異常増殖
翌朝。
目を覚ました瞬間、頭が重かった。
「……」
天井を見上げる。
管理局の宿舎。見慣れた、無機質な部屋。
けれど、昨日の遠征の疲労は微塵も抜けていなかった。《白虹》と《残雪》。人類の脳が処理すべきではない二つの異能を、深層で長時間使い続けた反動だ。こめかみの奥が、重い鉄球で叩かれているように鈍く痛む。
私はなんとか身体を動かして、ベッドから起き上がった。
枕元で、端末が小さく震えた。
画面を見ると、黒城さんからの通知が表示されている。
『至急、解析室へ』
短い。いつも以上に余計な装飾が省かれた、冷徹な一文。
「……何かあったな」
胸の奥で、嫌な予感が小さく鎌首をもたげた。
⸻
解析室の扉を開けた瞬間、肌が痛くなるほどの重苦しい空気が押し寄せてきた。
室内にはすでに黒城、天宮、夢喰い、そしてパイプ椅子に座った曲湾師が揃っている。
「おはようございます」
「おはようございます」
黒城の返事はいつも通りだった。
けれど、表情が硬い。
「何かありましたか」
私が聞くと、黒城は無言で大型モニターを指差した。
そこに映し出されていたのは、昨日私たちが行ったダンジョンのデータだった。複雑なグラフが、不気味に右上へと跳ね上がっている。
「魔力濃度が上昇しています」
「どのくらいですか」
「昨夜から二十二パーセント」
「え?」
思ったより多い。
「原因は」
「不明です」
天宮が言う。
「正直に申し上げて、管理局のシステムでは意味が分かりません。完全に計算外です」
その間にも、モニターの数値がリアルタイムで明滅し、更新される。
また上がった。ほんの少し、けれど、絶対的な確実さを持って。
「今も増えてるんですか」
「増えています」
黒城が答えた。
「停止する気配がありません」
不気味な沈黙が部屋を支配する。
その時、私の足元で膝を抱えていた夢喰いが、小さな声を零した。
『近い』
全員の視線が、一斉に私の隣の黒い影へと集まる。
「……何がですか?」
私の問いに、夢喰いの黒紫の瞳は迷わなかった。
『壁』
十五層の壁の向こう。形のない何か。
「近いって……位置が動いているんですか?」
『違う』
夢喰いは小さく首を振った。
『近い』
それ以上は言葉で説明できないらしい。物理的な距離ではない。概念の距離なのか、それとも世界の位相が近づいているのか。
けれど、夢喰いのこういう「直感」は、今まで一度だって外れたことがなかった。
曲湾師が椅子の背もたれに深く体重を預け、天井を仰ぐ。
「おいおい、嫌な話だなあ」
「そうですね」
天宮も、この時ばかりは珍しく曲湾師の言葉に同意した。
「あの……霧島さんは?」
私が尋ねると、天宮が手元の書類に目を落とした。
「呼んではいます」
「来ますかね……」
「知りません。あいつの気分次第です。……来てほしいですけどね、こういう時くらいは」
天宮の愚痴に重なるようにして、自動ドアが静かに開いた。
しっとりとした、白い煙が部屋に流れ込んでくる。
「噂をすれば、本当に来やがったな」
曲湾師が、いたずらっぽく笑う。
煙の向こうから現れたのは、酷く不機嫌そうな顔をした霧島だった。
「朝っぱらから呼び出すんじゃねえよ、天宮」
「非常事態です」
「知ってる」
霧島は悪態をつきながらも、すぐに視線を大型モニターへと向けた。
そして。
一秒、二秒、三秒――。
咥えた煙草を弄びながら、完全に沈黙した。
「……増えてるな」
低く、冷え切った声だった。室内の時間が止まる。
「分かるんですか、霧島さん」
天宮が身を乗り出して聞く。
「分かる」
「中で、何が起きているんです」
「知らん」
「知らないんですか!?」
「バカかお前は。分かるのと、知ってるのは別だ」
霧島は新しい煙草をポケットから取り出し、火をつけずに口に咥えた。
「放置はまずい。それだけは確かだ」
全員が息を呑んだ。国家滅亡級災害指定の男が、明確に「まずい」と言ったのだ。
「どの程度、まずいんですか」
黒城が冷徹に、けれど僅かに声を強めて尋ねる。
霧島は少しだけ考えるように視線を彷徨わせた。
「まだ分からん。……だが、昨日の朝から感じてた『嫌な感じ』が、比べものにならねえくらい強くなってやがる」
曲湾師がうっすらと目を細め、眉を上げた。
「へえ……お前がそこまで言うか」
「今回はな」
短い会話。けれど、車内で「俺は怖いぞ」と笑った霧島が放つその言葉には、十分すぎるほどの説得力があった。
天宮がデスクの端末を乱暴に閉じた。バチン、と重い音が響く。
「十五層への再遠征計画を、大幅に前倒しします」
「いつですか」
私が一歩前に出る。
「このダンジョンの消滅予測は本来二十三日後でした。ですが、現在の増殖率だと十日を切る可能性があります。三日後に行きましょう」
早い。
けれど、部屋にいる誰も、その決定に反対の声を上げる者はいなかった。
十五層。壁の向こう。形のない何か。
それは今この瞬間も、私たちの理解の及ばない領域で、少しずつ変化を遂げている。
理由は分からない。正体も分からない。
ただ一つだけ確かな事実が、私たちの背中を鋭く突いていた。
――世界は、待ってはくれない。
その日の夜。
私は宿舎の窓から空を見上げた。
《白虹》を使う。
世界から色彩が抜け落ち、モノクロの夜空が広がる。
雲よりも遥か高い場所。今日も、あの圧倒的な存在はそこにいた。静かに、何も語らず、ただ絶対的な事実として、そこに座している。
何も変わらない。何も語らない。ただそこにいる。
――本当に?
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
十五層の壁の向こうにあった、形のない、けれど圧倒的な質量を持った何か。
夢喰いが「最初からあそこにある」と言ったもの。
あれと、空に浮かぶあの巨大な存在は、本当に無関係なんだろうか。
私は、じっと空を見た。
当然。答えは返ってこなかった。




