戻る理由
三日。
部屋に戻ってから、その数字だけが頭の中をぐるぐるしていた。
ベッドに横になって、天井を見る。
封印術式が低く唸っている。
白い照明が変わらない明るさで照らしている。
三日。
「……短いな」
呟いても、誰も答えない。
視界の端で、赤黒いウィンドウが静かに点滅していた。
――【鍵照合:進行中】
消えない。
昨日から、ずっと。
コンコン。
扉がノックされた。
「開いてます」
隔壁が開く。
白衣。
よれたシャツ。
眠そうな目。
曲湾師だった。
「起きてたか」
「起きてました」
曲湾師は部屋へ入り、いつもの壁へ背中を預ける。
右腕の処置跡が、昨日よりさらに薄くなっていた。
「天宮に会ったんだろ」
「会いました」
「うるさかっただろ」
「最初だけ」
「あいつ、大事な話になると急に静かになるから」
「なりましたね」
曲湾師は少し笑った。
沈黙。
でも。
嫌な沈黙じゃなかった。
「……三日、って言われました」
私が言うと。
曲湾師の笑いが、少しだけ消えた。
「知ってる」
「知ってたんですか」
「天宮から聞いた」
曲湾師は天井を見る。
「お前が面会する前に」
「……先に言ってくれればよかったのに」
「言ったら、どうした」
返せなかった。
どうしていたんだろう。
何かが変わったかというと、たぶん変わらなかった。
「……そうですね」
私は手を見る。
指先が、少し冷たい。
「ねえ」
曲湾師が、壁から背を離す。
床に腰を下ろした。
珍しい姿勢だった。
「前に言ったこと、覚えてるか」
「何を」
「怖くなくなったら声かけろって」
ああ。
覚えていた。
「その時が一番危ない、って」
「ええ」
曲湾師は膝の上で手を組む。
「今、怖いか」
少しだけ考えた。
「……分からないです」
「感情のせいか」
「それもあるし」
視界の端でウィンドウが点滅する。
「怖くないのか、怖さを感じられないのか、自分でも判断できない」
「そうか」
曲湾師は少しだけ黙った。
「それ、正直に言えるうちは大丈夫だ」
「どういう意味ですか」
「本当にヤバい時は、怖くないことに気づかない」
ぞわり、とした。
「……曲湾師って」
「ん」
「覚醒した時、怖かったですか」
少し長い沈黙。
曲湾師は天井を見たまま答えた。
「怖かったな」
「でも今は」
「今も怖いぞ」
意外だった。
「……そうなんですか」
「空間が歪むのが自分でも分かるんだよ」
曲湾師は片手を見る。
「気を抜くと、周りのものが変な形になる」
「常に気を張ってるんですか」
「張ってる、というより慣れた」
慣れた。
その二文字が、妙に重かった。
「怖くなくなったわけじゃない」
曲湾師は続ける。
「怖いまま、続けてる」
部屋に静けさが落ちる。
私はベッドの上で膝を抱えた。
「……私、戻りたいんですよね」
気づいたら、口から出ていた。
曲湾師が、こちらを見る。
「扉から、ですか。それとも」
「全部から」
一拍。
「日常に。探索者として、普通に。
ここじゃない場所へ」
曲湾師は少しだけ目を細めた。
「それ、覚えとけよ」
「え」
「向こう側に行く時」
声が、少し低くなった。
「人間側に引っ張るもんが必要だ」
「……錨、ってこと?」
「そういうこと」
夢喰いが「名前を忘れないで」と言ったのを思い出す。
向こう側に引き込まれる時。
自分を繋ぎ止めるものが要る。
「戻りたい場所を、ちゃんと持っとけ」
曲湾師はそれだけ言った。
私は窓のない部屋を見回す。
白い壁。
封印術式。
冷たい照明。
戻りたい場所。
ここじゃない。
脳裏に、ふと浮かぶ。
雨の校庭。
保健室の白い天井。
震える手で肩を掴んでくれた人。
「……先生、どうしてるかな」
思わず、声が漏れた。
曲湾師が少しだけ眉を上げる。
「五島さんか」
「会えますか」
「俺には分からん。黒城に聞けば」
「……そうですね」
五島先生は、今も学校にいるんだろうか。
あの日から、学校はどうなったんだろう。
ゲートが発生して、モンスターが出て。
生徒たちは無事だったんだろうか。
考えてみると、何も知らないことに気づく。
あの日から、外のことを何も聞いていなかった。
「……管理局に来てから、外のことを何も知らないな」
「知りたいか」
「知りたいです」
曲湾師は少し考えた。
「黒城に話す。たぶん何か手配できる」
「ありがとうございます」
「別に」
曲湾師は立ち上がる。
床に座ったのが珍しかったので、少しだけ新鮮だった。
「三日あるから」
壁に背中を預けながら、気怠そうに言う。
「今日明日は、戻る理由を集めとけ」
「戻る理由」
「いっぱいある方がいい」
曲湾師はそれだけ言って、扉へ向かう。
「曲湾師」
振り返る。
「その理由、一個あります」
「何」
「ここに戻ってきたら、曲湾師に礼を言おうと思ってたので」
曲湾師は数秒だけ黙った。
それから。
小さく、ぶっきらぼうに言った。
「礼はいらん」
「言いますよ」
「……好きにしろ」
扉が閉まる。
一人になった部屋で。
私は口元に手を触れた。
……笑っていたらしい。
自分では、よく分からなかった。
感情がなくなりかけている。
怖いのかどうかも分からない。
なのに。
笑えた。
赤黒いウィンドウが、静かに点滅する。
――【感情残滓を確認】
「うるさい」
呟く。
でも。
今は少し。
その文字が嫌いじゃなかった。
残滓でいい。
残ってるなら、それでいい。
私は目を閉じる。
戻る理由。
曲湾師。
夢喰い。
黒城。
天宮。
そして。
雨の中、震えながら肩を掴んでくれた人。
「……先生」
小さく呟く。
返事はない。
でも。
胸の奥が、少しだけ温かかった。




