名前を呼んで
翌朝。
黒城が来たのは、午前九時だった。
「五島さんへの連絡、手配できました」
開口一番だった。
「……早いですね」
「曲湾師から聞きました」
そういうことか。
黒城は端末を操作しながら続ける。
「ビデオ通話で十分間。管理局の回線を使いますので、内容は記録されます」
「分かりました」
「学校側には、あなたが管理局の保護下にあることだけ伝えています」
「怪我とか、そういうことは」
「伝えていません」
「ありがとうございます」
黒城は少しだけ黙った。
「礼には及びません」
「でも言います」
黒城は何も言わなかった。
でも。
端末を操作する指が、少しだけ早くなった気がした。
通話が繋がった瞬間。
「零ちゃん!!」
画面の向こうで、五島先生が身を乗り出した。
「……先生」
「無事なの!? 怪我は!? ちゃんと食べてる!? 眠れてる!?」
「一個ずつ聞いてください」
「全部心配なのよ!!」
五島先生の目が、少し赤かった。
泣いていたのか、それとも今泣きそうなのか。
「無事です。怪我もないです。食事は出てます。昨日は眠れました」
「ほんとに?」
「ほんとに」
先生は、大きく息を吐いた。
肩が、ゆっくり落ちる。
「よかった……本当によかった……」
その声が、思ったより小さかった。
胸の奥が、じわり、と痛む。
感情を失いかけているはずなのに。
この人の声だけは、ちゃんと届く。
「先生こそ、大丈夫ですか」
「私は大丈夫よ」
「学校は」
「ゲートの後始末で一週間休校だったけど、今は再開してるわ」
「生徒たちは」
「全員無事。怪我人も軽傷で済んだ」
よかった。
本当に、よかった。
「あなたのことを心配してた子、何人かいたわよ」
「……私のこと知ってる人なんているんですか」
「白髪の子が倒れたって、結構話題になってたから」
「なんか嫌な話題だな……」
先生が、少しだけ笑った。
画面越しでも分かる、保健室での笑い方だった。
「ねえ先生」
「なに?」
「終わったら、また会えますか」
少しだけ沈黙。
先生の目が、また少し揺れた。
「当たり前でしょ」
声が、震えていなかった。
ちゃんと、真っ直ぐ言ってくれた。
「待ってるから」
「……はい」
「絶対に、戻ってきなさい」
絶対に。
その言葉だけが、胸の奥に深く刺さる。
「……はい」
もう一度、答えた。
十分間が、終わった。
夜。
夢喰いが来た。
いつもと同じ。
隔壁の隙間から静かに滑り込んで、ベッドの横に座る。
でも。
今夜は少し違った。
夢喰いの表情が、いつもより静かだった。
『明日?』
「明日だと思います。三日目」
夢喰いは膝を抱えたまま、床を見る。
黒い髪が、肩の前へ垂れた。
「……夢喰いって」
『ん』
「向こう側に行ったことある?」
少しだけ間があった。
『ある』
「深層に?」
『もっと前』
もっと前。
その言葉が、妙に引っかかった。
「どういう意味ですか」
夢喰いは少しだけ考えた。
『ここに来る前、深層にいた』
呼吸が止まりかけた。
「……いた?」
『長い間』
「どうやって出てきたの」
夢喰いは答えない。
その代わり。
ゆっくりと、私を見た。
黒紫の瞳の奥に、何かが揺れている。
『引っ張り出してもらった』
「誰に」
また沈黙。
今度は長かった。
夢喰いは視線を落として、自分の手を見る。
小さな手だった。
『白い髪の人』
世界が、静かになった気がした。
「……初代《勝負師》?」
夢喰いは小さく頷いた。
「扉の向こうにいる人が、夢喰いを出してくれたの?」
『ずっと前に』
「なんで」
夢喰いは少しだけ考えた。
『一人にしたくなかったって』
一人にしたくなかった。
深層の中で、一人でいた夢喰いを。
「……その人、まだ向こうにいるんだよね」
『うん』
「どんな人だった」
夢喰いが、初めて少しだけ表情を変えた。
笑いとも、泣きそうな顔とも違う。
何かを大切にするみたいな顔だった。
『やさしかった』
一言だけ。
でも。
その一言で、全部分かった気がした。
「……私、その人に会いに行くよ」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
夢喰いがこちらを見る。
「会って、ちゃんとお礼を言いたい」
『お礼?』
「夢喰いを助けてくれたことと」
視界の端で、赤黒いウィンドウが静かに揺れる。
「鍵でい続けてくれたことと」
一拍。
「……それだけじゃ足りない気がするけど」
夢喰いは少しだけ目を細めた。
『零らしい』
「そうですか」
『うん』
沈黙。
でも。
温かい沈黙だった。
「夢喰い、一個頼んでいいですか」
『ん』
「向こう側に行く時、また名前を呼んでくれますか」
夢喰いは少しだけ考えた。
そして。
静かに頷いた。
『何回でも』
「ありがとう」
夢喰いは何も言わなかった。
でも。
そっと、私の手に触れた。
冷たい手。
いつもと同じ。
なのに。
今夜は少しだけ、温かい気がした。
目を閉じる。
赤黒いウィンドウが、視界の奥で静かに点滅している。
――【鍵照合:最終段階】
明日
三日目。
でも。
今夜は。
その文字が、遠かった。




