成れの果て
十五層は、不気味なほどに静まり返っていた。
誰も動けない。動くことすら許されない。
壁の奥、黒い亀裂の向こうから覗く巨大な目が、確かにこちらを凝視している。
その視線に晒されているだけで、鉛を流し込まれたように身体が重い。呼吸すら苦しくなる。
生物としての存在の階梯が、根本から違う。
脳がそう錯覚するほどの、圧倒的な圧迫感だった。
バキッ――。
亀裂がさらに広がり、岩壁の破片が激しく崩れ落ちる。
そして、その暗黒から『巨大な腕』が現れた。
黒い魔力に覆われた腕。
それは紛れもなく、人間の形をしていた。
だが、あまりにも大きすぎた。壁の向こう側からゆっくりと伸びてきたその片腕だけで、地上の一般的な建物ほどの質量がある。
「――総員、戦闘準備」
黒城が即座に、鋭い命令を飛ばした。
全員がそれぞれの武器を構える。
だが、誰一人として自ら飛び出そうとはしなかった。
敵意がない。これほどの質量でありながら、こちらを害する意志が微塵もないことが、その佇まいから分かってしまったからだ。
巨大な存在は、崩れかけた壁にそっと手を添えた。
そして、ゆっくりと、その身体をこちら側へと近づけてくる。
ズン――。
地響きが鳴り、足元の地面が大きく揺れる。
私は《白虹》の視界を維持したまま、現れたその姿をただ凝視していた。
巨大だった。十五層の広大な空間をすべて埋め尽くしそうなほどに。その全身のひび割れからは、どす黒い魔力が絶え間なく噴き出している。肉体の一部は今もボロボロと崩れ落ちており、人間の形を保っていること自体が奇跡に近い状態だった。
それなのに、崩落しかけたその巨体の、顔だけは。
はっきりと、人間のものだった。
「……っ」
天宮が、息を呑む。
「人間……? 」
巨大な存在が、ゆっくりと口を開いた。
そして、声が響く。
頭の中に直接語りかけてくる。
――ようやく、届いた。
全員の身体が、驚愕で硬直する。あの黒城ですら、一瞬だけ目を見開いて表情を変えた。
巨大な存在は、ただ静かに私たちを見下ろしている。
その瞳に敵意はない。あるのは、狂おしいほどの焦燥と、深い後悔だけだ。
――聞いてくれ。
――時間がない。
「……あなたは、誰ですか」
天宮が、震える声を絞り出すようにして問うた。
巨大な存在は、少しだけ目を閉じた。まるで、遥か遠い記憶を手繰り寄せるように。
そして、答えた。
――人間だった。
――未来の……人間だ。
曲湾師が、顔を獰猛にしかめて前へ出る。
「未来人、だと……? 」
――そうだ。
――俺たちは、未来の、人類の成れの果てだ。
足元で夢喰いが小さく震えている。あの霧島すらも、珍しく表情を消して黙り込んでいた。
冗談ではない。誰もが本能でそれを理解していた。目の前の存在は、決して嘘をついていない。
未来の人類は、そのまま言葉を紡ぐ。
――『人類進化計画』
その言葉が、静まり返った十五層に重く響き渡った。
「……何ですか、それは」
天宮が重ねて問う。
――人類を、無理やり進化させる計画だ。
――魔力によって。人類を次の段階へ進めるための、愚かな計画だった。
さらに黒い魔力が身体から溢れ出す。
その負荷に耐えかねたように、未来人の肉体がバキバキと音を立てて崩れていく。肩の一部が、大きな岩塊のように砕け落ちた。
――だが、失敗した。
――人は、人でいられなくなった。
私は目の前の巨体を見上げた。
人でいられなくなった結果が、この、化け物と変わらない姿なのだ。
未来人は、酷く苦しそうに声を絞り出す。
――俺は……その計画の、装置の近くにいた。
――最も近くで、その魔力を浴びた。だから、こんな姿になって生き長らえている。
天宮の顔色が、完全に失われた。
「装置……?」
未来人は、ゆっくりと、肯定するように首を縦に振った。
――全ての始まりだ。世界を、壊した。
重苦しい沈黙が、その場を支配する。
そして、未来人は私たちを見つめ、最期の、そして最大の言葉を告げた。
――止めろ。
黒城が短剣を握り直し、鋭く問い詰める。
「何を、止めるのです」
未来人の瞳が、激しく揺れた。
その崩壊しかけた顔に、初めて明確な『恐怖』が浮かび上がる。
――『アルカディア』
誰も、聞いたことのない名前だった。
だが、未来人は確かにその名を口にした。
――この時代にも、すでに存在する。
――人類進化計画を、裏で進めている。
天宮が息を呑む。
「現代にも……? すでに、始まっているというのですか……!」
未来人は、力強く頷いた。
――始まっている。まだ規模は小さい。
――だが、今止めなければ……未来は、また繰り返される。
「どこにいるの!?」
私は思わず、一歩前に踏み出して叫んでいた。
「アルカディアって、何なの!? どこを止めればいいの!?」
未来人は、私の姿をその巨大な瞳に映した。
そして、すべてを察したかのように、どこか救われたような顔で、小さく笑った。
――間に合う。
――まだ。
バキバキバキッ!!!
凄まじい音と共に、彼の全身へ無数の亀裂が走る。
限界だった。空間を超えて干渉し続けた未来人の肉体が、ついに完全な崩壊を始める。
――頼む。
――止めてくれ……俺たちの、あの最悪な未来を。
視界を埋め尽くすほどの白い光が溢れ出す。
轟音。吹き荒れる黒い魔力の暴風。
やがて光と風が収まったとき――そこには、もうあの巨大な存在は影も形もなかった。
十五層にぽつんと残されたのは、粉々に砕け散った岩壁の残骸と。
私たちの耳の奥に刻みつけられた、たった一つの、呪いのような名前だけだった。
――アルカディア。




