始まり
五島先生が来たのは、翌々日だった。
黒城が「手配しました」と言って。
その二日後。
医務室の扉が、ノックされた。
「入ります」
扉が開く。
黒いジャケット。
短い髪。
少しだけ疲れた顔。
五島先生だった。
先生は部屋へ入って、私を見た。
一秒。
二秒。
それから。
「……大きくなった?」
「二週間くらいしか経ってないですよ」
「そうね」
先生は笑った。
「帰ってこなかったらどうしようと思った」
「そんなにですか」
「毎日思ってたわよ」
泣きそうな顔で、笑った。
私は少しだけ迷って。
《白虹》で、先生を見た。
瞬間。
先生の輪郭に、うっすら何かが見えた。
線じゃない。
もっと違う。
強さの痕跡、みたいなものだった。
元Aランク探索者。
その経歴が、身体に刻まれているみたいに。
「……どうしたの」
先生が首を傾ける。
「いえ」
私は少しだけ考えた。
「先生って、強いですね」
「急に何」
「なんとなく、見えた気がして」
先生は少しだけ目を細めた。
「……《白夜》の力?」
「たぶん」
「へえ」
先生は笑った。
今度は、泣きそうじゃない笑い方だった。
「面白そうな力ね」
「まだ全然分からないですけど」
「分かっていくわよ」
先生は私の方へ近づいてくる。
そして。
ぎゅっと、抱きしめてきた。
思ったより力が強かった。
「……っ、先生、元Aランクだから力が」
「うるさい」
「痛いです」
「うるさい」
それでも。
しばらく、離れなかった。
私も、離れなかった。
胸の奥が、じわり、と熱かった。
感情が。
ちゃんと、戻ってきている。
椅子を並べて、二人で座った。
先生は管理局から渡されたらしいファイルを持っていた。
「説明は受けたわ」
「どこまで?」
「《白夜》になったこと。探索者として活動したいこと」
「そうですか」
「……《勝負師》は」
「なくなりました」
先生の目が、少しだけ揺れた。
「辛くなかった?」
「辛かったかどうか、分からないです」
正直に答えた。
「ありがとうって思いました。最後に」
「……そう」
先生は視線を落とす。
「覚醒した日のこと、覚えてる?」
「覚えてます」
「あの時の零ちゃん、すごく怖い顔してたわ」
「そうですか」
「でも」
先生が顔を上げる。
「今は違う」
私は少しだけ考えた。
「……怖いですよ、まだ」
「何が」
「《白夜》の使い方も分からないし、深層のこともまだ全部知らないし」
一拍。
「でも」
「でも?」
「怖いまま、やれる気がします」
先生は少しだけ黙った。
それから。
「誰かに聞いた言葉?」
「曲湾師って人に」
「どんな人」
「空間が歪む人です」
「……管理局にはそういう人が多いのね」
「多いです」
先生は苦笑した。
「探索者になるのね、本当に」
「なります」
「一人じゃないんでしょ」
「パーティがあります」
「誰と」
「曲湾師と、夢喰いという子と」
「夢喰い?」
「説明が難しい子です」
先生は少しだけ考えた。
「……信頼できる人たち?」
「はい」
即答だった。
先生は、それだけで納得したみたいだった。
「分かった」
「え?」
「止めない、ってこと」
私は少しだけ目を丸くした。
「止めないんですか」
「止めても行くでしょ」
「……まあ」
「それに」
先生が、私を見る。
元Aランク探索者の目だった。
「あなたには、向いてる気がする」
「そうですか」
「なんとなくだけど」
なんとなく。
でも。
その言葉が、妙に嬉しかった。
「また会えますか」
「当たり前でしょ」
先生は立ち上がる。
「ダンジョンで死んだら許さないから」
「物騒ですね」
「探索者あるあるよ」
扉の前で、先生が振り返った。
「零ちゃん」
「はい」
「白い髪、似合ってるわよ」
胸の奥が、ぽん、と温かくなった。
「ありがとうございます」
「じゃあね」
扉が閉まった。
一人になった部屋で。
私は窓を見た。
青い空。
雲が少し、流れている。
その日の夕方。
天宮が医務室へ来た。
いつもと同じ。
よれた白衣。
手にマーカー。
でも。
今日は端末を持っていなかった。
「珍しいですね」
「計算を止めてきました」
「珍しい」
「たまには止めます」
天宮は椅子を引いて座る。
前髪の隙間から、こちらを見た。
