていた。
私は手紙の最後に一文を加えた。
『公爵様は、思っていたよりずっと優しい方です』
書いたあと、少し考える。
公爵様。
最近は、アルベルト様と呼ぶことが増えた。
けれど、母へ向けた手紙では、公爵様と書いた方が分かりやすい。
そういう理由である。
それ以上の意味はない。
おそらく。
私は手紙を封筒へ入れ、封をした。
その時、扉が叩かれた。
「奥様、失礼いたします」
ミアが顔を覗かせる。
「どうしました?」
「旦那様がお呼びです」
私は一瞬、反応が遅れた。
旦那様。
ミアたち使用人にとって、アルベルト様は私の旦那様である。
当たり前の呼び方だ。
けれど、自分がそう呼んだことはまだない。
「奥様?」
「いえ。どちらに?」
「執務室でございます」
「分かりました」
私は立ち上がる。
今の一瞬の停止は、観察対象外である。
自分自身の反応は記録していない。
今のところは。
◇
執務室の前に立ち、扉を叩く。
「入れ」
聞き慣れた声が返ってくる。
中へ入ると、アルベルト様は机の前に座っていた。
左右には書類の山。
その中央だけが不自然に空いている。
何かを置くために場所を作ったようにも見えた。
「お呼びですか?」
「ああ」
「何かございましたか」
「大したことではない」
アルベルト様はそう言ったものの、すぐには次の言葉を続けなかった。
視線が机の引き出しへ向かう。
それから私へ戻る。
普段ならもっと迷いなく話す人だ。
仕事の指示を出す時に、言葉へ詰まることはほとんどない。
これは珍しい。
非常に珍しい。
私はノートへ手を伸ばしかけた。
「今日は書くな」
「まだ何も言っていません」
「言う前から分かる」
「観察対象の予測能力が向上しています」
「その言葉も書くな」
記録を禁じられる事項が増えている。
研究者としては困る。
しかし、今日はアルベルト様の方が明らかに落ち着かない。
私はノートから手を離し、待つことにした。
しばらくして、アルベルト様が引き出しを開けた。
中から取り出したのは、小さな包みだった。
深い青色の布で丁寧に包まれ、細い銀糸で結ばれている。
「これを」
差し出された包みを見て、私はすぐには手を伸ばせなかった。
「私にですか?」
「他に誰がいる」
「セバスチャンさんかもしれません」
「なぜセバスチャンにこれを渡す」
「中身が分かりませんので」
「……君は本当に」
アルベルト様は言葉を途中で止め、少しだけ額を押さえた。
いつもの仕草だ。
「開ければ分かる」
私は包みを受け取った。
思っていたより軽い。
指先で銀糸を解き、布を開く。
中に入っていたのは、一枚の革製のしおりだった。
深い茶色の革に、銀の糸で小さな猫が刺繍されている。
猫は横を向き、長い尻尾を足元へ巻きつけていた。
目立ちすぎない。
けれど、よく見れば細かな部分まで丁寧に作られている。
「可愛い……」
自然に声が出た。
しおりを指先で持ち上げ、光にかざす。
銀糸が窓から差し込む光を受け、わずかに輝いた。
猫の目には、青い小さな石が埋め込まれている。
アルベルト様の目と似た色だった。
「北方の職人が作ったものだ」
「北方の」
「ああ。革細工で有名な町がある」
「もしかして、以前のお仕事の時に?」
アルベルト様は一瞬だけ黙った。
「そうだ」
「私のために選んでくださったのですか?」
「……たまたま目に入った」
たまたま。
よく使う言葉である。
しかも今回は、返答までに少し間があった。
私はしおりとアルベルト様を交互に見た。
「猫だったからですか?」
「違う」
「否定が早いですね」
「店に猫の意匠しかなかった」
「そうなのですか」
「……鳥もあった」
「では、猫を選んだのですね」
「君が猫を気に入っているようだったからだ」
私は少しだけ驚いた。
アルベルト様は私が猫を気に入っていることを知っていた。
それ自体は不思議ではない。
