下層突入
未来人が消えた後も。
十五層には、鉛のように重苦しい沈黙が残っていた。
誰もすぐには口を開けない。
粉々に砕けた岩壁。
光の中に消えた、あの巨大な存在。
そして――アルカディア。
未来人が死に際に残したその言葉だけが、私の頭の中で何度も反響していた。
「……」
最初に動いたのは、やはり黒城だった。
一度だけ砕けた壁へ冷徹な視線を向け、それから、何事もなかったかのように私たちを振り返る。
「攻略を続行します」
静かな声だった。だが、そこには一切の迷いがない。
天宮もすぐに端末へ目を落とし、小さく頷いた。
「ダンジョン攻略期限まで、残り三日です」
「未来人が出てきた直後に言う台詞じゃねえな、お前ら」
霧島が紫煙を吐き出しながら、呆れたように笑う。
「だからです」
黒城は即答した。
「今ここで立ち止まったところで、私たちは何も分かりません」
曲湾師が楽しげに肩を竦める。
「賛成だ。どうせ二十層まで行く予定だったしな。ここで引き返す方が寝覚めが悪い」
結局、反対する者は一人もいなかった。
私たちは再び、歩き始めた。
十五層のさらに奥――未踏の下層へと続く階段に向かって。
十六層へ足を踏み入れた瞬間。
肌を焼くような熱気が、正面から押し寄せてきた。
「暑っ……」
思わず衣服の襟元を引っ張りながら、声が漏れる。
周囲には、十五層までとは打って変わって赤黒い岩肌がどこまでも広がっていた。地面のあちこちをどろりとした溶岩が川のように流れており、空気そのものが熱で歪んでいる。
「環境変化型か」
曲湾師が珍しそうに辺りを見回した。
「十五層までとは別のダンジョンに来たみてえだな」
その時だった。
前方の赤黒い岩陰から、地響きと共に何かが飛び出してきた。
「来ます!」
私が叫ぶ。
全長六メートルほど。真紅の強固な鱗に覆われた巨大な蜥蜴。
Bランク魔物――《紅鱗サラマンダー》。
魔物が大きく顎を開き、咆哮と同時に灼熱の火炎を吐き出そうとする。
だが。その炎が放たれるより一瞬早く、黒城の姿が視界から消えた。
次の瞬間、サラマンダーの首筋から鮮血が激しく噴き出す。
魔物が苦痛の咆哮を上げた、そこへ。
――パンッ!
乾いた銃声。天宮だった。
放たれた濃密な魔力弾が、黒城の刻んだ首筋の傷口へと正確に撃ち込まれ、肉体の内部で炸裂する。サラマンダーの巨大な動きが目に見えて鈍った。
「邪魔だな」
霧島が気怠げに煙草をふかすと、吐き出された紫色の煙が蛇のように伸び、魔物の四肢を瞬時に縛り上げた。サラマンダーが必死に暴れる。
だが、それすらも。
「うるせえよ」
曲湾師が片手を軽く一振りした、ただそれだけで。
空間そのものが歪み、巨体が凄まじい力で地面へと叩きつけられた。
轟音が響き、身動きの取れなくなった魔物の心臓を、黒城の短剣が容赦なく一突きで貫く。
戦闘終了。
遭遇してから、わずか数十秒の出来事だった。
「……強い」
あまりの圧倒的な実力差に、私はただ呆然と呟くことしかできない。
「今さらか?」
霧島がニヤリと笑ったが、私は何も言い返せなかった。これが、この国の頂点に立つS級探索者たちの戦いなのだ。
十七層。十六層よりもさらに奥。
ここではBランク魔物《溶岩ハウンド》の群れと遭遇した。その数、二十体以上。
普通の探索者チームなら、出会った時点で全滅を覚悟するレベルの数だ。
だが。
『寝て』
私の足元で、夢喰いがぽつりと呟いた。
その瞬間、押し寄せていた群れの半数近くが、糸の切れた人形のようにドサドサと地面へ倒れ込み、そのまま深い眠りに落ちていく。
「相変わらず反則的な能力だな、おい」
霧島が苦笑しながら、残った数体を煙で絡め取る。
残党は黒城たちが息を吸うように片付けた。
結果、怪我人はゼロ。
私たちはあっさりと、十七層をも突破した。
――十八層へと続く階段の前。
一行は水分補給を兼ねた、短い休憩を取っていた。
「アルカディア」
私が、口の中でその名前を転がすように呟く。
周囲の空気があからさまに緊張したが、誰もすぐには反応しなかった。
「……本当に、誰も聞いたことがないんですか」
「ない」
天宮が即答した。その表情はいつになく険しい。
黒城も無言で首を振る。
曲湾師も「聞いたことねえな」と顔をしかめた。
夢喰いだけは、膝を抱えたままじっと黙っている。
「管理局の極秘記録にも、その名前は存在しません」
天宮が冷たく言った。
「――少なくとも、『表向き』は、ですが」
その言葉だけで、私には十分だった。
アルカディア。
彼らは確実に、管理局の目すら欺き、世界の裏側で何かを企てている。
そして。私たちは十八層へと足を踏み入れた。
その瞬間、全員が、文字通り一歩も動けずに足を止めた。
そこに広がっていたのは、天井すらも見えないほどの、気の遠くなるような巨大な大空洞だった。下から吹き上げる激しい熱風が、私たちの髪を揺らす。
そして、その巨大な空が完全に『埋まって』いた。
「……は?」
思わず、呆気にとられた声が漏れる。
赤黒い巨大な翼。鋼のような鋭い爪。禍々しい爬虫類の頭部。
上空を、信じられない数の魔物が、凶悪な魔力を撒き散らしながら旋回している。
「おいおい」
霧島が煙草を咥えたまま、珍しく目を見開いて空を見上げた。
「何匹いるんだよ、あれ」
天宮が冷徹に、その数をカウントしていく。
「二十八」
「は?」
「上空で確認できるだけで、二十八体です」
全員が沈黙した。
Bランク上位魔物――《灼熱ワイバーン》。
一頭だけでも街を一つ崩壊させかねない災厄が、信じられないことに『群れ』を成している。普通なら、国家規模の軍隊を動員する討伐案件だった。
だが、その絶望的な光景を前に、曲湾師が獰猛に口角を釣り上げた。
「――面白え」
黒城が、静かに短剣を二本、引き抜く。
「殲滅します。零、下がっていなさい」
その言葉を合図にするかのように。
空を覆い尽くす二十八体のワイバーンが一斉に咆哮し、灼熱の暴風が吹き荒れた。
私は下がりながら、その光景を見ていた