「探索者登録、進めています」
「ありがとうございます」
「《白夜》は未登録職業なので、特例扱いになります」
「大変ですか」
「私が全部やるので大丈夫です」
「ありがとうございます」
「あと」
天宮が少し迷う。
「初代のことも、身元を作っています」
「初代の?」
「十数年前から存在が止まっていたので」
そうか。
初代には、現実の記録がない。
「……大変じゃないですか」
「大変です」
「すみません」
「謝らなくていいです」
天宮は少しだけ考えた。
「計算外を処理するのも、私の仕事です」
「そうですか」
「そうです」
天宮が立ち上がりかけて、止まった。
「一個だけ聞いていいですか」
「何ですか」
「《白夜》になってから、何か見えますか」
私は窓を見た。
「《白虹》で、うっすら何かが見えます」
「何が」
「まだ分からないです」
「そうですか」
天宮は少しだけ考えた。
「……楽しみにしています」
「また計算するんですか」
「します」
「計算できないのに」
「計算できなくても、します」
天宮は真顔だった。
「それが私の仕事なので」
扉が閉まった。
夜。
初代が起きていた。
ベッドに座って、窓を見ている。
「眠れないんですか」
「外を見てた」
「何か見えますか」
「星が、少し」
曇りが取れたのか。
私も窓を見た。
確かに。
小さな光が、いくつか見えた。
《白虹》で見ると。
星の間に、うっすら何かが混じっていた。
深層の気配じゃない。
もっと遠い。
もっと、静かな何か。
意味は分からない。
でも。
怖くなかった。
「……何か見えるか」
初代が聞く。
「見えます。でも何か分からないです」
「そうか」
「初代には見えますか」
「俺には見えない」
初代は星を見たまま言う。
「でもお前には見える」
「それが《白夜》なのかもしれないですね」
「そうかもしれない」
沈黙。
星の光が、静かに瞬いていた。
「外に出たら、何をしたいですか」
私が聞くと。
初代は少し考えた。
「夢喰いと、飯を食いたい」
「飯を」
「ちゃんとした飯を」
「それだけですか」
「それだけじゃないけど」
初代は星を見たまま言う。
「まず、それだけでいい」
シンプルだった。
十数年間、向こう側にいた人の最初の願いが。
ただ、一緒に飯を食うこと。
「……手配しましょうか」
「管理局の飯じゃなくていいか?」
「外の店を探します」
「黒城が許可するか」
「交渉します」
初代は少しだけ笑った。
「強いな」
「曲湾師に言われました」
「なんて」
「怖いまま、やれる気がするって」
初代は黙った。
しばらくして。
「そうだな」
それだけ言った。
窓の外。
星が、少しだけ増えた気がした。
翌朝。
黒城が来た。
「水瀬零。探索者登録の手続きが完了しました」
「早いですね」
「天宮が徹夜しました」
「……ありがとうございます」
「本人に言ってください」
黒城は端末を操作する。
「本日より、あなたは管理局直属特例探索者として活動できます」
「直属って、自由はありますか」
「あります。ただし定期報告が必要です」
「分かりました」
「ダンジョンへの初回潜入は、来週以降を推奨します」
「なんで」
「身体の回復と、《白夜》の感覚に慣れる時間が必要です」
「《白虹》の練習を先にしてください」
「どうやって」
「見えるものを、記録してください」
「何が見えて、何が見えないか。それだけでいい」
黒城は端末を閉じる。
「最初から全部分かる必要はありません」
初代と同じことを言った。
「……分かりました」
黒城が扉へ向かう。
その背中に、私は聞いた。
「黒城さん」
「なんですか」
「これからも、関わってもらえますか」
黒城は少しだけ止まった。
「直属なので」
「そうじゃなくて」
一拍。
「……個人的に」
黒城は振り返らなかった。
でも。
「当然です」
それだけ言って、扉が閉まった。
私は少しだけ笑った。
《白虹》の感覚が、視界の端で静かに揺れる。
まだ、使い方が分からない。
でも。
分かっていくんだろう。
少しずつ。
ゆっくりと。
確かに。
窓の外。
今日も、青い空だった。
私の髪は、生まれつき白い。
その白に、名前がある。
《白夜》。
まだ何も分からない。
でも。
始まった。