いつも一緒に庭で見ているのだから。
けれど、それを覚えていて、遠い北方の町で私に合いそうなものを探してくれた。
「ありがとうございます」
私は改めて、しおりを両手で持った。
「大切に使います」
「ああ」
「観察ノートに挟みます」
アルベルト様の表情が止まった。
ほんの少しだけ。
「……そこなのか」
「はい?」
「いや。君が使うなら何でもいい」
「観察ノートは毎日使いますから、一番大切にできます」
そう説明すると、アルベルト様は少しだけ考えたあと、頷いた。
「なら、いい」
けれど、どこか完全には納得していないようにも見える。
私はしおりをノートの中へ挟んだ。
ちょうど、昨日の観察記録を書いたページだった。
革の色が紙によく馴染む。
「ぴったりです」
「ああ」
「猫さんの色も似ていますね」
「そうか」
「目の色はアルベルト様に似ています」
「……そうか」
今度は返事が少し遅かった。
耳がわずかに赤い。
私はノートを開こうとした。
「待て」
「重要事項です」
「今は書くな」
「なぜですか?」
アルベルト様は少しだけ眉を寄せた。
怒っているのではない。
困っている時の表情だ。
「贈り物を渡した直後に、その反応まで記録されるのは落ち着かない」
「そういうものですか?」
「そういうものだ」
私は考える。
観察対象へ贈り物をもらう。
受け取る。
喜ぶ。
そして、その反応を記録する。
私の中では自然な流れだった。
けれど、アルベルト様にとっては違うらしい。
「では、何をすればいいのでしょう」
「何もしなくていい」
「記録も?」
「ああ」
「観察も?」
「それは……」
アルベルト様が言葉に詰まった。
少しだけ間が空く。
「今だけは、受け取るだけでいい」
私はしおりを見る。
受け取るだけ。
それは少し難しい。
物を受け取るだけなら簡単だ。
けれど、おそらくアルベルト様が言っているのは、そういう意味ではない。
「贈り物には、何か意味があるのですか?」
私が尋ねると、アルベルト様は驚いたように私を見た。
「意味?」
「はい。物を渡すだけなら、使用人に頼めます」
「……そうだな」
「でも、アルベルト様は私を呼びました」
「それは」
「自分で渡したかったからですか?」
また沈黙が訪れた。
私は待った。
以前なら、すぐにノートを開いていただろう。
けれど今日は、なぜか書かずに待ちたいと思った。
アルベルト様は机の上へ視線を落とし、それから静かに答えた。
「君が喜ぶか、直接見たかった」
短い言葉だった。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。
母の焼き菓子を食べてもらった時と似ている。
自分が好きなものを相手も気に入ってくれると、嬉しい。
アルベルト様も同じだったのだろうか。
私が喜ぶところを見たかった。
そのために、遠い北方でしおりを選び、自分で持ち帰り、机の引き出しへしまい、今日まで渡す時を考えていた。
そう考えると、しおりが急に重くなったような気がした。
実際の重さは変わっていない。
でも、含まれているものが増えた。
「嬉しいです」
私はもう一度言った。
今度は、先ほどよりゆっくりと。
「とても」
アルベルト様が顔を上げる。
目が合う。
以前なら、すぐにどちらかが逸らしていた。
今日は少し長く合っていた。
「そうか」
「はい」
「なら、よかった」
アルベルト様が小さく笑った。
大きな変化ではない。
唇の端がわずかに上がっただけ。
でも、私はもう見間違えない。
何度も観察してきたから分かる。
これは、安心した時の笑顔だ。
私はノートへ手を伸ばさなかった。
代わりに、しおりを指先でそっと撫でた。
今日は書かなくても覚えていられる。
そんな気がした。
◇
部屋へ戻る途中、廊下でセバスチャンと出会った。
「奥様」
「はい」
セバスチャンの視線が、私の持つノートに挟まれたしおりへ向かう。
「あちらは」
「アルベルト様からいただきました」
「左様でございますか」
セバスチャンは穏やかに微笑んだ。
驚いてはいない。
むしろ知っていたように見える。
「ご存じだったのですか?」
「何のことでございましょう」
「しおりです」
「私は何も」
否定が少し遅い。
アルベルト様ほどではないけれど、セバスチャンも時々分かりやすい。
「北方から戻ったあと、アルベルト様が何か相談しましたか?」
「公爵様にも秘密はございます」
「なるほど」
「ただ」
セバスチャンは少しだけ声を落とした。
「公爵様がどなたかへの贈り物に、あれほどお時間をかけたのは初めてかと存じます」
「時間を?」
「私は何も申し上げておりません」
「今、かなり教えていただきました」
「気のせいでございます」
セバスチャンは一礼し、そのまま廊下を歩いていった。
私はしばらくその背中を見送った。
贈り物を選ぶのに時間をかける。
相手が喜ぶか考える。
直接渡し、反応を確かめる。
それは、私が思っていたよりずっと複雑な行為らしい。
◇
夜。
私は机に向かい、観察ノートを開いた。
しおりを挟んだページが、すぐに開く。
銀糸の猫が、こちらを見上げている。
いつものようにペンを持つ。
けれど、何を書けばいいのか少し迷った。
観察対象、自ら贈り物を渡した。
北方の町で猫のしおりを選んだ。
贈り物を渡したあと、耳が赤くなった。
それだけなら簡単に書ける。
でも、今日一番大切だったのは、そこではない気がした。
『君が喜ぶか、直接見たかった』
その言葉を、観察記録として分解したくなかった。
理由は分からない。
書けば、いつでも読み返せる。
それなのに、今日は書かずに覚えていたい。
私はペン先を紙の上に置き、ゆっくりと一行だけ書いた。
---
観察記録。
・本日、贈り物を受け取った。
考察。
贈り物とは、物だけを受け取るものではないらしい。
---
そこまで書いて、私はペンを置いた。
追加観察を要する。
いつもなら最後にそう書く。
けれど今日は、書かなかった。
代わりにしおりをページへ挟み、ノートを閉じた。
手の中に残る革の感触が、なぜか心地よい。
私は寝台へ入ったあとも、何度かしおりのことを思い出した。
猫の意匠。
青い石。
少し不器用な渡し方。
そして、喜ぶところを直接見たかったという言葉。
胸の奥が、また少しだけ温かくなる。
これはおそらく、贈り物を受け取った時に起こる一般的な反応だろう。
少なくとも今は、そう結論づけておくことにした。
◇
同じ頃。
執務室では、アルベルトが一人で書類を閉じていた。
机の引き出しを開く。
しおりを入れていた場所は空になっている。
それを見て、ようやく渡したのだと実感した。
北方の町で、最初に目へ入ったのは鳥の意匠だった。
次に狼。
馬。
そして猫。
猫を選んだ理由は、考えるまでもなかった。
彼女が喜ぶと思った。
ただそれだけだ。
けれど、店主に青い石を選ばせ、革の色を変えさせ、銀糸の模様を少し細く作り直させた。
気付けば、予定よりずっと時間がかかっていた。
帰りの馬車でも、本当に渡すべきか迷った。
重すぎないだろうか。
趣味に合わなかったらどうする。
観察ノート以外には使わないかもしれない。
実際、彼女は真っ先に観察ノートへ使うと言った。
少しだけ予想とは違った。
だが。
『嬉しいです。とても』
あの言葉を思い出す。
表情に出にくいと本人は言っていた。
だが今では、喜んでいる時くらい分かる。
目元が少し柔らかくなる。
声がほんの少し明るくなる。
大切なものを持つ時は、両手で包む。
いつの間にか。
観察しているのは、彼女だけではなくなっていた。
アルベルトは小さく息を吐く。
そして、誰もいない部屋でわずかに笑った。
「……喜んだなら、それでいい」
その声を聞いた者はいなかった。
ただ、窓の外で例の猫が一度だけ鳴いた。




